第一五七話 首が折れる音のお話
暗闇の中、雷光を受けた刃が光の軌跡を描きながら交錯する。短刀を逆手に握った少年は、団長に間合いを詰めて右手を振った。腕と一体化した刃が鼻先を掠めた団長は、頭をそらして斬撃を躱す。
少年は団長に休む間を与えず短刀を振るったが、限界が近いのは少年の方だった。撃たれた頭の傷と、寒さで奪われていく体力。団長も車が横転した際に少なからず傷を負ったようだが、彼の顔には疲労の色一つ見えない。
「解せないな。なぜ君のように力のある人間が、この絶好のチャンスに行動を起こさない?」
少年の斬撃を避け、続いて自ら攻撃に転じた団長がそう呟く。団長が突き出してきた短刀の切っ先を飛び退いて躱した少年は、彼との間合いを図りながら答えた。
「絶好のチャンス、だと?」
「そうだ。今までの社会を作っていた全ての常識が覆ったんだ。下らないモラルやルール、既得権益。そういったものが全て消え去った今の世界こそ、やり直すのにふさわしい時だとは思わないのか?」
「やり直すってのは、戦えない弱い人たちを死に追いやるってことか?」
再び雷鳴。少年は裂帛の叫びを上げ、団長に切りかかる。刃の切っ先が、団長の着ていた戦闘服を微かに切り裂く感触がした。だが次の瞬間団長は少年に思い切り蹴りを放ち、少年はその一撃を腹に食らってモロに吹き飛ばされる。
少年はどうにか立ち上がり、繰り出されてきた団長の刃を転がって回避した。地面に転がっていた割れたアスファルトの破片を拾い上げ、団長目掛けて投擲する。だが団長はそれを余裕の表情で避けた。
どうやら団長はこの戦いを楽しんでいるようだった。でなければ、こんな下らない問答などしないだろう。
「この世には生きていても価値のない、力もない屑が多すぎた、そうは思わないか?」
団長が順手に握った短刀を振るう。刃が少年の目の前を掠め、切られた前髪が宙を舞った。
「どいつもこいつも自分の弱さを盾にして、何もせずそのくせ文句だけは言いやがる。成功した者を妬み、努力している者を蔑み、何かをしようとして失敗した者を徹底的に叩く。弱い連中はとにかく足を引っ張ることしか考えちゃいない。努力して何かを成し遂げて自分が高みに上るよりも、高いところにいる連中を引きずり下ろすことを考える。そして自分は弱い人間なんだからもっと配慮しろ、特別扱いしろとその価値もない癖に喚く」
団長がまっすぐ短刀を振り下ろした。少年はその一撃を、自分も短刀を掲げて受け止める。重い一撃に握った手から短刀がすっぽ抜けそうになったが、どうにか堪える。
「私の友達もそんな屑みたいな連中に叩かれ、毎日嫌がらせを受けて自ら命を絶った。そいつはどんな状況でも自分を高め、多くの人のために行動して結果も残していた優れた奴だったのに、ちょっとした失敗で生きる価値もない弱い連中が束になって追い詰めて、そいつらに殺されたんだ。だから私は親父の後を継いで政治家になった。そんな力もない屑どもを世の中から一掃するために、そして理想の世界を作るためにな」
「あんた、よく当選できたな」
少年は息も絶え絶えだったが、団長は余裕の表情を浮かべていた。連戦続きの少年と違い、団長はまだ体力も有り余っているのだろう。車両が横転した際に怪我をしているはずだが、動きに陰りは見られない。
「それだけ馬鹿が多いだってことだ。ちょっといいことを言って後ろ盾と金さえ得られれば、どんな奴でも簡単に当選できる」
「耳が痛いな」
「だが、国会議員になってよかったよ。おかげでこんな状況でも、皆ホイホイと私の持つ肩書についてきた。偉い奴に従っていればいいと頭が空っぽで無責任な連中ばかりだから私も組織をここまで大きくできた。もっとも、今まさに君たちに潰されようとしているがね」
