第一四三話 タイマン張るお話
見張りの男の説得を諦めた少年はどうにか他に逃げ出す手段を探したが、鉄格子と壁に囲まれた部屋に逃げ場などなかった。そのうえ見張りの男もずっと少年の前にいたのだから、どうやっても逃げ出す手段などない。見張りの男の説得を再開しようかとも思ったが、たぶんこの男は自分が死にそうな目に直面しない限り、いつまでも悩んだまま結論を出すことはないだろう。
そうこうしているうちに夜になり、少年は数名の同胞団員の手によって独房から引きずり出された。見張りの男はどこかへ連れていかれようとしている少年を見て何か言おうとしているようだったが、結局その口が開くことはなかった。
牢屋の外は狭い廊下が続き、その先には階段があった。少年は銃を突き付けられ、階段を降りるよう命じられる。抵抗するチャンスかと思ったが、同胞団員たちはきちんと距離を取って少年を連行していた。逃げたり、抵抗しようとしても、余裕をもって少年を撃ち殺せる距離だ。
仕方なく、少年は階段を下りて行った。階段の先には分厚い鉄の扉があり、少年は背後から突き飛ばされ、その扉の奥へと転がっていく。
扉の奥の部屋は真っ暗だった。背後で同胞団員が鉄扉を閉めると同時に、突然天井から強烈な光が舞い降りてくる。思わず目を閉じたが、周囲に多くの人がいる気配を少年は感じ取っていた。
同時に感じたのは、強烈な鉄の臭いだった。そして鼻が曲がりそうなほどの、何かが腐るような臭い。何度も嗅いだことのあるその臭いは、死んだ人間の放つ腐敗臭だった。
『さあ待ちに待ったコロシアムが始まるぞ! お前ら盛り上がってるか!』
突然DJのような―――というよりもDJそのものな男の声が、天井に設置されたスピーカーから流れてきた。それと同時に若い男女の歓声が上がり、少年は自分がまるでステージに立つアイドルになった気分を感じた。
ようやく光に目が慣れてきた。少年が天井を見上げると、吊り下げられた色とりどりのスポットライトの下で、いくつも人影が蠢いているのが見えた。
少年が今いる場所は、以前も閉じ込められていた倉庫のような場所だ。ただ違うのは壁一面に黒い吸音材が張られていることと、少年がいるフロアを見下ろせるようにして、鉄骨で組んだキャットウォークが作り上げられていることだった。そして小さな体育館ほどの広さの倉庫の四隅には、大きなコンテナが置かれている。
そしてコンクリートが打ちっぱなしの床は、あちこちが茶色く染まっていた。強烈な鉄の臭いを放つその茶色い染みは、人の血が凝固したものだろう。
スポットライトに照らし出される茶色い床のそこかしこに、白い棒きれのようなものが転がっていた。茶色い塊がところどころにこびり付いたその棒きれは、よく目を凝らして見ると干からびた肉が点々と付着する人間の大腿骨だった。
「うわぁ」
思わずそんな声が少年の口から洩れた。
人骨は床のそこかしこに、バラバラの状態で転がっていた。鋭い肋骨や、中には半分砕けた頭蓋骨まで。共通しているのは、それらにどこか喰われた形跡があることだった。少年は街中を何度もさまよう中で、感染者に食い殺された人々の亡骸を目にしていた。その喰われた死体と、床に転がる白骨の状態はほとんど同じだった。
二階部分のキャットウォークから少年を見下ろしているのは、大勢の若い男女だった。皆腕や首、額に黒いバンダナを巻いているので、同胞団の一員なのだろう。彼らはまるでショーを見る観客のように、少年を好奇の目で見下ろしていた。
その中には少年の見知った顔もあった。同胞団に加わったはずの亜紀たちが、両脇を同胞団の男たちに囲まれて、キャットウォークから少年を見ていた。ただ、その顔にはどこか困惑の色が見える。亜紀たちの仲間は重傷を負ったはずの裕子を除き、全員がキャットウォークの上から少年を見下ろしていた。
そしてキャットウォークの一番高いところには、同胞団の団長の姿があった。まるで特等席のような大きな椅子に座り、両脇にやたらと露出の激しい女性を侍らせている団長の目は、まっすぐ少年を見ていた。
『さて皆、今日も楽しいコロシアムが始まるぞ! この男は俺たち同胞団を襲った憎むべき敵だ! 正義に従って行動している俺たちを襲ってくるなんて、なんて愚かな奴だ! 仲間をこいつに殺された奴もいるだろう!』
「死ね、この野郎!」
「俺がぶっ殺してやる!」
DJがそう言うと、ブーイングと共に少年を罵倒する言葉が上から降ってきた。降ってくるのは言葉だけでなく、空き缶や中身がまだ入ったままのビール瓶まで同胞団の連中が投げつけてくる。瓶が割れる派手な音と、空き缶が床にぶつかる間抜けな金属音が奇妙なハーモニーを奏でる。彼らの目には少年に対する怒りと、そしてその少年の命運を自分たちが握っているという愉悦の感情が見て取れた。
