第一一一話 Beautiful Worldなお話
考えてみれば、過ちを正す機会などいくらでもあったはずだ。だが僕は自分の犯した過ちの大きさに怯え、それらから目を逸らすことしか出来ていなかった。過ちに正面から向き合い、そこから何かを学び取るなんて真似は僕には出来なかった。
その結果がこれだ。結局僕は過ちを重ね続け、行きつくところまで行ってしまった。僕の過ちは人を殺めてしまったことではない。最後まで最善の結果を求める努力を最初から放棄し、楽な道ばかりを選び続けたことだ。
幻覚を見てからすぐ、少年は中学校のある町を逃げるように離れた。数か月間避難所で生活していた生存者たちによって食料や物資の類は消費しつくされていただろうし、何よりもあの悪夢を見た場所から一刻も早く離れたいという気持ちが強かった。
腹の傷は塞がり、体力も回復してきてはいたが、心の方はそうでもなかった。あの幻覚を見て少年は、自分が犯してきた過ちの数々について認識せざるを得なくなった。そしてそれらの罪の大きさに耐えきることが出来なかった。
今までは自分は悪くない、すべては仕方のないことだと自分に言い聞かせることで、罪の意識から逃れることが出来ていた。しかしもうその魔法の呪文は通用しない。自分の行為で多くの死者が出たこと、そしてそれらの多くはもしかしたらどうにか出来たことなのではないかという自責の念が、常に少年を苛んでいた。
もしも早々に諦めることをせず、最後まで最善の結果を求め続けていたら、もっと死者の数は減っていたのではないか? 無用な殺人を行うこともしなくて済んだのではないか?
少年が憧れていた映画のヒーローたちは、最後まで希望を持ち続けて努力していた。そして少年もそのような人間になりたいと思っていた。だが実際にやってきたのはその正反対なことばかりだ。
困難があれば逃げ出す。助けを求めている人がいても、自分の安全を最優先して見捨てる。挙句の果てに誰も信じることが出来ず、少しでも悪意を向けられると皆殺しにして安全を確保しようとする。もはやヒーローではない、悪役同然の存在となってしまった自分に、少年は絶望していた。
中学校で見つけたあの警察官の死体のように、自殺することも考えた。どうせ生きていても自分の犯した過ちに後悔し続けるだけの日々を送るのだし、今ここで死んでおけばもう誰も自分の愚かさの犠牲にならずに済むかもしれない。それに生きていたって、どうせもう世界に希望など残ってはいない。あるのは死と恐怖と絶望だけ。
だがいざ死のうとして銃口を頭に突きつけると、途端に引き金が引けなくなった。口で何を言おうと、頭で何を考えようと、身体は死への恐怖に対して正直だった。結局自ら死ぬこともできず、かといって生きる希望を持つこともできず、少年はただひたすらに絶望と後悔の念だけを抱きながら車を走らせている。
日本で感染者が発生してから、既に一年近くが経過していた。感染者たちは野生動物を食らうことで栄養を摂取し、未だに元気に動き回っている。
東へ東へと向かい続けて半年以上が経過していた。すでに少年は首都圏に入り、今は東京湾沿いの道路を走っている。これまでは感染者の少ない郊外を選んで進んでいたが、それももはや限界に近かった。ほかの生存者たちによって比較的安全な人口の少ない郊外地域の物資は消費しつくされていた。また道路が焼け落ちた建物の瓦礫で塞がっていたり、橋やトンネルが破壊されていたためそれらを迂回しながら進んでいくと、人口の多い地域を通るしかなくなっていた。
海沿いに進んでいくと、はるか東の方には墓標のように並ぶ東京のビル群が霞んで見える。地方暮らしの少年にとって、東京を訪れる機会は両親の実家に旅行に出かけるか、あるいは中学校の修学旅行くらいしかなかった。
東京を訪れる度にどこへ行っても人混みばかりで圧倒されたが、それもそのはずだった。東京だけで1000万人以上の人口が存在し、近隣の県を含んだ首都圏を含めれば3000万人以上が生活しているのだ。
それらの人々はどうなってしまったのだろうか? 人口が密集している地域では、感染拡大のスピードも速い。感染者に大半が食い殺されたか、あるいは自らも感染者と化したか。
1000万人以上の感染者。実際には大半が感染者になる前に食い殺されただろうが、東京の人口の一割が感染者になったと考えても100万人以上になる。そのうちの何割が、今でも生きているのだろうか。
いったいどこへ行けばいいのだろう。あてもなく車を走らせ続けながら、少年は幾度となく繰り返してきた問いを再び考えた。首都圏に入ってもなお、生きている人間は一人足りとて見かけていない。
もはや生きる意味も希望も見いだせない。ただ死にたくないという願望のみで少年は移動を続けていた。食料がなくなれば他の場所へ移動し、感染者に見つかったら逃げる。それを続けてきた結果、生まれ故郷からはるかに遠い首都圏までやってきてしまった。
どこへ行っても安全な場所などありはしない。このままずっと、感染者から逃げ続けて日本中を巡るだけの毎日を送るのだろうか。少年は運転席のシートを倒し、車の天井を見上げながらそんなことを思った。既に陽は落ちており、少年は海岸近くの倉庫の駐車場に車を止め、一夜を明かすつもりだった。駐車場には潮風に曝され続け、錆が回ったトレーラーやトラックがそこかしこに停まっている。
