第一五五話 サウンド・オブ・サンダーなお話
「軍曹殿たち、大丈夫ですかね・・・」
暗いコンビニで、葵が不安そうに呟く。亜樹たちが拠点から脱出する際には散発的だった銃声も、今ではひっきりなしに鳴り響いている。それどころか銃声に交じって、時折爆発音まで聞こえてくる始末だ。
「大丈夫、だと思う・・・」
亜樹はそう答えるしかなかった。佐藤の指示通り、拠点の北側にある通用門を抜けて、その先にあるコンビニに隠れたまではよかった。だがいつまで待っても少年と佐藤がやってくる気配はない。銃声を聞く限り、戦闘が激化しているのは間違いない。
しばらく待ってもコンビニに来ないようだったら、自分たちを置いて安全な場所へ逃げるように佐藤は言っていた。だがこの状況では、下手に動くことも出来ない。どこが安全なのか、今の亜紀たちには判断が難しい。
亜樹は手にした拳銃を見つめた。幸か不幸か、今のところ自分が誰かの命を奪う経験は一度もしていない。
少年は頑なに亜樹が同行することを拒んでいるかのようだった。確かに自分たちには戦闘の経験がほぼない。だが今の状況で、二人で同胞団を相手にするのは無謀もいいところだった。たとえ頼りなくとも、人手は多い方がいいだろうと亜樹は思っていたが、少年たちはそう考えていないらしい。
ふと、銃声に交じって車のエンジン音が聞こえてきた。同胞団の拠点で何度も聞いたことのある、振動音が特徴なディーゼルエンジンの音だ。
「ちょっと様子を見てくる。皆はここにいて」
「先輩、危ないですよ!」
「敵がこっちに来たらもっと危ないよ。大丈夫、隠れて様子を見に行くだけだから」
可能性は低いが、亜樹たちの脱走に気づいた団員たちが追撃部隊を送ったとも限らない。このコンビニに隠れていては、外から敵が近づいてきても気づくのは難しい。亜樹は拳銃を片手に外の様子を伺い、誰もいないことを確認してコンビニから飛び出した。
とはいうものの、やはり恐怖心は心に抱いている。団員たちに襲われたら、感染者がやってきたら、そして自分が殺されるのではという恐怖。だがそれを乗り越えられなければ、この先も生きていくことはできないだろう。
いつでも拳銃を撃てるようにしたまま、亜樹は大通りへと向かった。月明かりの下で、道路のど真ん中をふらつく感染者たちの姿が見える。その向こうから二台の大型SUVが、互いの車体をぶつけ合いながら走ってきた。
前の車両には何人か乗っているようで、車内からの発砲炎が時折見える。大して後ろの車両はほとんど応射することもなく、ガンガンと車体をぶつけに行っている。
「あいつ・・・!」
後続車が何度か発砲し、その銃火が運転手の顔を暗闇の中に浮かび上がらせた。追撃するSUVを運転しているのは、団長を追って亜樹たちと別れたはずの少年だ。
となると、先を行く車に乗っているのは団長たちなのか。二台の車はあっという間に亜樹の前を通り過ぎ、角を曲がって見えなくなった。やがて何かがぶつかる破壊音が、亜樹のところにも届いた。
どうするか迷ったが、亜樹は車が消えた方向へと走り始めた。感染者たちに見つからないようにこっそりと、それでも急いで。
少年が意識を取り戻した時、まず襲ってきたのは猛烈な吐き気だった。
視界がゆらゆらと揺れ、身体がやけに重い。そして地面が視界と垂直に、壁のように左側にそびえている。
そこでようやく少年は、運転していたパジェロが横転したことを思い出した。助手席側を下にするようにして横転したパジェロだったが、どうにか少年は五体満足なままだった。ガラスが割れた窓から外に投げ出されなかったのは、シートベルトをしていたのが功を奏したらしい。
これからも車を運転する時はきちんとシートベルトを締めよう。少年はそう誓い、自分の身体を運転席に固定し、宙ぶらりんにしているシートベルトのバックルを外した。途端に重力に引かれ、少年の身体は地面に落下する。助手席のドアに肩から落下した少年は、その痛みにうめき声を上げた。