戦う二人の存在に気付いたのか、二体の感染者が咆哮を上げて走ってくる。少年と団長は互いに顔を見合わせた後、互いに距離を取ってそれぞれ感染者に向き合った。このまま鍔迫り合いを続けていては、二人仲良く感染者に食われるだけだ。少年はその判断からまずは感染者を倒し、その後改めて目の前の相手を倒そうと考えたのだが、団長も同じ考えだったようだ。
少年の振り下ろした短刀が感染者の頭蓋骨を叩き割り、団長が感染者の頭を切断する。力を失って倒れた二つの死体に気を留める間もなく、再び二人は互いに向き合って短刀を構えた。
「だが、いい機会だ。ここで私が死ねば、私が間違っていたことになる。だが私が君を殺せば、私は自分が正しかったのだということを証明できる」
以前の自分と同じだな、と少年は思った。間違った生き方をした人間は死ぬ、だから生きている人間の生き方が正しい。だから自分は間違っていない。昔の少年はそうやって自らの行為を正当化していた。
だが今では違う。いくら自分を正当化しようとも、本音をごまかし続けることなどは出来ない。生き延びるため。放っておけば襲ってくる。死んだ連中は生きる価値がなかった。そう言い訳をして自分を正当化しても、結局のところそれが本当に正しい考え方だとはこれっぽっちも思えなかった。
だから少年は団長の仲間にはならなかった。自分が同胞団を断罪する権利はない、だが彼らを止めなければさらに大勢の人たちが死ぬ。だから少年は団長に立ち向かう道を選んだ。
団長が短刀を振るった。何とか自らも逆手に握った短刀でその刃を受け止めた少年だったが、次の瞬間団長が繰り出した蹴りをモロに食らい、吹っ飛ばされる。
腹に響く鈍痛をこらえながら立ち上がると、団長が今まさに手にした短刀を振り下ろそうとしていた。振り下ろされた刃を再び受け止めた少年だったが、次の瞬間少年が握っていた短刀の刀身が、真ん中から真っ二つに折れた。
「折れたぁ!?」
どうやら度重なる斬り合いに耐えきれなかったらしい。再度繰り出された団長の短刀の切っ先をどうにか避け、少年は彼との間合いを図った。
素手で懐に飛び込んでいくのは無謀だ。かといって銃はもう手元にはない…。少年は再度アスファルトの欠片を拾い上げ、団長に向かって投げた。だが体力を失った身体では満足にコントロールも効かず、欠片は明後日の方向に向かって飛んでいく。
次の瞬間、爆弾が耳元に落ちたかのような炸裂音と共に、辺り一帯が眩い光に包まれた。落雷だった。雷は二人のすぐ傍にあった雑居ビルの屋根のアンテナに落ち、その強烈な光が二人の目に焼き付いた。アンテナから火花が飛び散り、何か焦げた臭いが漂う。
顔を上げるのが一瞬遅かった少年は、かろうじてその強烈な光に眩惑されずに済んだ。しかし落雷の瞬間を直に目撃してしまった団長は、呻き声と共に片手で目を抑えた。
暗闇の中戦っていたのに、いきなり強烈な光を見てしまったのだ。視力が一時的に落ちているのだろう。少年はこの機会を逃すことなく、団長向かって突進した。団長は短刀を振り回したが、その動きに先ほどまでのキレはなかった。
少年は団長が突き出した刃を避け、そのままタックルを食らわせる。団長の手から短刀がすっぽ抜けてどこかへ飛んでいく。
少年はそのまま団長を彼の背後に停まっていた軽トラに叩きつけた。工務店の名前が入ったその軽トラの荷台から、工具箱や資材が地面に転がり落ちる。地面に落ちたはずみで工具箱が開き、中身が地面にぶちまけられた。
少年は地面に転がったハンマーを掴むと、思い切り団長に振り下ろす。だが団長は少年がハンマーを振り下ろす直前に一気に彼に近づき、間合いを失ったハンマーの先端は虚空を叩くのみだった。
「ガキが、舐めてんじゃねえぞ…」
