第一五八話 Revolutionなお話
少年は死んではいなかった。
薄れ行く意識の中で聞いた銃声の直後、少年の首に掛かっていた団長の両手から力が抜けた。
地面に腕を串刺しにされた少年の上に、力を失った団長の身体が覆いかぶさる。喉を万力のような力で塞いでいた団長の手が解かれ、少年は咳き込みながら新鮮な空気を大きく吸い込んだ。身体の上の重い団長を、右腕一本でどうにか押しのける。
酸欠でフラフラな頭をどうにか動かし、隣で動かない団長の顔を見た。口を半開きにした団長の左目は、真っ赤に染まっていた。どうやら銃弾が命中したらしく。眼窩からは涙ではなく、赤い血と透明などろどろした液体が流れ落ちている。
彼を撃ったのは誰だ? 少年は地面に倒れたまま周囲を見回した。
彼から十数メートルほど離れた場所に、両手で拳銃を構えた亜樹が立っていた。手にした拳銃の銃口からは硝煙が立ち上っている。どうやら、彼女が団長を撃ったらしい。
同胞団の拠点から逃がした彼女たちは今頃セーフハウスにいるものと思っていた少年は、亜樹がこの場所にいるとはこれっぽっちも予想していなかった。拳銃を構えたままの亜樹の両足は震えており、やがて彼女はその場にへたり込んでしまった。
「撃っちゃった…殺しちゃった…」
地面に叩きつけるように降り注ぐ雨音に混ざって、亜樹がうわ言のようにそう呟くのが聞こえた。何か声をかけようかと思ったが、その前にドライバーが刺さったままの左腕に激痛が走り、少年は思わず呻き声を上げた。
その声を聴いて、亜樹がびくっと驚いたように顔を上げる。彼女はまず地面に倒れた団長を見、次にマイナスドライバーによって地面に固定されている少年を見た。
「だ、大丈夫!?」
そう声を上げた亜樹を、少年は自由に使える右手で制止した。団長は倒したが、感染者の脅威が去ったわけではなかった。まだ周囲に感染者がいるかもしれない状況では、大きな声を上げれば気づかれてしまう。まだ雨も降っているし雷も鳴っているが、それがいつまで続くのかはわからない。
「…大丈夫?」
「大丈夫じゃない。めっちゃ痛い」
恐る恐るといった感じで尋ねた亜樹に、少年はそう答えた。少年は腕から生えたマイナスドライバーの柄を掴み、引き抜こうとしたが、途端に再度激痛が走りすぐに手を離した。痛みで筋肉が収縮しているせいで、抜くのは力が要りそうだった。
立ち上がり、フラフラと少年に近づいてきた亜樹は、腰を落として彼の左腕を貫くマイナスドライバーを引っこ抜こうとする。その様子を見て、慌てて少年は亜樹を止めた。
「待った。このまま引っこ抜いたら大出血するかもしれない。止血の準備をしてから抜きたい」
マイナスドライバーの先端は平らだが、地面に刺さった時に潰れてしまったかもしれない。その状態でドライバーを抜こうとすれば、傷が広がってしまう。本当ならば太い柄の部分を切断し、そのうえでまっすぐドライバーを引き抜くべきなのだろうが、その時間はない。ならばせめてすぐに止血を出来るように準備してから、ドライバーを除去すべきだろう。
「救急セットは持ってるか?」
「持ってない…コンビニには用意してあったみたいだけど」
「戻って取ってきてもらうには遠すぎるな。あっちで横転してる車の中に、それっぽい道具一式があった。見てきてくれ」
「でも…」
「頼むから」
元は同胞団のものだったパジェロには、同胞団員の負傷に備えて救急箱らしきものが積んであった。恐らく団長たちが乗っていたランクルにも同じものが積まれているだろう。出血が始まってから慌てて救急箱を探す事態は避けたかった。
幸い、ドライバーが刺さった腕からの出血はそれほど多くはない。だがいつまでも腕にマイナスドライバーが刺さっているのは気分的にも良くないし、何よりこの状態で感染者に見つかってしまったら文字通り身動きが取れない。
「早く、頼む」
少年がそう急かすと、亜樹は頷いて横転した二台の車の方へと歩いていく。その足取りは覚束なく、今にも倒れてしまいそうだった。
「…ちくしょうめ」
亜樹に人を撃たせてしまった。そのことを考えると、少年は暗い気持ちになった。
矢継ぎ早に亜樹に指示を出したのは、そのことを考えさせないためだった。自分が人を殺してしまったことについて考え始めてしまったら、もうおしまいだ。
以前の少年であれば、この状況で人を殺したことがない人間は、自分の手が汚したことがない奴だと蔑んでいただろう。仲間を守るために人を殺したのであれば、よくやったと称賛しただろう。
