第一六八話 ダイハードなお話
空中綱渡りにも等しい救助方法だったが、現在のところは上手く行っていた。しかし想定よりも時間が掛かってしまい、3人救助した時点で時間は4分を超えてしまっていた。皆途中で下を見てしまい、待ち受ける感染者たちを見て恐怖で止まってしまうからだ。
今のところ、一階の入り口に設置したバリケードは何とかその役目を果たしてくれている。しかし限界が近いのは明らかであり、先ほどから下の方で、何かの破壊音が聞こえてきていた。
「早くしろ、もう保たないぞ」
少年は二階の窓から感染者たちに向けて引き金を引きつつ、空中に架かった梯子の上を渡る男を急かす。医者と一緒に倉庫に立てこもっていたのは、同胞団のメンバーらしい。弾を撃ち尽くしたのか銃の一丁も持っておらず、ほとんど丸腰の状態だった。
地面から手を伸ばす感染者の数はますます増えていた。もはや要救助者を狙う感染者だけを狙う、なんて悠長なことをしている暇はなく、ほとんど弾をばら撒いているような有様だ。地面を感染者たちが埋めてくれているおかげで、適当に撃っても当たるのはいいことだが。
「よし、あんたが最後だ。さっさと来い」
4人目の救助が終わり、少年は最後まで残っていた医者を手招きした。最後まで残っていたのは医者としての使命感か、それとも恐怖で足がすくんでいたのか。しかし医者は意を決したように窓から身を乗り出すと、脚立を伸ばして作った梯子を渡り始める。
梯子の中央にあるヒンジ部分は、彼が前に進む度にミシミシと音を立てた。ガムテープで補強しているとはいえ、既に耐久性も限界に近いだろう。また、倉庫側で梯子を支える人がいなくなったために、空中の梯子は一歩進むごとに不安定に大きく揺れている。
「止まるな!」
3階から佐藤が言い、弾倉に残った銃弾をフルオートで地面に向かってばら撒いた。感染者たちは倉庫の連中が梯子を伝って事務所に移動するのを目の当たりにしており、事務所の入り口のドアへ向かって体当たりを続けている。
「よし、掴んだ!」
梯子を抑えていた伏見が医者の手を掴み、一気に部屋の中に引っ張り込む。直後、ヒンジ部分から真っ二つになった梯子が、重力に引かれて地面に落下した。重たい梯子は感染者の何体かの頭を直撃し、ばたばたと感染者たちがなぎ倒される。
「早く下に降りろ! 行け行け!」
医者たちを救助した今、ここに留まっている理由はなかった。既に佐藤は階段を駆け下りて一階の裏口に回り込んでおり、救助した連中を外へと逃がしている。少年たちが一階に降りた直後、大きな破壊音と共にバリケードがなぎ倒され、感染者たちが呻き声を上げて事務所に突入してきた。
「突破された!」
少年はそう叫び、廊下の感染者たちへフルオートに設定した小銃を発砲した。手榴弾を取り出すと安全ピンを引き抜き、そのまま床に向かって放り投げる。裏口のドアを閉めた直後、建物全体が大きく揺れた。気休めにしかならないが、閂代わりに裏口のドアの取っ手に鉄パイプを通して合流地点を目指す。しばらく走った後で、背後からドアが破壊される音が聞こえてきたが、少年は振り返らなかった。
途中で色付きのビニール紐が足首くらいの高さに張り巡らせてあったので、少年はそれを軽く飛び越えてなおも走る。一方少年を追う感染者たちはなぜそのような場所に紐が貼ってあるのかすらその意味も分からないまま前進を続け、先頭の一帯が足に紐をひっかけた。
ビニール紐の先端は、すぐ近くの柱に括りつけられた手榴弾の安全ピンに繋がっていた。先頭の感染者が紐を引っ掛けた数秒の後、爆発が感染者の群れのど真ん中で巻き起こる。鉄片でズタズタに引き裂かれ、爆風でなぎ倒された感染者たちがバタバタと倒れたが、後から続く感染者たちは同類の死に何の感情も抱かずに、肉片を踏みつけて少年たちの後を追った。
「急げ!」
息も絶え絶えな少年は、ようやく合流地点に辿り着いた。合流地点では二台の電気自動車が待機しており、既に先に逃げた連中や、千葉たちが乗り込んでいる。少年はその中の一台、普通商用車タイプの電気自動車に乗り込んだ。荷台に飛び込むようにして車に乗った瞬間、二台の車はテールゲートを開放したまま、一気に発進し加速した。
しかし逃げ去る車を目撃した感染者が何体か、車の後を追ってくる。少年と佐藤は車の荷台からカービン銃を連射し、追ってくる感染者たちに銃弾をばらまいた。銃から吐き出された薬莢が、澄んだ金属音を立てて地面に転がり落ちていく。
前回同じ場所から逃げ出した時とは違い、今回は追ってくる感染者の数は少なかった。途中で追いかけてくる感染者たちを着実に排除してきた甲斐もあったのだろうが、一番の理由は騒音の少ない電気自動車で走っているからだろう。電気自動車というと余りスピードが出ないイメージがあったが、実際に乗ってみるとそんなことはなく、モーターのレスポンスも早いおかげで内燃機関車より加速にも優れている。