まだ視力が回復していないのか、団長は片手でまだ目を抑えていた。だがドスの利いた声と共に少年の腕を掴むと、そのまま地面に叩きつける。そして目を覆っていた手に隠し持っていた何かを、思い切り少年に向けて振り下ろした。
団長が握っていたのは、長いマイナスドライバーだった。工具箱から散らばったものを一瞬の隙に拾っていたのだろう。顔を狙われると思い、とっさに右手で顔を覆った少年だったが、団長が狙ったのは彼が地面に押さえつけている少年の左腕だった。
ドライバーはあっさりと、前腕部の橈骨と尺骨の間に深々と突き刺さり、そのままアスファルトの地面にまで貫通した。絶叫が少年の口から迸る。腕を貫通したマイナスドライバーは地面にまで突き刺さっており、少年は激痛のせいもあってさながら展翅台の上の標本のように、左腕を動かすことが出来なかった。
「お前みたいなガキにここまでされるとはな…!」
団長はこれまでになく怒りの表情を見せていた。団長は地面に腕を串刺しにされて動けない少年に馬乗りになり、両手で首を絞め上げる。
「冥土の土産に教えてやる。お前が殺した先生だが、最期までお前の心配をしながら死んでいったぞ。お前は自分を大切に思ってくれている奴を殺したんだ。そのことを後悔しながら死んでいけ」
お前が殺した。その言葉で少年は、ようやく裕子が死んだことを知った。
亜樹たちがどこを探しても見つからなかったと言っていたので、覚悟はしていた。それでも実際にその死体を見つけるまでは楽観視しようとしていたのだ。
だがその裕子は死んだと団長はあっさりと言ってのけた。まるでゴミをゴミ箱に捨てたとでもいうかのように、いとも簡単に。
裕子を撃ったのは少年だ。だから彼女の死の責任は自分にあると、少年は自覚していた。裕子が死んだことで、団長を責めることはできない。
だが許せないのは、その死を亜樹たちに伝えることなく、彼女たちを利用し続けていたことだ。亜樹たちは団長の「面会謝絶」という言葉で、裕子がまだ生きていると希望を抱いていた。だが実際に、裕子はとうの昔に死んでいた。
団長は少年に後悔しながら死んでいけと言った。だが今少年の心に湧き上がっているのは怒りの気持ちであり、団長を殺したいという明確な殺意だった。後悔など心のどこかに追いやられてしまっている。
少年は自由に動く右手で、団長の首を掴んだ。少年に馬乗りになり、その首を絞め上げていた団長は、少年の抵抗に驚いたような顔を見せる。
「まだやるか。だが無意味だ、お前は弱い」
そう言ってさらに少年の首を絞める両手に力を籠める。少年も団長の首を掴んだ右手に力を入れた。だが息が出来ない。
喉が塞がれ、降り注ぐ雨が口内に溜まっていく。雷で明るく照らし出される夜空が、真っ赤に染まっていく。全身の細胞が酸素を求めていたが、少年は団長の腕を振りほどくことが出来なかった。
身体に力が入らず、団長の首にかけていた右手が力なく地面に落ちる。両目を見開いた少年には、もはや抵抗する力も残されていない。
ここで死ぬのか。そんな言葉が少年の脳裏に浮かぶ。
さっき団長を殺そうと思ったのに、ほんの数秒でこのザマだ。やはり僕は団長には勝てないのか。彼の言う通り、弱い人間だったのか。
真っ赤になった視界が今度は黒く塗り潰されていく。既にマイナスドライバーが刺さった左腕の痛みはマヒして何も感じなくなっていた。視界一杯に映る、口角を上げて邪悪な笑みを浮かべる団長も、その向こうで夜空を駆ける稲妻も、何もかもが真っ暗になっていく。
今度こそ死ぬのか。少年の視界が闇に包まれた直後、一発の銃声が響いた。
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