第一六九話 デイ・オブ・ザ・デッドなお話
その日の食事はスパゲッティだった。茹でた乾燥麺にトマトホール缶で作ったトマトソースを混ぜ合わせただけの代物だったが、このご時世では上等な食事と言えた。もちろん食材は全て、同胞団の拠点から持ち出してきたものだ。
「こんなもの食べられるの、いつぶりかな…」
長いことまともな食事もできていなかったらしい埋め立て地の住民の中には、スパゲッティを食べながら涙を流す者さえいた。元々埋め立て地のショッピングモールにあった食料や、街に残されていた食料も残らず同胞団に徴収されていたせいだ。そのため埋め立て地の住民たちは魚を釣ったり鳥を捕まえたり、酷い時にはネズミまで捕まえて食べていたようだ。
彼らが喜んで食べるのも当然だった。お代わりこそないものの、これまでの苦難の代償として、少し大盛にして料理は振舞われている。
同胞団の拠点から救助した者たちについては、他の団員たちと同様住民たちとは分けて拘束している。医者については監視付きで行動の自由を認めることとなった。証言を聞く限り医者が積極的な殺人に関与していたという事実はなく、またそのスキルは有用だということで、住民たちの役に立ってもらうこととなった。
救助した人物の中には、他にも技術者が二人ほどいた。一人は電気工事関係の資格を持ち、同胞団の拠点で電力の供給に携わっていたらしい。もう一人は金属加工の技術があり、同胞団の装備する銃火器に、手製の消音器を取り付けていたようだ。少年と佐藤のセーフハウスを襲撃した団員たちが所持していた短機関銃の消音器も、彼が作ったらしい。
医者と技術者の3名については、他の団員たちとは扱いを変えることにした。また今回物資調達に貢献した伏見についても、医者と同様監視付きではあるが行動にある程度自由を与えることとなった。他の団員たちについては当面拘束を続けるものの、協力する姿勢を見せた者については自由を与えていく。監視するのにも人手はかかるし、何より今はどこも人が足りていない。マンションの一室に閉じ込めたままにしておくよりも、こちらに敵対しないというのであれば、ぜひとも仲間になってほしい状況だった。
「食べないの?」
スパゲッティの盛られた皿を片手にそう聞いてきたのは亜樹だった。少年たちが物資調達に向かっている間、彼女たちは住民たちの主な生活拠点となっているショッピングモールの修繕作業を行っていたらしい。埃で顔は汚れていたが、元気そうだった。
「いや、食べる。食べるけど…」
少年はスパゲッティに目を落とした。トマトソースは血のように赤く、申し訳程度の具として入れられたコンビーフの筋肉は、まるで引き千切られた人間の筋繊維のように見えた。それを見た途端少年は裕子の末路を思い出し、思わず口元を抑えた。
「ちょっと、大丈夫? お医者さん呼んでこようか?」
「いや、大丈夫、大丈夫だ。なんでもない」
「どう見たってなんでもないわけないでしょ。何かあったんでしょ?」
亜樹たちは裕子が死んだということは知っている。だが、その先は知らない。彼女の遺体が粉砕されて堆肥にされ、畑に撒かれたという凄惨な事実を知らない。彼女たちも食べていた野菜が、死体で作られた肥料で育てられたということを知らない。
少年たちは、敢えてその事実を伏せたままにすることにした。元々死体を肥料として再利用していたことを知っているのは、救助した医者を含めてごく少数だ。元々死体を肥料にする仕事は捕虜や同胞団の中でも価値がないと判断された者たちに押し付けられており、それらの人々も人体実験や口減らしとして殺されて自らも肥料になるか、拠点に侵入した感染者たちに殺されていた。少年たちが口を噤んでいれば、誰も自分たちが死体で育てた野菜を食べていたという事実を知らずに済む。
その方がいいだろうと少年も思っていた。そんな残酷な事実を知らせたところで、良いことなんて一つもない。計り知れない精神的なダメージを与えてしまうだけだ。特に亜樹たちには絶対知られてはならなかった。自分たちの尊敬する先生が死んだだけでなく、遺体が粉砕されて自分たちの食事を作るために利用されていたなんて、あまりに残酷だ。