しかし、いつまでも痛みに悶えている暇はなかった。少年はどこかに武器がないか探したが、拳銃も小銃も横転した際に車の外に吹っ飛ばされてしまったのか、周りには見当たらなかった。あるのは背中につるしたままの、同胞団謹製の短刀が一本のみ。
頭はふらふらしていたが、少年はガラスが割れたフロントウィンドウから外に這い出た。パジェロは横転していたが、流石オフロード用SUVといったところで、車体や屋根が大きく潰れているようなことはなかった。
遠く、通りの向こうに感染者たちの姿が見える。だがまだこちらには向かってきていない。少年は背中の鞘から短刀を引き抜き、周囲を見回した。銃が落ちていないか期待したが、横転した車の下敷きになったか、物陰にでも吹っ飛んでいったのかどこにも見当たらない。暗闇の中どこにあるかわからない銃を探すために時間を無駄にするわけにもいかず、少年は仕方なく横転したランクルのところへ向かった。
強く、冷たい風が吹き始めていた。どこか遠くで、空気を震わせる雷鳴が轟いている。空を見上げると黒雲が月明かりを遮っていた。じきに雷雨になるだろう。
ランクルは道路工事中の穴を乗り越えて一回転し、屋根から路面に叩きつけられて文字通りひっくり返っていた。ランクルも横転した割には車両へのダメージは少ないように見えたが、それでも車の周辺には動かない人影が見える。
近づくと、それがランクルで逃亡していた同胞団の幹部たちであることが分かった。彼らは少年と違ってシートベルトしていなかったらしく、車両がひっくり返った時に外へと放り出されてしまったらしい。道路上に大の字になって倒れていた男は全身血まみれの上首が変な方向にねじ曲がっていた。もう一人、ひっくり返ったランクルの車体の下敷きになった団員は、俯せの状態で頭をアスファルトと車の屋根の間に押し潰されている。
「シートベルトは大事だって習わなかったのか…」
頭を潰された団員の身体はまだわずかに痙攣していたが、もう生きてはいないだろう。少年はその死体の腰からぶら下がったホルスターに目をやった。どうやら運転手だったらしく、拳銃はホルスターに収まったままだ。
少年はまだ生暖かいその死体から拳銃を取り上げた。頭が潰れた団員はタクティカルベストを身に着けていて、予備の弾倉もそのポーチに収まっていそうだが、俯せになったまま上半身を車に押しつぶされた死体をひっくり返すのは無理そうだった。諦めて拳銃だけ手にした少年は、スライドを軽く引いて銃弾が装填されているのを確認した。
拳銃を構え、横転したランクルの車内を覗き込む。今や下側になった屋根にはガラスの破片や空薬莢が無数に散らばっていて、その中で身動き一つしない人影が二つあった。団長かと思い目を凝らしたが、彼も団長に付き添っていた幹部たちだった。車がひっくり返った時に座席から放り出され、首でもへし折ったのか、こちらも死体となっている。だが団長の死体は車内にはない。
突然、もう一つの死体が悲鳴を上げた。少年が死体だと思っていたその団員はまだ生きているようだった。位置から見て助手席に座っていたらしいその団員は、今まで気絶していただけだったらしい。だが悲鳴と呻き声を上げていることから、負傷しているようだった。
少年は助手席側に回り込み、呻き声を上げている団員に銃口を向ける。団員のすぐ近くには小銃が落ちていたが、それに手を伸ばす余裕も無いようだった。少年はすぐさま小銃を拾い上げると、続いて団員の頭に銃口を向ける。
「た、頼む助けてくれ!」
「さんざん殺そうとしておいて助けてくれって言われてもね」
そのまま拳銃の引き金を引こうとしたその時、少年は団員が負傷していることに気づいた。どうやら折れたシフトレバーが足にでも刺さったらしい。涙と鼻水を垂れ流しながら必死に助けを求めている団員を見て、少年はこのまま彼を殺しても良いのだろうかと思った、