『おおっと皆、怒るのはわかるがまだコロシアムが始まる前だ! こいつにケガをさせないように気を付けてくれ。さぁて、今回は一回戦負けにオッズが集中しているようだ。今まで二回戦を突破できた奴はいなかったし、今回の挑戦者はガキだからな。そこの少年、せいぜい一回戦で死なないように頑張ってくれ。俺はお前が二回戦まで生き残る方に賭けているからな』
一回戦だの生き残るだのという言葉と、床に散らばったままの白骨死体を見て、少年はおぼろげながらこれから自分が何をされるのか理解し始めていた。
キャットウォークを見上げると、亜紀たちが何事か同胞団の男に抗議している様子が見えた。同胞団の男は呆れたような顔で何か言っているが、観客たちの騒音でその言葉は聞こえない。
そう言えばこれだけ大騒ぎしていて、感染者に気づかれはしないのだろうか? 天井のスポットライトを見上げて、少年はここが元はライブハウスか何かだったのだろうと推測した。
使わなくなった倉庫を改装したライブハウスがある、と聞いたことがある。ライブハウスなら周辺住民の迷惑にならないように、防音対策はばっちりだろう。上のキャットウォークも、観客がステージを見下ろすためのものかもしれない。ここで騒いでいても、外にほとんど音は漏れないだろう。仮に漏れていても、それを聞き取れる範囲に感染者はいないのかもしれない。
『さあて、それでは一回戦を始めるぞ! 団長、挑戦者に何か一言!』
団長にマイクが渡され、その冷たい目が少年をまっすぐ射貫く。団長が上から何かを放り投げてきたので、慌てて少年は手錠で繋がれた両手でそれをキャッチした。団長が投げて寄こしたのは、手錠のカギだった。
『せいぜい頑張れ』
その言葉と共に、コンテナの一つの扉に掛けられた閂が、繋がったワイヤーで上に持ち上げられていく。それと同時に同じくコンテナの扉に結びつけられたワイヤーが引かれ、徐々に扉が開いていく。
少年は急いで手錠を外そうとした。が、焦りからか中々鍵穴に鍵が刺さってくれない。そうこうしているうちにとうとうコンテナの扉が開き切り、中から少年の予想通りのものが飛び出してくる。
血の混じった涎を垂れ流し、血走った目で少年を見据え、咆哮を上げながら飛び出してきたのは一体の感染者だった。感染者は少年の姿を見るなり、一直線に突進してくる。
同胞団はどうやって感染者を捕まえたのだろうか? 人間の姿を見るなり攻撃してくる感染者を捕まえるのは、ライオンやトラを捕まえるよりも難しいだろう。
コンテナから飛び出してきた男の感染者の腕には、厚紙で出来たタグのようなものが巻かれていた。もしかしたら同胞団は捕まえた他のグループの生存者や、彼らにとって「価値のない」仲間を、わざと感染者に変異させていたのだろうか? 感染者に噛まれてからどれくらいの時間で変異するのか、あるいは感染者の体液がどれくらい体内に入れば自らも感染者になるのか、そういったことを実験していたのかもしれない。
突進してきた感染者が少年の鼻先に手を伸ばすのと、手錠が外れたのはほぼ同時だった。慌てて少年は横に転がり、突き出された感染者の手は虚空を掠める。
感染者の走る勢いは止まらず、そのまま防音材が張られた壁にぶつかっていった。勢いよく壁にぶつかった衝撃で目でも回してくれればよかったのだが、感染者はすぐさま背後を振り返り、再び少年を見据えて咆哮を上げる。感染者の咆哮が空気を震わせ、観客者たる同胞団員たちが一層盛り上がった。
少年はようやく、団長が言っていた「コロシアム」という言葉の意味を思い出した。古代ローマの闘技場。剣闘士たちが大勢の観客の前で、相手の剣闘士や猛獣と殺しあうショー。ここでの剣闘士は少年で、猛獣は感染者といったところか。もっとも剣闘士というには、剣の一本も与えられていないが。
「クソが・・・!」
再び感染者が突進してきて、紙一重の差で少年はそれを避けた。学校の教室ほどの広さしかない空間では、どうにか突進を避けれたとしても、すぐに感染者が態勢を立て直して再度攻撃を仕掛けてくる。何度も避けるだけでは、やがてこちらの体力が尽きて動けなくなるだけだ。
となると、感染者を倒すしかない。だが今の少年は素手だった。銃でなくても斧や金属バットでもあれば、感染者の一体くらいならどうにか倒せる。だが逃げ場のない空間で、素手で感染者と対峙するのは自殺行為に等しい。
「逃げてんじゃねーぞ!」
「早く食われちまえよ!」
キャットウォークの観客席の上から、同胞団員たちが罵声を浴びせてきた。彼らにとってこのショーは、娯楽であると共に自分たちの正当性を確認するための場でもあるのだろう。
