第一〇七話 ダイアリー・オブ・ザ・デッドなお話
「車はどうしますか?」
少年のその問いに、ナオミは「あとで取りにくればいいよ」と答えただけだった。少年が乗ってきたワゴン車はそのままの状態で民家の軒先に放置されており、荒らされた形式はこれっぽっちもない。車体には雪がうっすらと積もり始めていたが、かろうじて窓ガラスから車内の様子が伺えた。運転席のシートと床には茶色く変色した血がこびりついていて、あらためて自分が死にかけるほど出血していたことを自覚する。
「それで、どこに行くんです?」
「学校だよ、中学校。君がこの町に来た時に見たはずだけど」
そう言われても、車を走らせている時は撃たれた傷の痛みと出血で意識が朦朧としていたので、町の様子など詳しく見ている余裕はなかった。かろうじて通ったルートだけは覚えているが、途中に学校があったのかもしれない。
学校という言葉に何かが頭に引っかかったが、気にしないことにした。今は一刻も早く、安全な場所に移りたい。少年はふらつく身体を引きずるように、先を進むナオミについていく。道路に積もりつつある雪に、少年の足跡が刻まれていく。
唐突に、彼女に自分を恨んでいるか訊くべきかと少年は考えた。仕方がなかったこととはいえ、自分が手を放したことで彼女は川へと転落した。少年としては最善を尽くしたつもりだが、逆の立場だったら相手を恨むだろう。
少し迷った末に、少年は質問しないことにした。こうやって生きているのだからいいではないか。もしも文句なり恨み言なりがあるのであれば、向こうから言ってくるだろう。それにあれは仕方がなかったことだ、彼女が少年の立場でも同じことをしただろう。だから少年がやったことについても理解してくれるはずだ。そう結論を下し、黙って彼女の後をついていく。ナオミは何も言わない。
本当はあの濁流の川からどうやって助かったのか、どうやってこの町までやってきたのか。そしてなぜ少年があの家にいることを知っていたのか。聞きたいことは山ほどあったが、聞かないことにした。なぜそうしたのかすら、考えないようにした。
意外なことに、町中で死体を見かけることはなかった。今まで見てきた町は、必ず道路に死体が転がっていたものだ。必死に逃げたものの感染者に追いつかれ、食われたり、あるいは逃げようとしたところを車に轢かれてそのまま放置され、腐敗し白骨化した死体が町のどこかに必ずあった。だがこの町にはそれがない。混乱につきものの事故の形跡や、焼け落ちた家も見当たらない。
この町は郊外にあるから、感染者がやってくるまで時間があったのかもしれない。町の人間の多くは逃げ延び、残った者たちが学校に立てこもったのだろう。それとも転がっていた死体を、学校に避難した人々が埋葬したのだろうか。
10分も歩いた頃、ようやく避難所だという学校が見えてきた。学校の敷地を囲むフェンスには鉄板が打ち付けられ、敷地内の様子を伺うことはできない。急ごしらえらしい竹で組まれた櫓の上に、人影が見えた。
同じく鉄板が打ち付けられた校門は開かれたままになっており、ナオミさんは少年を促し先に学校に足を踏み入れた。彼女の後について恐る恐るといった感じで門を通った少年は、広い敷地のあちこちに人影が見えることに驚いていた。
てっきり数人くらいしかいないと思っていたのだが、案外多くの人間が生き延びていたらしい。校庭には学校の備品らしいテントが張られ、数台の乗用車やバスが停められていた。校庭の一角には大きな穴が掘られ、そこに無造作にゴミを放り込む人々の姿が見えた。
「さ、こっちに来て」
ナオミはそう言って体育館を指さした。彼女の後に従い、少年も体育館を目指す。途中で何人かとすれ違ったが、不思議なことに誰からも声を掛けられることはなかった。なぜだか、すれ違った人の中で見覚えがある顔があった気がする。振り返ってその顔をよく見ようとしたが、急に視界が霞んで確認できなかった。早いところ横になって十分な休息を取りたかったが、今は我慢するしかない。
「上がって」