激痛で彼はすっかり戦意を失ってしまっているようだ。でなければ敵である少年に対して助けを求めたりなどはしない。騙し討ちするつもりかとも思ったが、団員の必死さからはそんな小賢しい真似をする余裕がないことが伝わってくる。
「お願いだ、殺さないでくれ。頼む…」
両手を見せて命乞いをする彼を殺してしまえば、自分も同胞団の連中と同じになってしまう。たとえ前は敵であったとしても、それだけで既に戦意喪失し、負傷して命乞いをする人間の命を奪っていい理由になるだろうか。
もしも彼がこの状態でも銃を手に抵抗してきたならば、少年は発砲するつもりだった。だが団員は近くに落ちていた銃を拾う余裕すらなく、敵である少年に助けを求めなければならないほど追い詰められている。
かつての少年であれば、迷わず団員を殺していただろう。だが今の少年は違った。歪んだ助手席のドアを無理やり開けると、拳銃を片手に構えていつでも発砲できる態勢を取りつつ、腕を伸ばして団員の肩を掴んだ。
「引っ張るぞ。変な真似をしたらどうなるかわかってるな?」
そう言って、ひっくり返った車から団員を引っ張り出した。そして素早く彼のボディチェックを行い、他に武器を持っていないか確かめる。
「ありがとう…ありがとう…」
団員は信じられないとでもいうような目で少年を見ていた。彼を殺さなかったのは団長の行方を聞きたいという考えもあったからだが、それだけでは説明が出来なかった。
助けてやっても、背中を見せた隙に襲われるんじゃないかという恐れもある。だがその恐怖に囚われ、少しでも敵対した人間を片っ端から殺していった結果がかつての少年の姿であり、そして今の同胞団の連中の姿でもあった。
同胞団の存在を否定するためには、彼らと同じことをしてはいけない。だから少年は同胞団の連中が行わない、「助ける」という行動に及んだのだ。
団員の太腿には折れたシフトレバーが深々と突き刺さっており、自分で歩くのは難しそうだった。だが出血量はそこまで多くない。止血処置を施せば、しばらくは大丈夫だろう。
「いいか、死にたくなかったら静かにしていてくれ。僕はお前を助けてやったが、お前と心中したいわけじゃない。言うことが聞けないならこの場に置いていくぞ」
そう言って少年は、遠くに見える感染者を指さした。感染者との距離はまだ離れているが、さっき車が横転した音はかなりのものだったはずだ。いつまでもこの場に留まっているわけにはいかないし、その時に男が悲鳴や呻き声を上げていたらすぐに感染者に見つかってしまうだろう。
地面をライトで照らすと、アスファルトの上に転々と血痕が並んでいた。血痕は横転したランクルから続いていて、誰かが車内から脱出したことを伺わせた。ランクルの中にいた団員たちは、二人を除いて皆死んでいた。一人は今少年が助けた団員で、もう一人は団長だ。その団長の姿はランクルの中にはなかった。おそらく少年たちより一足先に意識を取り戻し、逃げたのだろう。
だが出血を伴う怪我をしているので、それほど遠くまでは逃げられていないはずだ。ひとまずは足手まといでしかないこの団員をどこかに隠し、それから団長を追う。この場に団員を放り出していくことも可能だったが、それをやれば彼はあっという間に感染者に見つかってしまうだろう。
「なんで、俺を助けた…?」
少年の肩を借りて歩く団員が、絞り出すような声でそう言った。
「もしもあんたが武器を手に抵抗してくるなら助けるつもりはなかったさ。でも僕はあんたらとは違う。いや、違う存在でありたい。怪我をして助けを求めている人間を殺すような真似は、もうしたくはない」
「もう…? そうか、お前も俺たちと同じだったのか…」
甘くなった、と言われるかもしれない。だが戦意を失い助けを求める人間すら殺すことが本当に正しいことなのか? そんな人間を助けることが甘いことと言えるだろうか?
