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ただひたすら走って逃げ回るお話  作者: 残念無念
第三部:逆襲のお話
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第一〇九話 サイコブレイクなお話

 世界が燃えていた。

 先ほどまで人でいっぱいだった体育館は火に包まれ、床に放り出された毛布や段ボールに次々と火が燃え移っていく。燃え盛る体育館のど真ん中に、少年は一人立っていた。


 これは幻覚だ。頭の中ではそう理解していた。

 現実ではこの体育館はすでに焼け落ち、避難所となっていた学校には自分以外誰もいない。それなのにこうやって燃え盛る体育館に自分がいるということは、日記を読んだ影響で体育館ごと疫病の患者を焼き払った光景を幻として見ているに過ぎない。


 だが目の前の光景が幻だとわかっているのに、目が覚める気配は一向にない。体育館の中では何かが焼ける嫌な臭いと共に、それまで見えていなかった火だるまになって床を転げまわる人々の姿が露になっていく。


「助けて、ここを開けて!」


 そう叫び、出口の扉を叩く人々の姿。だがその分厚い体育館の扉が開かれることはない。体育館に隔離されたインフルエンザの患者たちは、丸ごと焼き殺されることが決まっているからだ。

 助けを求めて出口に殺到する人々に、炎が燃え移った。たちまち肉と髪の毛が燃える嫌な臭いと共に、この世のものとは思えない絶叫が空気を震わせる。炎に包まれた女性が床を転げまわり、火を消そうともがいていた。しかし化学繊維で出来た服は、そう簡単には火が消えない。

 

 火だるまになり、仲間に助けを求めようと両手を伸ばす人もいた。だが今まで一緒に暮らしていたはずの仲間は、自分にも火が燃え移ることを恐れて助けようとはしない。「来るな!」と蹴り飛ばされ、うめき声をあげて床に転がった燃え盛る男性が、うずくまったまま胎児のように身体を丸めて動かなくなった。


 

 一刻も早く、こんな恐ろしい夢から覚めたかった。頬をつねってみたが、痛い。幻を見ているというのに、痛みすら感じるのか。そんなことを思った直後、「まだ逃げようとしてるんだね」という声が少年の背後から響く。

 振り返るとそこに、日本人離れした風貌の金髪碧眼の女性が立っていた。「ナオミさん!」と声を上げ、少年は彼女のもとに駆け寄ろうとした。たとえ目の前の光景がすべて幻だとしても、彼女は唯一少年が頼ることが出来た存在だった。幻であっても、彼女に助けてほしいという思いが少年の頭にはあった。

 幻覚を見ている自分にとって、目の前のナオミは唯一夢から目を覚ます手段。おそらく自分の深層意識がそのような形をとって、この悪夢のような光景の中にナオミを出現させたのだろう。

 

「助けてください、早くここから出してください!」

「助けて? おかしなことを言うんだね、君は」


 少年が聞いたこともない、ぞっとする声だった。我を忘れて足を止めた少年に、今度はナオミが足を踏み出す。


「助けてほしかったのは私の方なのに。君なら助けてくれると思ったのに」


 怒りのこもった、それでいてどこか悲しみを含んだ声でナオミは続けた。少年に向かってナオミが一歩一歩足を踏み出すたびに、その姿が徐々に崩壊していく。


「君はいつもそうだよね。困ったことがあるとすぐに安易な道に逃げるし、誰かに助けを求める。そのくせ自分が誰かを助けようとはしない」


 綺麗な顔は無数の痣と共にジャガイモのようにあちこちが陥没し、手足があり得ない方向に捻じ曲がる。何かが爆発するような音とともに、腹が裂けて腐敗したガスが噴き出した。もともと色白だったその肌は、今や真っ白になっていた。

 たくさんの沈んだ川に転落し、全身を強打した末に溺死したならばこんな見た目の死体が出来るだろう。今や喋る死体と化したナオミを前にして、少年は絶句していた。早く夢から覚めたかった。だがその気配はない。


「たとえ私が幻だったとしても、自分が助けてもらえると思ったの? 自分が殺したその相手に?」

「ちがう、僕は助けようとしたんだ。あれは仕方なかった……」

「仕方ない、ね。この光景もその『仕方ない』判断の結果繰り広げられることになったんだけど」


 そう言ってナオミが、折れ曲がった指で周囲をぐるりと指さした。インフルエンザの患者を焼き殺しと判断した警察官の日記、あれにも「仕方がない」と書いてはいなかったか。


「これは夢だ。体力が落ちたせいでこんな悪夢を見ているんだ……」

「ほら、そうやって目の前に見たくない現実があるとすぐに逃げ出そうとしますよね。他の人には散々現実を見ろって言う癖に」


 ナオミの背後から姿を現したのは、彼女と共に少年が一緒に行動していた小学生の愛菜だった。だがその姿もナオミ同様、徐々に悲惨なものへと変貌していく。身体中に空いた穴から血が噴き出し、床に血だまりを作っていく。少年に向かって突き付けられたその左手には、人差し指と中指がなかった。