「ねえ、何かあったんでしょ? あまり頼りにならないかもしれないけどさ、私に何とかできる範囲の話だったら相談に乗るよ?」
親切心からの言葉だろうが、今の少年にとっては余りにもつらい言葉だった。こんなこと、とても彼女たちに相談出来ない。元々裕子の命を奪ったのは自分なのだ。その上彼女たちにこれ以上の凄惨な事実を付きつけたくはない。裕子が死んだ、彼女たちが知るのはその事実だけで十分だ。
「いや、本当に何でもないから。大丈夫」
「…そう。あんたがそこまで言うなら…」
そう言うと亜樹は椅子に座った。ショッピングモールのフードコートは住民たちの食事の場となっており、そこかしこで笑顔でスパゲッティを口に運んでいた。久しぶりのまともな食事に、誰もが喜んでいるようだった。
しかし喜んでばかりもいられない。今回拠点から持ち出せた食料は、需要に比べるとほんの少しだ。何もしなければ、節約してもすぐに再び食料不足に陥ってしまう。少年たちは近いうちに、再び同胞団の拠点へと物資調達に向かうことになっていた。
「そういえば、腕は大丈夫なの?」
「まだ少し痛いけど、動かす分には問題ない」
少年はそう言って、上着の左裾を捲った。腕には包帯が巻かれているが、傷はほとんど塞がっている。出血もなく、動かすと痛いが、それだけだった。
団長と戦った際、彼にマイナスドライバーで刺された傷だ。この傷は問題なく治るだろうが、きっと刺された痕が一生残るだろう。亜樹を助けるために無理やりマイナスドライバーを引っこ抜いた際に、折れ曲がった先端部分が引っ掛かって傷口が広がってしまった。この傷跡を見る度に、団長のことを思い出すに違いない。そして彼の所業を、それを止められなかったという後悔を一生抱き続けるのだろう。
それにしても、自分勝手なものだと少年は思った。これまで死体ならいくつも見てきた。感染者に食い殺されて、男女の区別もつかなくなったもの。戦車砲や重機関銃に撃たれ、バラバラになったもの。化学兵器による無差別殺害で折り重なるように倒れ、苦しみ悶えた表情が顔に張り付いているもの。爆撃を受けた町で黒焦げになったもの。いくらでも酷い状態の死体を見たことがある。
しかし少年はそれらの死体を見ても、何も感じなかった。酷い状態だと思うことはあっても、怒りや悲しみを抱くことはなかった。なぜならそれらは、少年の知らない人々の死体だったから。多くの人が死んだという事実がそこにあるだけで、死体がどのような状態であるかというのは重要ではなかった。だから少年はこれまでどんな場所でどのような死体に遭遇したとしても、埋葬したり弔ったりすることはなく、そのまま置き去りにしてきた。
そのような死体は街にいくらでも転がっている。野良犬や鳥に食われ、あるいは風雨にさらされ腐敗し、白骨化しバラバラになった死体がそこら中に転がっている。今や死体は街に転がる空き缶やペットボトルと同じく、風景の一つと化している。そんな死体を見ても、もう少年は何も思わない。
だが裕子の死体が粉砕されて畑に撒かれたと聞いた時、団長に怒りが湧き、そしてその原因を作ってしまった自分を酷く責めた。今まで他人の死体がどうなろうがほとんど気にならなかったのに。
世界がこうなってしまうまで、死とは少年にとって最も縁遠いものだった。祖父母は未だに健在だったし、身の回りで誰かが死んだこともない。死とはドラマやニュースを通してしか知ることが出来ないものだったが、それでも少年は人の死は厳かであり、丁寧に扱われなければならないことだということは知っていた。
だが今の世の中では死はそこら中に転がっているものでしかなかった。死体は腐るに任せ、埋葬なんてする暇もない。死体に尊厳などなくなっている。
だから裕子の死体が肥料にされたということも、そこまで気にすべきことではないのかもしれない。少年は裕子の死を、自分が殺したという事実と共に受け入れていた。だが彼女の死が同胞団によって辱められたことは、いつまで経っても頭から離れない。
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