第一三話 見知らぬ、天井のお話
「知らない、天井だ……」
目を覚ますなり霞む視界に入ってきたのは白い壁紙が貼られた天井と、そこからぶら下がる小さなシャンデリアだった。視線を左右に巡らせると、どうやら僕はどこかの民家にいるらしいことがわかった。横たわっているのは高級そうな革張りのソファーで、部屋の中には大小様々なインテリアが揃えられている。ソファーの近くにあるテーブルも、その奥に見える棚も全て金が掛かっていそうな代物ばかりだ。
夜なのか部屋全体が暗く、ソファーの背後にある窓からは月明かりが差し込んできている。とりあえずここがどこなのか確認するべく身を起こそうとした僕の右手に、途端に激痛が走った。見れば窓を破る際に大きく切った手首の傷が、Hの字のような形をした絆創膏で閉じられている。剥がせばまた傷口が開きそうなので、今は手を出さないことにした。運がいいことに、血は止まっている。
激痛で一気に目が覚め、改めてここはどこなのだろうと思う。そこで思い出したのは、意識を失う直前に見た謎の女性の姿だった。もしかして彼女が助けてくれたのだろうか?
あれが出血で意識が朦朧としていた僕の幻覚でなければ、あの女性はたった一人で十数体の感染者を倒し、僕らを助けてくれたということになる。そんなこと、女の人に出来るのか? 力のある男性ならともかく、女性なんて銃でも持たなきゃ感染者には対抗できない。子供とはいえ結衣と愛菜ちゃんだって逃げることしか------
そういえば、あの二人はどこだ?
一瞬にして、それまでの呑気な気分が吹き飛んだ。頭の中に浮かんでくるのはイヤな想像ばかり。法律も何もない世の中になった今、それまで抑圧されてきた欲望が爆発してヒャッハー状態になる人間も珍しくはない。あの女性がそんな連中と繋がっていて、二人が危ない男たちに捕まっていたとしたら?
二人を捜しに行こうと立ち上がったが、途端に一瞬視界が暗くなり、再びソファーに倒れ込んでしまう。どうやら予想以上に出血していたらしい。こんな状態じゃ走ることも、ましてや戦うことも出来ないだろう。今の僕なら幼女のパンチ一発でダウンしかねない。
……落ち着こう。まだ最悪の事態になったと決まったわけじゃない。もしあの女性がヒャッハーな連中の仲間だったとして、男である僕をわざわざ助けるか? 医薬品も何もかもが貴重なのに? その上拘束すらしていない。
もし僕が結衣と愛菜ちゃんにしか興味がない頭のイカレた奴なら、とっくに男は殺している。後々災いをもたらしかねないし、限りある食料や医薬品を分けたりはしない。もっとも頭のおかしい奴の思考なんてわからないから、気まぐれで僕は助けられたという可能性も否定できないけど。
とにかく今は落ち着いて、現状を把握することが最優先事項だ。ここがどこなのか、僕を助けたのが誰なのかをまず知らないと……。
「あ、起きてたんだ」
そう決意した瞬間突然ドアが開いた。その声に思わず部屋の入り口を振り返る、が月明かりが届いていないせいで誰がそこにいるのかわからない。少なくとも今のは女の声で、結衣と愛菜ちゃんの声ではなかった。
とっさに何か武器になる物はないか周囲を見回したが、何もない。ベッドの上に水の入ったペットボトルがあり、それを掴もうと右手を伸ばした。再び激痛が走り悶絶する僕に、入り口にいる見えない人影がおかしそうに笑う。
「大丈夫、私は君をどうこうしようとは思ってないよ。あとあんまり無理すると、また血が出ちゃうよ」
床が軋む音で、「そいつ」が近づいてくるのがわかる。敵意がないなんて、口ではいくらでも言える。思わず身構えた僕の目の前で、月明かりに照らされた「そいつ」が姿を現した。
「ファッ!?」
その顔を見た瞬間、思わずそう口走る。ブロンドの髪に透き通るように白い肌。高い鼻に青い瞳。
どう見ても外国人だ。ウイルスが日本に上陸した際本国に帰れず取り残された外国人は多かったと聞いているから、外国人が今の日本にいることに理由はつくけど……。
彼女の身体を上から下まで眺める。歳は僕より少し上、20代前半といったところか。アメリカ辺りの大学生と言えばしっくりくる。出ているところは出ていて、引っ込んでいるところは引っ込んでいる、マーベラスな体型の持ち主だ。グラビア女優か何か?