「少しいいことがあると、調子に乗って次も上手くいくとばかり考える。そんなあなたのせいで私は死んだ。あなたが油断していなければ、調子に乗らなければ私は死ななかった」

「うるさい黙れ! 何でもかんでも僕のせいにするなよっ!」


 もしも目の前に本人がいたら絶対に言わないような言葉だったが、少年は愛菜に対して罵声を浴びせていた。一刻も早く目を覚まして、この地獄のような幻の中から抜け出したかった。


「僕だっていろいろと精一杯やってきたんだ! あんたたちだって助けようとしたさ! でも人間にはできないことだってあるんだ!」

「あんたは私たちを助けようとしたんじゃなくて、誰かを助けようとしている自分に酔っていただけよ」


 そう言って燃え上がる炎の揺らめきの中から姿を現したのは、これまた見覚えのある顔だった。少年と行動を共にした面々の中で最後の方まで生き延びたが、結局感染者と化して少年自ら射殺した少女の姿だった。


「結衣……」

「ナオミさんと私、どっちを選べば確実に命を助けられるかなんてわかりきっていたことじゃない。でもあんたは最後の方までナオミさんを助けることを諦めなかった。でもそれは彼女を助けたかったわけじゃない、自分は最後まで頑張ったって言い訳が欲しかっただけなんでしょ」

「結衣の言う通り、さっさと私を見捨てていたら、孤立した彼女が感染者に咬まれることもなかっただろうね。何かを犠牲にしなければ何かを得られないのは、今も昔も同じだよ。でも君は結衣に私を見捨てたと非難されたくなくて、結局何もかもが手遅れになるまで決断を下すことが出来なかった」


 あの時少年は確かにナオミを助けようとしていた。だが心のどこかでは最初から二人とも助けるのは無理だと理解していた。そしてナオミを見捨てなければならないことも。

 それでも最後まで粘っていたのは、本心からナオミを助けたかったわけじゃない。頑張った、仕方なかったと自分を慰める理由が欲しかったのだ。最後まで諦めずにナオミを助けようとしていれば、結局彼女を見捨てざるを得なくなっても結衣は自分を非難しないだろう。そういう考えが頭にはあった。

 そして結局ナオミは少年が手を放したことで川に落下し、結衣は少年がナオミを助けようと身動きが取れなくなっている間に感染者に咬まれた。二人とも少年が殺したのだ。


「違う、違う……僕は……仕方なく……」

「仕方ないって、便利な言葉よね。そうすれば言い訳になって自分の心を慰められるんだから。結局あんたは口だけは立派だったけど、最初から最後まで自分のことばかり考えて動いてたのよ」

「おまけに今でもその事実を認めようとせず、『仕方ない』と繰り返して安易な道を選んでいる。私たちが死んだことで少しは何か変わったかと思ったけど、むしろひどくなっているね」


 気が狂いそうだった。自分の心の闇、邪な部分を見せつけられているようで、一刻も早くこの世界から逃れたかった。だがその考え自体目の前の幻たちが言うように現実から目を背けようとしていることであるのに、少年は気づいていない。


「僕は助けようとしたんだ! 愛菜ちゃんもナオミさんも、結衣も! 父さんも母さんも友達もみんな!」

「じゃあ聞くけど、あんたは結局誰を助けることが出来たの? 誰も助けていないよね?」

「むしろ人を殺してしかいませんよね」


 そんなことはない、と叫ぼうとした。だが何も言い返せない。

 僕はいったい、誰を助けることが出来たのか? そして気づく。答えはノーだ。

 誰かを殺したという記憶はあれど、誰かの命を救えたという覚えはない。結衣と愛菜は少年が助けたようなものだが、二人とも結局少年のせいで死んでしまった。


「君が避難した中学校、あそこにいた人たちも皆君のせいで死んだ。君は誰かを助けようとしていたけど、誰を助けられたの?」


 その言葉と共に、燃え盛る炎の中から無数の人影が姿を現した。腹を裂かれ、内臓を引きずっている者。顔面の肉を食べつくされ、むき出しになった頭蓋骨に目玉だけが残っている者。食いちぎられた首からだらりとホースのような器官を露出させ、呼吸と共に不気味な音を立てている者。

 そのどれにも見覚えがあった。日本で感染が始まったその最初の日、少年が避難した中学校にいた人々の姿だった。そしてそのどれもが変わり果てた姿となり、少年に迫ってきている。