だが今の少年は、誰も殺したことのない人たちを羨ましく思っていた。そしてまだ誰も殺したことのない亜樹たちの手を汚させないように、彼女たちを戦いに加わらせまいと佐藤と二人きりで戦ったのだ。
だが亜樹はついに人を殺してしまった。他ならぬ少年の命を救うために。
彼女にも人殺しの罪を背負わせてしまった。そのことを考えると、暗い気持ちになった。
脳裏をこれまで殺してきた者たちの死に様が過っていく。正当防衛のため、仲間を助けるために奪った命もある。だがその後に残ったのは後悔だ。もしかしたら殺さずに済んだ方法があったのではないか。本当に相手の命を奪う決断をしたのは正しかったのか。
いくら自分を正当化しても、仲間が「お前は正しかった」と優しく声をかけても、その思いが消えることはない。それどころか、時間が経つにつれて増々大きくなっていく。
殺した相手はどんな人間だったのか。誰もが普通に生まれ、親に愛され、無邪気な子供時代を過ごしただろう。初恋をし、友達と何かに熱中した青春時代を送ったに違いない。そんなただ一つの思い出を積み重ねて作り上げられた人間を、自分は殺したのだ。
死ぬ瞬間、相手は何を思っただろうか。後悔だろうか、それとも死にたくないという絶望か。殺した僕への怒りと憎しみか。それともそんな気持ちすら抱く暇もなかったのか。
感染者相手であれば、以前の少年であっても殺すことに抵抗は少なかった。感染者は既に理性も知性も失われた、人の形をした獣だ。その人を形作っていた人格も記憶も既に失われているから、人間としてみれば既に死んでいるも同然だ。殺した感染者が以前はどのような人間だったのかということに思いを馳せることはあっても、殺したことを後悔するのはほとんどなかった。
だが人間はゲームのNPCではないのだ。殺されるためだけに生まれてきた存在じゃない。少年と戦ったのだって、彼らにも色々な事情や考えがあっての結果だったに違いない。数えきれないほどの思い出という歴史が詰まったその存在を消してしまう。その人という人格も思い出も何もかもが消えてしまう。それが人を殺すことだということに気づいた時、少年は自分がとんでもないことをしてしまったのだと悟った。
使命感や義務感、あるいは自分を正当化することで殺人という行為を容易に乗り越えられるんであれば、戦場から帰国後PTSDとなる兵士はいない。国のお墨付きをもらって行った殺人で、一生苦しむことになる人間はいないはずだ。
たとえ殺したその時は何も思っていなくても、時間が経って落ち着いてくれば、きっと自分の行為について振り返ってしまう。100回自分の行いについて自問自答し、100回とも自分を正当化できるか。それができる人間は、それこそほんの一握りだ。
亜樹がその一握りの人間なのか、実際に彼女たちが人を殺し、時間が経ってみないとわからない。だがそれを試すつもりは少年にはなかった。だから少年は彼女たちを殺人という行為から遠ざけようと、たった二人で戦った。
亜樹たちを人殺しにさせないために戦ったのに、その亜樹が自分を助けるために人殺しになってしまった。何のために僕は戦っていたのか。人殺しとなってしまった彼女は、これから一体どうなってしまうのか——————。
突如、隣に倒れていた団長の身体がぴくりと動いた。死んだと思っていた団長の身体が、呻き声と共に立ち上がる。
どうやら団長は、まだ死んではいなかったらしい。亜樹の放った銃弾は目を掠めただけか、命中こそしたものの致命傷とはならなかったのだろう。団長は今まで衝撃で気絶していただけだったようだ。彼が死んだものと思っていた少年は、団長が確実に死んだのかを確かめていなかった。
「クソガキどもが…ぶっ殺してやる」
呆然と自分を見上げる少年を、片方しかない団長の目が睨みつけてくる。ショックで何事かうわ言を呟きながら、団長は少年を放置し、横転した車へ向かっている亜樹の方へと歩き出した。混乱しているのか、それとも腕にドライバーが刺さったままの少年は脅威でないと見なしているのか、何もしなかった。
団長は少年のタックルを受けた際に取り落とした短刀を拾い上げ、よろよろと亜樹の方へと進んでいく。亜樹はまだ、団長が起き上がったことに気づいていない。「逃げろ!」と少年が叫ぶと、振り返った亜樹は目を見開いた。
驚いて当然だった。殺したと思っていた相手がまだ生きていて、しかも自分を殺そうと向かってきているのだから。亜樹は震える手で拳銃を構え、叫ぶ。