むしろ敵であるという理由だけで、負傷者すら殺していくことが正しく、かっこいいことなのだろうか。
『今更罪滅ぼしのつもり? 敵を一人助けたところで、あんたが自分可愛さに何人も殺してきた事実は消えないわよ』
頭の中で声が聞こえる。いつの間にか、少年の隣を血まみれの少女が歩いていた。頭に穿たれた弾痕から血を垂れ流しながら歩くその少女は、かつて少年が自分の手で殺した仲間の姿をしていた。
『敵は助けるのに、私のことは助けてくれなかったよね』
少女が幻覚であることは理解していた。だから少年は彼女が放つ言葉を無視しようとした。だが彼女の言葉は、少年の心を深々と抉る。
『あんたは誰も助けることが出来ない。あんたは殺すことしか出来ない』
幻覚の少女の言葉をかき消すように、少年は口を開いた。
「とりあえず、僕は団長を追う。あんたはどこかそこら辺にでも隠れていろ」
戦意喪失し、抵抗の意思がないとはいえ、まだ彼が敵である同胞団の人間であることに変わりはない。そんな人間に安心して背中を任せるつもりは少年にはさらさら無かったし、それに足を負傷した男を連れていては逃げる団長に追いつくことが出来ない。治療の後、そのあたりの建物の中にでも隠れていてもらうつもりだった。
雨が降り始めていた。空気を震わせる雷鳴が近くで轟いている。雨で地面に残った団長の血痕が消えてしまう前に、彼に追いつかなければならない。
「おい、俺を置いていくのかよ」
「当たり前だ。あんたを連れていたら団長にいつまでたっても追いつけない。安心しろ、ちゃんと感染者に見つからないところに———」
その時空が一瞬明るくなり、灰色の雲の中を紫色の稲妻が駆け抜けた。直後、爆音のような雷鳴が空気を震わせ、同時に少年は拳銃の発砲音が響くのを確かに聞いた。
少年たちのすぐ隣にあった街灯の柱に着弾の火花が散り、少年は自分たちが撃たれていることに気づいた。銃声は二度、三度と響き、その度に少年たちの周囲で何かが弾け飛ぶ。
「走れ! 走れ!」
少年はそう叫び、団員を半ば引きずるようにして走り出した。目指すは手近な物陰だ。拳銃で狙ってきているのであれば、射手は近くにいるはずだ。少年は走りながら周囲を見回し、そして20メートルほど離れた廃車の陰で銃火が瞬いているのを見た。
「ぐえっ」
その時変な悲鳴を上げて、少年が肩を貸していた団員が地面に倒れこんだ。少年は彼を立ち上がらせようとしたところで、その首筋から真っ赤な血が蛇口を捻ったかのように溢れ出していることに気づく。
団員は首を撃たれていた。団員は少年と襲撃者の間に位置しており、少年の盾となるような形で銃弾を受けていた。もしも彼が少年の反対側にいたら、銃弾を浴びていたのは間違いなく少年の方だっただろう。
『ほらね、あんたは誰一人助けることが出来ないのよ』
幻覚の少女が少年を嘲笑う。助けられたと思ったのに、その命はあっけなく目の前で消えてしまった。
少年は雄叫びを上げた。怒り、悲しみ、悔しさや色々な感情が混じった叫びだった。
再び稲妻が暗闇を引き裂き、銃手の姿を照らし出した。廃車の陰から拳銃を構えているのは、同胞団のリーダーであり、少年の敵である団長だった。
「野郎、ぶっ殺してやる!」
少年は叫び、手にした小銃を発砲する。団長も拳銃の引き金を引き、雷鳴に負けない銃声が夜の街に轟く。
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