揺れる車の上から狙いを定めてもろくに当たらないのは目に見えていたので、少年は感染者たちの足を狙って発砲した。頭よりもはるかに面積の大きい脚部を狙うのは容易で、足を撃ち抜かれた感染者たちが顔面からスライディングを決め、その場に崩れ落ちる。動かない足を必死に引きずり、匍匐前進をするかのように両手を使って地面を這っているが、それでは到底車列に追いつくことはできない。
「何とか振り切ったな」
佐藤がそう言い、少年はやっと休めるとばかりに荷台に放り込まれた段ボールの山に背中を預けた。車の荷台には拠点から持ち出してきた物資が山積みになっており、少年が椅子代わりにしているのは缶詰や真空パックの保存食が入った段ボールだった。その隙間に申し訳なさそうに、救助した医者と団員たちが身体を押し込んでいる。
「…感謝する」
「そこはありがとうございます、だろう」
佐藤がそう言うと、団員たちは素直に頭を下げた。皆若い。大学生くらいの年齢の者たちだった。
「あんたらは何であんな場所に?」
「感染者が侵入してきて、俺たちは武器保管所に向かうところだった。弾薬をほとんど撃ち尽くしていたが、補充すればまだ戦える。そう思ってたが、保管所に着く前に大量の感染者に囲まれちまった」
そこで、あの倉庫に籠城していたらしい。彼らは無線機で仲間たちに助けを求めたが、他の団員たちは感染者たちに食われるか、拠点から逃げ出してしまっていた。
「あのまま誰も来なかったら、俺たちは飢えと渇きで死ぬか、発狂して自殺していただろう。助けてくれてありがとう」
「僕たちはあんたらを助けたが、別にあんたらがいい人間だと思ったから助けたわけじゃない。今は武器を持ってないから何もしてないだけだ」
もし他の人間を傷つけようとすれば、その時はどうなるかわかっているな? 少年の言葉に、団員たちはゆっくりと頷いた。
「あんた、医者ってのは本当なのか?」
少年は助けた者たちの中から、一番歳が上の男にそう尋ねた。年齢は40歳くらいだろうか。白衣こそ着ていないものの、眼鏡をかけた男の風貌は確かに医者と言われても納得できるような理知的な顔つきだった。暴力に飢えている他の同胞団員たちとは何かが違う。
「ああ。正しくは医者だったというべきか…今の世の中では医師免許も何もないからな」
この男はパンデミック前は大病院で外科医をしていたらしい。
感染者が日本に現れた時、まず壊滅したのが病院だった。感染者に襲われ、怪我をした人々が向かうのは、当然病院だった。病院には多数の感染者が現れ、治療に当たっていた医師や看護師たちを次々と襲った。なので医者が生き残っていること自体、少年は驚きだった。
「あの時は必死に逃げたよ。患者だったものから逃げて、自分た助けなければならない人たちも置き去りにして…そして彼らに拾ってもらった」
彼ら、というのは同胞団のことだった。運がいいのか悪いのか、同胞団と遭遇した医者は、彼らに価値を見出されたらしい。今の世の中で、まともな医療知識を持っている人間はほとんどいない。病院が全く機能していないこの状況では、些細な怪我ですら命とりになりかねない。医療知識がある人間を同胞団が必要とするのも当然だった。
「だが間違いだったよ。重症の患者は物資と医薬品がもったいないから治療するな。戦線復帰できそうな軽傷の者だったら治療していい。そう言われた。確かにこの状況ではトリアージは必要だ。だからと言って重傷を負った者を、まるでゴミのように扱う彼らは、人を人と思っていないと感じた」
「じゃあなぜ逃げなかった?」
「…逃げてどこへ行けと? 戦えない私が生き延びる道は、彼らと行動を共にし、彼らのために働くことだけだった」
武器もない、戦えるほど力も強くない。そんな医者が生きていくためには、同胞団と一緒にいるしかなかった。同胞団でも医療知識を持つ者は他にはおらず、医者は好待遇を受けることが出来ていた。きちんと朝昼晩三回食事が用意され、安全な場所にいることが出来た。自分の心を押し殺しながら働くことで、医者はこれまで生き延びることが出来た。
二台の車はもうすぐ埋め立て地に着くところだった。エンジン音を発しないためか、途中で感染者が追いかけてくることもない。少年たちがやったような脱出行とは程遠い、安全な道程だった。
「一つ聞きたい。1か月くらい前に、腹を撃たれた20代くらいの女性が運び込まれてきたはずだ。彼女は死んだと聞いている。…遺体は埋葬されたのか?」
「埋葬なんて手間のかかることを彼らがやると思うかね? 同胞団では捕虜や役に立たない人間と判断された者を集めて、農作物を作っていた。街から物資を回収するのはいいが、新鮮な野菜が食べられず栄養素が不足するからな」
「…何が言いたい?」
「肥料だ。死んだ連中の遺体は木材破砕機で粉砕され、畑にばら撒かれる」
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