「こ、来ないで! 近づいたら撃つ!」
だが団長が歩みを止めることはない。相手は銃、自分は短刀でしかも間合いがある。完全に不利な状況だというのに、団長は亜樹に向かっていた。撃たれた混乱がまだ続いているのか、それとも亜樹は自分を撃てないと思っているのか。
亜樹の方も銃口こそ団長に向けているものの、引き金を引く様子はない。恐怖に引きつった顔で、止まるように叫ぶだけだ。今引き金を引けば、確実に団長に命中し、彼を殺すことが出来る。だが亜樹がそうしたいかどうかは別だ。
「ダメだ、撃つな!」
少年は思わず叫んでいた。以前ならば迷わず「撃て」と言っていただろう。しかも今は亜樹に危険が迫っている最中だ。そんな状況であるにも関わらず、少年は彼女に「団長を殺せ」と言うことが出来なかった。
だが団長は短刀を手に、既に秋の眼前にまで迫っていた。亜樹も拳銃を構えながらも、引き金を引くことは出来ていない。このままでは彼女が殺されてしまう。
少年は腕に刺さったマイナスドライバーの柄を掴むと、一気に上に向かって引き抜いた。柄を掴んだだけでも痛いのに、それを引き抜いたせいでこれまでとは比べ物にならないほどの、腕を引き千切られるかのような激痛が走る。固いアスファルトに刺さって先端が曲がったマイナスドライバーが腕から引き抜かれた直後、広がった傷口から血が溢れだした。
ようやく自由に動けるようになった少年は、立ち上がりすぐに駆けだした。団長はよろめきながらも、一歩ずつ亜樹へ向かって進んでいる。しかし亜樹は拳銃を構えたまま、その場を動くことが出来ないようだった。死んだと思った人間が生きていた驚きか、それとも重傷を負ってもなお向かってくる団長の気迫に押されているのか。
「撃つなぁっ!」
亜樹を人殺しにしてはいけない。そのことだけが今の少年の頭を支配していた。少年は自らの腕から引き抜いた血まみれのマイナスドライバーを手に、団長へ向かって走る。その足音に気づいたのか、団長が少年の方を振り返った。
真っ赤な空洞と化した片目が少年を睨む。少年はマイナスドライバーを腰だめに構え、そのまま団長に体当たりした。
マイナスドライバーの先端部分は僅かに潰れていたものの、勢いよく突き立てれば人間を貫くことは余裕だった。少年の全体重を受けたマイナスドライバーは団長の腹の皮膚を余裕で貫通し、その下の内臓に深々と突き刺さった。
団長が残っていた右目をかっと見開いた。少年は彼の身体に突き立てたマイナスドライバーの柄を握り、さらに奥深くへと押し込む。
団長がせき込み、口から血が飛び散った。飛び散った血は少年の顔に降りかかり、さながら赤鬼のように彼を染めていく。
「…いずれ、お前にもわかる時が来る。私が正しかったことが」
少年の耳元で団長が囁く。まるで抱き合っているかのようにも見える少年と団長の姿が、雷光の下で浮かび上がる。
「その時になって後悔しても遅い。お前が誰かを切り捨てる、その時の顔を見たかったぞ」
「僕はもう誰も切り捨てたりはしない」
「…その強がりがどこまで通用するか、あの世で見ていてやる。お前は地獄行きだろうがな…」
自分も地獄に堕とされると言わなかったのは、最期まで団長は自らの行いを正しいと信じていたことの現れだった。腹の傷と口から大量の血を流し続ける団長は、少年の支えを失うと、その場に崩れ落ちた。
今度こそ動かなくなった団長だが、少年にはまだやることがあった。団長が取り落とした短刀を拾い上げ、その刃を倒れた団長の胸に深々と突き立てる。刃が突き刺さったのは、ちょうど心臓がある場所だ。もし団長の息がまだあったとしても、今度こそ彼は死んだ。
二度、三度と少年は団長の胸や腹に短刀を突き立てる。首筋に指をあて、今度こそ団長の息の根が止まっていることを確認すると、ようやく少年は短刀から手を放した。団長の身体から広がっていく真っ赤な血が、雨と混ざって排水溝へと流れていく。
無理やり変形したトライバーを引き抜いたせいで傷口が広がり、出血が止まらない腕を抑える。少年は立ち上がると、亜樹の方へと歩いていく。亜樹はすっかり地面に座り込んでしまっており、少年はそんな彼女に手を差し出した。
差し出した手は血に塗れていたが、それが少年のものか団長のものかはわからなかった。亜樹は手を差し出してきた少年の顔を見て、次いでその真っ赤な手を見て、ようやく口を開いた。
「…なんで、撃つなって言ったの?」