空は黒い雲に覆われ、外は10メートル先の視界もおぼつかない暗闇に包まれていた。真っ暗な車の中で、少年の腕時計の針に塗られた夜光塗料だけが微かに光を放っている。最近、食欲も睡眠欲もすっかり無くなってしまった。食事をしていれば自分一人だけが生き残って、これから先も生きていくために食事をする罪悪感を感じてしまう。眠っている間は悪夢を見る。
あの幻覚を見てから、何もかもがおかしくなってしまった。食欲が沸かず、眠れないからと言って、普通に腹は減るし眠くもなる。そのせいで体力はどんどん削られていく。
最近では病気でもないのに風邪薬を飲んで眠るようになっていた。風邪薬には副作用で眠気を催すものがある。それらを中心に服用しており、薬を飲んだ時だけは悪夢を見ることもなく眠りにつけていた。ただ目覚めた時に身体がだるく、疲れも全くなくならないが。
どこから間違っていたのか、どうすればよかったのか。そしてこれからどうすべきなのか、そればかりを考えてしまっている。楽しいこと、明るいことを考えて気を紛らわせようとしても、そんな気分にすらならない。振り返っても楽しい思い出など頭に浮かばない。
背後を振り返っても、前を見ても、広がっているのはどこまでも続く暗闇だけ。その場に立ち止まることもできずに、少年はこれから起きる出来事に怯えながら前に進んでいくことしか出来ない。
「……?」
フロントガラス越しに自分の心を表したかのような黒い雲が広がる空を見上げていると、視界の隅でふと何かが動いたように感じた。駐車場に並ぶ銀無垢のコンテナを荷台に搭載したトラックの陰で、何かが動いたように見えた。
素早くシートから身を起こし、傍らの短機関銃を手に取る。改めてトラックの方向を中止したが、暗いせいか何も見えない。先ほどから時折雲の切れ間から月が顔を出したりひっこめたりしていたが、今は雲に遮られ月明りは地面まで届いていない。
身に着けたままのチェストリグのポーチから暗視装置を取り出し、ヘッドバンドを頭に巻いた。一気に頭が重くなったが、気にせず単眼式の暗視装置を左目に当て、電源を入れる。一気に左目の視界が緑色に染まり、昼間のように駐車場に並ぶトラックやトレーラー、そしてその向こうに立ち並ぶ倉庫群の姿がはっきりと見えた。
そしてその緑色の視界の中、今度ははっきりとトラックの陰からこちらを伺う人間の姿が確認できた。顔こそ見えないものの、少年の乗るワゴン車の方向を向いていることだけはわかる。
感染者ではないようだ。感染者だったらそもそも何かに隠れるなんて真似はしない。
だがあれが人間なら厄介なことになる。あの人影が偶然この場にやってきた、なんて可能性は低い。奇跡的な確率で数少ない生存者同士が鉢合わせたのだとしたら、向こうが少年の存在に気付いているはずがない。 先客という可能性もないだろう。倉庫の駐車場で一夜を明かすと決めた後、周囲の建物は可能な限り見回って誰もいないことを確認してある。
だとすると、あの人物は少年を尾行してきたということになる。いったいどこから? 何のために?
少年は自分の迂闊さをまたしても呪った。いつも肝心なところで何か失敗を犯してしまうのだ。疲れが溜まっていたから、と言い訳をしても後の祭りだ。警戒を怠ったせいでこのような事態を招いてしまったことは否定できない。
問題は、あの人物が何のために少年の後を追ってきたか、だった。襲いに来たか、それとも助けを求めに来たのか。
しかし考えている時間はなさそうだった。少年は短機関銃を持ったまま、運転席のドアをそっと開けて外に出た。人影はトラックの陰から移動を開始し、少年のワゴン車の方へと小走りで近づきつつあった。
その人影に向かって短機関銃を構えかけ、そして銃口を下した。「決して先に手を出さないこと」、そのルールが頭を過ぎったからだ。そのせいで腹を撃たれ、死にかけたばかりだった。
だが本当に撃たなくていいのか? 向こうはすでにやる気かもしれない。もしも相手が銃を持っていれば、先に撃った方が勝ちだ。
今の少年の頭の中には、二人の自分が存在していた。片方はさっさと撃て、自分以外の人間はすべて敵だと叫んでいる。もう片方は人の善意を信じたいと願っている。どちらに従えば、もう後悔せずにすむ? 間違わなくてすむのだろうか?
迷った末に、少年は銃ではなくフラッシュライトを手に取った。そして息を大きく吸って吐き、「誰だ!?」と叫ぶのと同時に、近づきつつあった人物へと光を照らす。
暗闇を切り裂く強烈な光の中、「うわっ……!」と声を上げ、手で目を覆う男の姿がそこにはあった。少年が暗視装置を使い、自分の存在に気付いたとは露とも思っていなかったらしい。額に黒いバンダナを巻き、厚手のジャンパーと作業ズボンに身を包んだ男の姿は意外と清潔感があり、そしてその手にはリボルバー拳銃が握られていた。
だから早く撃てと言ったのに。頭の中で誰かがそう呟いたのを聞いたような気がした。それと同時に暗闇の向こうで「気づかれた、撃て!」と誰かが叫ぶ声が聞こえ、続いて眩い銃火が闇を散らし、銃声が空気を震わせた。
ヒュッと銃弾が空気を切り裂き、放置された車両に突き刺さる金属音が鳴り響く。「クソが……!」と少年はもはや誰に対するものかもわからない悪態を吐き、ワゴン車の陰から反撃の引き金を引いた。
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