同胞団に逆らった敵が悲鳴を上げ、命乞いをしながら感染者に食われていく様を彼らは見たいのだ。そして感染者に殺される犠牲者を弱者と笑い、銃を持つ自分たちは強い人間であると実感したいのだ。
銃さえあれば、感染者の一体は倒せる。だがコロシアムの犠牲者は同胞団に逆らったがために、銃無しで感染者に立ち向かわなければならない。それに対して同胞団に所属する自分たちは銃を持っているから、感染者なんて怖くない。
下らない。少年はそう吐き捨てた。床に染み付いた血や、そこかしこに転がる骨は、そんな下らないショーのために命を落とした人々の姿だった。そして今少年も、その仲間に加わろうとしている。
だが少年は、同胞団の連中を喜ばせる気はこれっぽっちもなかった。彼らが自分の死を望んでいるのなら、最後まで抵抗してやる。彼らが悲鳴を上げ、命乞いをする少年の姿が見たいのであれば、たとえ感染者に食い殺されるとしても最後まで悲鳴は上げないし、同胞団の連中に命乞いだってしない。
それに少年も、伊達にこの一年近くを生き延びてきたわけではなかった。感染者の一体であれば、素手であっても何とか勝算はある。限りなく低い勝算だが、諦めるつもりはない。
何度か突進を避けた後、少年はまっすぐ感染者を見据えた。重要なのは何事もタイミングだ。タイミングさえ合えば何とかなる。が、タイミングが合わなかったら待っているのは死だ。
またもや、感染者が両手を伸ばして少年に向かって突進してきた。少年はその場から動かず、じっとタイミングを計る。興奮したキャットウォークの団員たちが、「死ね」とコールする。
突進してきた感染者が伸ばす手、その指先が少年の鼻先を掠めた瞬間に、少年はわずかに身体を横へずらした。感染者から離れすぎず、かといってそのまま捕まってしまう距離でもない、最小限の間合いだ。
感染者が先ほどまで自分がいた空間を通り抜けていくその時、少年は思いっきり感染者の足へと蹴りを放った。突進してきた感染者の勢いと、自分の繰り出した蹴りの勢いが合成され、そこだけ車に轢かれたのではないかとでも思うほどの衝撃が少年の右足に走る。その衝撃に耐えきれずバランスを崩して座り込んでしまった少年だったが、感染者の方がダメージが大きかった。勢いよく突進してきたところで足を蹴り飛ばされ、派手にすっころんで顔面を床に強打していた。
少年は素早く立ち上がると、床に突っ伏している感染者へと駆け寄った。感染者は身を起こそうと仰向けになったが、その前に頭を思い切り蹴り飛ばす。ばきっという音と共に感染者の顔が奇妙に歪んだが、まだ感染者は生きていた。
常人なら脳震盪を起こして気絶しているところだが、身体の頑丈な感染者にとってはさほどのダメージでもなかったらしい。だが、動きは鈍くなった。少年はのそのそと立ち上がろうとする感染者に馬乗りになると、突進を避けている間に拾っておいたガラス片をその喉元へ突き立てた。
興奮した団員たちがステージに投げ込んだ、割れたビール瓶の破片だった。刃物のように鋭利な形に割れたそのガラス片は、感染者の首筋に深々と突き刺さった。感染者の目が見開かれ、手を伸ばして少年の頭を掴もうとする。首にガラス片が刺さっているにも関わらず、なおも目の前の獲物を食い殺そうとする感染者の額を掴んで床に押し付けると、少年は首筋に突き刺したガラス片を力を込めて横に引いた。
皮膚と血管が切り裂かれ、真っ赤な血が蛇口を捻ったのように感染者の首から流れ出す。ガラスの破片は鋭利で、握った少年の手までもが切り裂かれて血が滲んだが、痛みに構わず少年はガラス片を握った手に益々力を込めた。
何かに穴が開く感触と共に、感染者が口から血の混じった泡を吹き出し始めた。気管に穴が開いたのだ。さらに動脈まで切り裂かれたのか、噴水のように鮮血が傷口から噴き出す。普通の人間だったらとっくにショックで気絶しているだろう傷を負っても、なおも感染者は暴れ続けていた。しかしその身体に馬乗りになった少年は両手で感染者の頭を地面に押し当て、その動きを封じ続ける。
痛みを感じず、ダメージにも強い感染者だが、普通の人間だったら死ぬような致命傷を受ければ、いずれは死ぬことに変わりはない。首筋から血を噴き出しながらも少年を殺そうと両手を振り回し、カチカチと歯がぶつかる音を立てていたが、首筋から噴き出す血の勢いが弱くなっていくと同時に、その身体からも力が抜けていく。
そして感染者は完全に動かなくなった。少年は立ち上がり、動かなくなった感染者の首を何度も勢いよく蹴った。太い木の枝を折ったような乾いた音が響き、感染者の首があり得ない方向にねじ曲がったところで、ようやく少年は蹴ることを止めた。
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