あの時亜樹が拳銃を撃っていれば、間違いなく団長に命中していただろう。少年が痛い思いをせずとも、今度こそ団長をあの世に送ることが出来ていたはずだ。だが少年は、それが容認できなかった。
「お前、まだ誰も殺していないんだろ?」
「…ええ。ついさっきまでは、ついに自分も人を殺したと思っていたけど」
「団長を殺したのは僕だ、お前じゃない。お前が撃った後も、団長はまだ生きていた。僕が奴を殺した、だからお前は人殺しじゃない」
亜樹はようやく少年に手を取り、立ち上がった。その手にはまだ拳銃が握りしめられている。
「人を殺してしまえば、もう前の自分には戻れなくなる。殺した連中の亡霊に、いつまでも苛まれることになる。たとえこの先平和な世界に元通りしても、自分は元には戻れない。一生苦しみ続けるだろう」
「でもあの時は、あんたが殺されそうになってて…」
「仲間を助けるためであっても、人を殺したという結果では同じだ。僕はお前たちに、一生悩み続ける人生を送ってもらいたくはない。あの時彼を殺したのは正しかったのか、そんなことを考えて苦しめられて欲しくはない。僕のエゴだってことはわかってる、でもたとえどんな理由であっても、僕と同じ人殺しにはなってもらいたくないんだ」
だからあの時、少年は団長が立ち上がったのを見て心の底でどこかほっとしていた。彼女たちを人殺しにせずに死んだ、という安堵があった。だからこそ少年は亜樹に引き金を引かせなかったし、団長を執拗に刺して、確実にトドメを刺した。
「…あんた、前は容赦なく殺さなきゃダメだって言ってなかったっけ?」
「人間は変わるもんさ」
「誰も殺すなって言うけど、身を守るためには誰かを殺さなきゃならない時だってあるかもしれない。現に今、あんたがあの団長を殺したように。そんな時でもあんたは誰も殺すなって言うの? 私たちに誰も殺さず大人しく殺されろとでも?」
「いや、戦って誰かを殺すのは僕だけでいい。手を汚す人間は少ない方がいいさ。誰かを殺さなきゃならない時は、その時は僕がやる」
少年は既に数えきれないほどの罪を重ねてきた。人を殺すことが罪であるならば、既に罪を背負っている自分がやるべきだと彼は思った。
「…とにかく今は止血して、佐藤さんのところに戻らないと」
「あそこに戻るつもりなの? せっかく逃げて来たのに?」
「団長を追いかけるためとはいえ、佐藤さんを一人で置いてきてしまったんだ。助けに戻らないと」
佐藤がまだ残っているかはわからないが、このまま自分だけ安全な場所に逃げるというのは嫌だと少年は思った。少年は人間として生きていたいと思っている。この状況で危険だからという理由で仲間を見捨て、自分たちだけ安全な場所へ逃げるのは果たして人間らしい行為と言えるだろうか?
「セーフハウスに車はあったか?」
「一台だけ。でも乗れるのはせいぜい4人かそこらの車よ」
「わかった。悪いがもう少しだけ、コンビニで待っててくれ」
「あんた、一人で行くつもりなの?」
亜樹が驚きで目を見開く。だが少年は本気だった。
この状況で、まさか「ついてきてくれ」と言えるはずもない。もし亜樹が「一緒に行く」と申し出たとしても、少年はそれを拒否していただろう。再び亜紀たちを戦火に晒してしまっては、何のために彼女たちを逃がしたのか。
「さっき言った通り、僕はお前たちに誰も殺して欲しくはない。それに団長は倒して目標は達成した。あとは佐藤さんをあの場所から逃がすだけだから、戦う必要はない」
少年と佐藤が戦ったのは亜樹たちを逃がすため、そして団長を殺害するためだ。そして今、その両方の目標が達成された。あとは佐藤を逃がせばミッションコンプリートだ。これ以上ドンパチする必要はない。
「…わかった。でも、絶対に戻ってきてよ」
「もちろん。でもその前に、止血しないとな」
少年の腕からは、出血量は収まったとはいえまだ血が流れていた。
さっき血まみれの右手で傷口を抑えたせいか、少年の腕にはまるで誰かに掴まれているかのような血の手形が残っている。雨に打たれているというのに、脂のせいか血は全く流れ落ちてはいない。
少年にはその血の手形が、まるで団長に自分の腕を掴まれているかのように見えていた。団長があの世から腕を掴んできて、少年をもまたあの世へと引きずり込もうとしているかのように。
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