僕の視線は腰のあたりで止まった。ホットパンツのベルトから下がる、二つの半月状の鞘とそこから突き出たグリップ。彼女が持っているのは、刃渡り30センチはありそうなナイフだった。
これはまずい。もし僕が何か彼女の気にくわないことをしたら、あっという間に文字通り解体されてしまいかねない。敵意はないというのは、英語で何て言うんだっけ? もう三ヶ月以上英語の授業をやっていないから、咄嗟に口から出てこない。
「あ、あいきゃんのっとすぴーくいんぐりっしゅ」
見事なまでの棒読みだった。だが今の僕ではこれが精一杯。学校で教えていたのは受験のための英語であり、外国人とスムーズな意志疎通を図るための英会話ではない。こんなんだったら駅前留学でもしておくんだったと後悔する僕の耳に、おかしそうな彼女の笑い声が届いてきた。
「大丈夫だって! 私は日本語普通に話せるから、無理して英語使わなくていいよ」
訛りなど欠片もない、日本人かと思うほど流暢な発音だった。口を開けて突っ立っている僕の前で、女性は腹を抱えて笑い続ける。あまりの発音の酷さに恥ずかしさで顔が熱くなる反面、笑い過ぎじゃないかと少しムッとする。そこでようやく外には感染者がウジャウジャいることを思い出した。
「あの、声を抑えた方が……。感染者に気づかれますよ?」
「大丈夫だよ。ここ15階だし、この部屋防音になってるしね」
「15階!?」
思わず窓辺に寄ると、月明かりに照らされる街並みが遙か下に見えた。こんなに高い建物、近くにあったっけ?
……そういえばあった。僕たちが感染者たちに追われている時に逃げようとした、トラックとバスで塞がれた橋に繋がる幅広い道路。そこに高層マンションが面していたことを思い出した。まさか今いるのはそのマンションなのか?
目を凝らせば東の方に川と、それに架かる橋がぼんやりと見える。間違いない、ここは僕たちが下らない議論を交わした高層マンションだ。
だとすると、ここは僕が気絶したあの住宅とさほど離れていない距離にある。
「たまたま外を見ていたら、君たちがアイツらに追われているのが見えてね。そんでアイツらの走っていく方に向かって進んでいったら君たちと遭遇ってわけ」
「でも感染者が何十体もいたはずですよ?」
「大丈夫、私が全部倒した」
そう言って女性は腰に下がったナイフを軽く叩く。あれは確かグルカナイフという、東南アジアの戦闘民族が使うナイフだっけ? 前に一度ネットで見たことがあるのだが、あんなもので斬られたら首だろうと腕だろうとスパスパ飛んでいくに違いない。
とそこで、結衣と愛菜ちゃんの姿が見えないこと。そして女性の名前を聞いていなかったことに遅ればせながら気づく。
「すいません、僕の他に二人女の子がいたはずですが、彼女たちは今どこにいるんですか? それと今更なんですが、あなたの名前を教えてもらっても?」
そう尋ねると、女性はにっこり笑って答える。
「私の名前はナオミ、ナオミ・ウォーカー。アメリカ人よ。歳は21」
「僕の名は……」
「知ってる、あの二人から聞いた。ユイにマナだっけ? あの子たちは隣の部屋で寝てるわ」
金髪碧眼のアメリカ人が日本語をぺらぺら喋っているのは違和感ありまくりな光景だったが、今はどうでもいい。それより大事なのは、二人が無事だということだ。ウォーカーさんが嘘をついていないのならという前提条件が必要になるけど、彼女が嘘をつくメリットはないだろう。こうやってわざわざ助けてくれて安全な場所まで運んできてくれたのだ、彼女は信頼できると考えていいのかもしれない。
そう思うのと同時に安心したのか、再び腕に激痛が戻ってきた。さっきペットボトルを取ろうと変に腕を伸ばしたせいか、閉じられた傷口に少し血が滲んでいる。
「ダメだよ、変に腕を動かしちゃ。本当なら病院に行って縫わなきゃならない傷なのに」
慌ててウォーカーさんが駆け寄って、僕の手首の様子を見る。どうでもいいことだけど、彼女からはかなりいい香りがした。
「あのウォーカーさん、この傷って縫った方が良かったんじゃないんですか?」
「私が医者で、麻酔とか縫合用の糸と針があればそうしてたけどね。あと、私のことはナオミでいいよ。日本人のそういう堅苦しいところはあまり好きじゃないからね」
「でも、これだと傷口が塞がらないんじゃ?」
「素人が下手に縫ってもよけいに酷くなるだけだし、それに絆創膏と接着剤で傷口を合わせてあるからその内塞がるよ。それにこれだと膿とかも出やすいしね」
「なんなら今から縫う? 痛みで気絶すると思うけど」と言われ、僕は丁重にそれをお断りした。目が覚めてまた気絶、洒落にもならない。
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