第一七五話 メーデー! なお話
電気が復旧してから数日は、何事もなく平和な日々が過ぎていった。感染者や暴徒の目撃情報もなく、埋め立て地防衛のための壁を建設する作業も着々と進む。元団員たちに対する住民らの風当たりも弱まり、一触即発といった事態は避けられた。
電気が使えるようになったのが、その大きな要因の一つだろう。今までは電気が自由に使えないために、色々と不便な生活を送ってきた。だが今はシャワーを浴びれるし、風呂にも入れる。空いた時間に映画などを見て、心にゆとりのある生活を送ることだってできる。
少年も電気のある生活の恩恵を受ける一人だった。埋め立て地の対岸の陸地で進められる壁の建設作業は、厳しい寒さの中でも進められる。寒さで冷え切った身体には、温かい風呂が一番だ。他にもマッサージ機を動かして疲れを取ったり、皆で映画を見て親睦を深めたりと、電気のある生活はプラスのある影響をもたらしている。
太陽光発電を行っているので、貴重なガソリンや灯油を節約することも出来た。燃料は車両を動かすために優先的に回されているので、暖房や照明用にガソリンを使わずに済んだのは物資の節約に大いに貢献した。同胞団の拠点から持ち出してきた電動のトラックや商用バンなどはあるものの、航続距離や積載量の問題から、やはり大量の物資を輸送するには従来の内燃機関車を使う必要がある。ガソリンはタンクローリーごと同胞団の拠点から持ち出してきたとはいえ、節約できるに越したことはない。
その日も壁の建設任務に従事した少年は、シャワーで汗を流し食事の配給場所であるフードコートに向かっていた。ここ最近は食糧事情も改善され、保存食が中心であるものの十分な栄養価のある食事が提供されるようになってきている。住民たちも今まで同胞団への上納用に育てていた野菜などを供出しているため、食事の量も多くなった。
今日の食事は何だろうか、と少年は夕食を心待ちにしていた。やはり毎日の楽しみと言えば食事だ。食事を楽しめると言うことは、それだけ心にもゆとりがあると言うことだ。
「あっ、いたいた! 急いで警備室まで来てください!」
あと一つ角を曲がればフードコート、というところで、少年は背後から誰かに呼び止められた。自動小銃を肩から下げたハンだった。
「え? でもこれから夕食…」
「佐藤さんが呼んでます。何でも緊急の要件だとか」
「でも食事…」
「いいから来てください」
ハンに腕を掴まれ、強引に警備室の方へと引きずられていく。あと少しで夕食にありつけたのに。少年の腹が鳴り、空腹感がさらに増した。
少年がハンに連れられて警備室にたどり着くと、既に佐藤をはじめとした数名が集まり、アマチュア無線機の前で険しい顔をしている。無線機のマイクを握った伏見が、何事か問いかけていた。
「何があったんです?」
「この前通信してきた生存者たちがいただろう? 彼らが感染者の群れに襲われて助けを求めている」
「そりゃ、緊急事態ですね」
既に佐藤は武装を整えていた。伏見が無線機で生存者たちと何事か言葉を交わし、佐藤に向き合う。
「今すぐ助けに来てほしいと言ってます。車両は事故って行動不能、これから近くの建物に避難すると言って通信が切れました」
「そいつらは本当に救援を求めてるのか? こっちを誘い出すための罠じゃないのか?」
千葉が怪訝そうな顔をしたが、伏見は首を横に振る。そして先ほどまで録音していたという会話の内容を再生した。
『頼む、早く救援を! こちらは子供が多く、自力での移動は不能! 車両は故障して動けない…畜生、奴らが来たぞ!』
若い男の声は確かに聞き覚えがあった。先日この辺りまでやってきたという、子供を大勢連れていた元教育実習生のリーダー格だった男だ。背後では散発的な銃声と、子供たちの泣き声が聞こえている。なるほど、子供を連れているというのは確かな話なのだろう。よく耳を澄ませば、感染者の咆哮らしき音も聞こえる。
『頼む助けてくれ! こちらの場所は―――』
千葉が地図を広げ、男が告げてきた場所を探す。ここから25キロほど離れた場所にある、市街地の中だ。そこにあるビルの近くで車が故障し、彼らは建物の中へと逃げ込んだらしい。無線機は放棄された車に積まれていたのか、こちらがいくら呼びかけても応答がない。
「皆に集まってもらったのは他でもない、この救援要請にどう対応するか協議するためだ」
録音の再生が終わり、佐藤が口を開く。警備室には住民たちや元団員ら、各グループの代表格のメンバーが集まっていた。ここでは民主制が取られているので、何か問題が発生した場合には全員で協議して物事を決めることになっている。だがこういった緊急事態では、数名ごとに分けた班の班長らが集まって、対応を決定することになっていた。
「どう対応するかっていうのは、救助に向かうか、見捨てるかってことですよね?」
10代女子グループのリーダーである亜樹が口を開き、佐藤が頷く。
「状況は一刻の猶予もない。彼らの武器は乏しいし、戦える人間も少ない。今すぐ対応を決めなければ、彼らは長い間保たないだろう」
「そりゃあ、助けるに決まっているでしょう。もっとも、直接戦えるわけじゃない私らが偉そうに言えたことじゃないけど…」