「痛い」「助けて」「死にたくない」「やめて」「いやだ」「どうして俺が」「私が」「なんで」「ママ」


 無数の呻き声と断末魔の絶叫が、少年の耳に突き刺さる。その中の一人が、怒りと憎悪の籠った声で言う。少年はその人物の顔に見覚えがあった。中学校の同級生であり、あの夜一緒に行動を共にしていた吉岡という少年だ。


「お前のせいでこうなったんだぞ。お前がつまらない正義感を発揮して、よく考えずに門を開けたからこうなったんだ」


 吉岡の幻影は少年を糾弾した。避難所となっていた中学校が壊滅した理由、それは――――――。


「あの時門を開けてなけりゃ、皆死なずに済んだかもしれないのにな。俺だって感染者に咬まれることだってなかった。お前がヒーロー気取りで誰かを助けようなんて思わなければ、こうはならなかった。全部、お前のせいだ。それでもまだお前は仕方ないとでもいうつもりか?」


 あの時少年は、感染者に襲われた男性を門を開けて中学校の中へと入れてしまった。あの時はまだ感染経路について詳しくわかっていなかったから、その後発症して感染者と化すなんてわからなかった。だから仕方がなかった。そう反論しようとしたが、開いたままの口からは言葉が出てこない。吉岡の放ったヒーロー気取りという言葉が、胸に突き刺さった。

 あの時確かに少年は、感染者に襲われた男性を助けようと思った。しかしそれは純粋な善意から来た行動ではなく、そうした方が格好いいからという気持ちがあったことも否定できない。映画のヒーローのように、恰好いいことがしたかった。だから少年は門を開けた。そしてその結果中学校の中で感染した男は発症し、人々を襲ってさらに感染を広げていった。


「なんで俺たちが死んで、皆を殺したお前が生きているんだ? 生きる意味もないくせに、なんで生きてるんだよ」


 吉岡の幻影はそう言って、再び炎の中へと消えていく。


「仕方ない、仕方ないっていうけどね、君のやってきたことは単なる大量殺人だよ? それ以上でも以下でもない。勿論場合によっては誰かの命を奪わなきゃならない時があるかもしれない。でも君はやり過ぎた。必要のない命まで奪い過ぎた」


 ナオミがそう言い、今度は子供たちの幻が現れる。ナオミたちが死んだ後、一人放浪していた少年を襲ってきた連中の姿だった。飢えていた彼らは少年を襲い、そして皆殺しにされた。まず少年は襲ってきた連中を一人残らず殺し、続いて帰りを待っていた仲間たちも殺した。「油断できないから、仕方ない」。そう言い訳をして。


「全員殺す必要はあったの? 凶行に走ったのは一部だけで、残りはろくに戦うこともできない、戦意も持たない小学生ばかりだったのに? あんたがどこかへ行くなりなんなりしておけばこの子たちは追いつくことすらできなかったんだから、そうしておけばよかったのに。それでもこの期に及んでまだ『仕方ない』とでも言うつもり?」

「結局君は単に自分が傷つくことを恐れて、最初から誰とも関わろうとしない臆病な人間に過ぎないんだよ。それを他者は信用できないとか何とか悟ったような言葉を吐いて誤魔化して、格好つけていただけ」


 結衣とナオミが口々にそう述べ、今度は30人ほどの老若男女が姿を見せた。皆全身穴だらけになり、身体中から血を流していた。少年が裕子たちを助けに行った時、射殺した連中だ。


「この人たちも結局戦意喪失してたのがほとんどだったし、戦える人間は皆君に殺されてたのにね」

「後々復讐される可能性がある? この人たちが何を言おうと、あんたは最初っから殺すつもりだったでしょ? 誰も信じられない臆病者だから、一度でも悪意を向けられたらその人を敵と見なすことしかできない。でもそんな自分を素直に認められないから、言い訳を重ねつづけて誤魔化し続けるしかない。哀れな人間ね」


 もう何も言い返せなかった。今まで目をそらし続けてきた自分の汚い部分が、こうやって突き付けられている。

 膝をつき、少年は頭を垂れた。自分があまりにも自分勝手で矮小な人間であることを自覚し、すでに自尊心は粉々に打ち砕かれていた。自分のせいで多くの人が命を奪われた。その事実の大きさに恐怖し、そして震えていた。


「じゃあ、僕はどうすればよかったんだよ……。どうすればいいんだよ」


 口から零れたその一言に、冷たい目を注ぐナオミたちの幻が答える。


「死ねば?」

「死んでよ」

「死んだらいいんじゃないんですか?」


 俯いたままの少年の視野に、突如横から伸びてきた血まみれの手が映った。その手は少年の足首を掴み、引っ張る。その手の先にあったのは床を這いつくばる、全身を食われた女性の感染者の姿だった。

 顔の皮膚も多くが食いちぎられていたが、その顔は確かに少年の母のものだった。必死で探したが、結局少年自ら手を下した感染者と化した母親。その母がうめき声を上げ、勢いよく少年の足に咬みついた。


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