元から埋め立て地にいた、住民たちの代表が口を開く。彼らの大半は中高年で、若者が中心の元団員たちに比べれば、体力でも運動能力でも劣るし、何より本格的な戦闘経験はない。連れて行っても足手まといになる未来が見える。
となると戦力となるのは元団員たちだが、彼らも険しい顔をしていた。
「助けたいのはやまやまなんだが…彼らを助けた場合、物資の消費はもっと早くならないか?」
同胞団の拠点から持ち出してきた物資の量は多いとはいえ、それでも今の人数では3か月もすればなくなってしまうというのが現在の予想だった。そこに子供が大半とはいえ20人近くを受け入れたら、その消費スピードはさらに増えるだろう。団員たちが懸念するのも当然のことだった。
「それに夜の街は危険だ。今から行ったところで、助けられるかどうかもわからない」
「ああ。もしかしたらもう…」
そもそも顔も名前も知らない連中のために、感染者が多い市街地へ向かい、自分たちの命まで危険にさらすことはない。誰も言葉にはしていないが、そう言いたげな目をしていた。行ったところで手遅れかもしれない。だったらここで何も聞かなかったことにして、これまで通りの生活を送った方がいい――――――。
「いや、助けに行こう」
誰も何も言わない中、救援要請を見捨てる雰囲気になりかけたその時、元団員の一人が口を開いた。彼は同胞団の拠点が感染者の群れによって壊滅したその時、少年によって救われたものの一人だった。
「俺たちだって彼が自分の身を危険に晒してまで助けに来てくれたから、今もこうして生きていられるんだ。その俺たちが自分たちの身が危なくなるからって、ここで彼らを見捨てていいのか?」
あの同胞団にいた連中から、そんな言葉が聞けると思っていなかった少年は、その元団員を驚きの目で見つめていた。彼に同調するように、「救助に行くべき」という者が堰を切ったかのように手を上げる。最終的には救助に行くという意見が多数を占め、生存者たちのところへ向かうこととなった。
救助部隊には佐藤と少年、そして千葉や数名の元団員らが選ばれた。もし生存者たちを救助しても、その後は感染者に追いかけられる可能性もある。万が一に備えて埋め立て地付近の防衛も強化しておく必要があり、大勢を救助に向かわせることはできない。
「よし、救助部隊の皆は下の倉庫に銃を取りに行け。消音器付きのものだ。お前は狙撃支援を担当しろ」
生存者たちは感染者にすっかり包囲されていると考えられており、激しい戦闘が予想された。少年は近くのビルから佐藤率いる本隊を狙撃で支援する役割を任されており、少年は一階の倉庫を改修した武器庫で、消音器付きの自動小銃を手に取った。
以前少年が入手し使っていた、M1ライフルに手製の消音器を装着したものだった。同胞団にセーフハウスを襲撃され、佐藤と一緒に脱出した際に置いてきてしまったのだが、その後同胞団が回収して彼らの武器庫に放り込まれていたのを取り戻したのだ。既にスコープの調整は済んでいる。
今回求められるのは精密な狙撃ではなく、感染者を遠方から安全に排除することだった。だから少々命中精度が劣っていたとしても、速射性のあるライフルの方が適している。遠距離から針穴を通すような狙撃が必要であれば佐藤が狙撃手を担当していたのかもしれないが、今回佐藤は生存者たちが避難したビルに突入し、彼らを救助する本隊のリーダーを担当していた。
他にも予備の弾倉や拳銃、発炎筒、トラップ用のワイヤーなどを用意し、手早く身に着けていく。それらを纏めた装具はずっしりと重かったが、今の少年にとってはさほど問題はなかった。
救助部隊が帰還した際に備えて、当直で見張り番をしていた者たち以外にも、就寝していた住民たちにも非常呼集が掛けられる。寝ぼけ眼をこすりつつも彼らは保護した子供たちを出迎えるために料理を作り始めたり、慣れない銃を手に応援として見張り台へと向かう。
「急げよ!」
埋め立て地と陸を繋ぐ吊り橋を渡った先、バリケード等を築いて防衛拠点を構築した壁の中では、数台の車両が既に移動の準備を整えていた。今回の救援にはパワーがあり、悪路も走れる車が必要だと言うことで、いつもの電動車両は使えない。
代わりに低速であれば電動走行が可能なハイブリッド車のミニバンが使われることになった。ミニバンは物資や人員の輸送用に運転席と助手席以外のシートが全て取り外されており、定員よりも多くの人数を乗せることが出来るよう改造されていた。シートが無いので乗り心地は最悪だろうが、今回は20人近くを救助しなければならない以上、他に手段がない。文句を言っていられる状況でもないだろう。
少年は装備の詰まったリュックを放り込むと、そのまま開かれたままのスライドドアから荷室へと転がり込んだ。ドアが閉まらないうちに運転席の千葉が車を発進させ、車列は外部と埋め立て地を中心とする安全地帯を隔てる壁へと向かう。
壁で待機していた数名の自警団員が、大きな観音開き式の鉄扉を開き、車両一台が通れる分の隙間を開ける。そこを通り過ぎると、その先にももう一つの扉。外部からの侵入リスクを抑えるために、扉は二重に設けられていた。外のスライド式の鉄扉が開き、数台のミニバンが僅かなモーター音を発しながら、ヘッドライトも点けないまま夜の街へと走り出す。
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