閉め切られていた体育館の扉を開き、ナオミが手招きする。体育館の中は共同の生活スペースになっているらしく、段ボールや木の板で作られた仕切りがそこら中に配置されていた。電源の節約をしているのだろうか、天井のライトは灯っていない。外と同様に、体育館の中も静まり返っている。感染者がいるかもしれない以上仕方のないこととはいえ、不自然なほど静かだと少年は感じた。
足元で何かが乾いた音を立て、少年は自分が一冊の手帳を踏んづけていることに気づく。手帳を拾い上げ、持ち主に返してもらおうとナオミに声を掛けようとしたが、ナオミは体育館の中の人込みに姿を消してしまっていた。声を上げて彼女の名前を呼んでも、姿を見せない。他に用事でもあるのだろうかと少年は考え、壁際に座り込んで拾った手帳をしげしげと眺めた。中を見れば、持ち主が誰かわかるかもしれない。
体育館の中では、昔テレビで見たような避難所と同じ光景が繰り広げられていた。床に敷かれた段ボールに寝転がる大人と、そんな彼らに構うことなく走り回っている子供たち。ボール遊びをしている子たちがいたが、やはり静かだ。何かがおかしい。少年は目の前の光景に何か違和感を抱いていたが、考えないようにして手帳のページをめくった。
『3月16日
感染症がついに日本にも上陸した。私を含め5名が避難所に指定された桜木中学校の警備に派遣されることになった。感染が広がっているのは都市部が中心らしく、まだこの町に騒ぎは届いていない。しかし本庁からの通達が本当であるのならば、すぐにこの町も大変なことになるだろう。住民の大半はまだ楽観的な希望を抱いているが、どうなるかはわからない。私としてもすぐに混乱が収まることを願っている。記録のために、報告書とは別に日記という形でこの一連の事態について記録していきたいと思う』
どうやらこの手帳の持ち主は警察官らしい。そういえば先ほど、外で警察官を何人か見かけたような気がする。校庭にパトカーも止まっていたし、最初の日に自分が避難した中学校と同じように、避難所に指定された場所に警察官が派遣されていたのだろう。
個人の日記とわかって手帳を読むのを止めようかと思ったが、続きが気になった。持ち主を特定するためだと言い訳をして、少年は手帳のページをめくった。
『3月17日
県警本部から派遣される予定だった応援は来ない。署にも応援を要請したが、それどころではないようだ。どうやら、大勢殉職者が出ているらしい。
たった一日しか経っていないのに、感染は全国にまで広がっているそうだ。すでに都市部は感染した人間でいっぱいだと報告が入ってきた。感染した者は他者を襲って食うという話だが、信じられない。信じたくないというのが本音だろうが。
当面、桜木中学校の警備は我々5名だけで行うことになった。本部は自衛隊に協力を要請しているらしいが、どうなることやら。必要なのは警備の応援ではなく、安全な場所に住民たちを移動させる手段の方かもしれない』
『3月19日
住民の間に不安が広がっている。テレビのチャンネルは半分以上映らなくなり、ラジオも放送していない局が表れ始めた。政府は家の戸締りを厳重にして屋外に出ないよう呼び掛けているが、そんなことはお構いなしにどんどん付近の住民はこの桜木中学校に集まってきている。
幸か不幸か、この町にはまだ感染した人間はやってきていないらしい。住民の間にも感染が広がっている兆候は見られない。そのこともあってか、テレビが不安を抱きつつもすぐに元の生活に戻れるという希望を抱いている住民が多い。
だがいつまで無事でいられるだろうか。署の方ではすでに半分以上の警察官が殉職したと連絡が入ってきた。会計や交通の連中まで現場に駆り出しているらしいが、いつまで保つだろうか。応援は来ないものと考えた方がいいかもしれない』
『3月22日
署との連絡が途絶えた。いくら呼び掛けても返信がない』
『3月26日
街の方に偵察に向かった野村警部補たちが戻ってきた。市街地に入るなり多くの人影が外をうろついていたとのことだが、様子がおかしかったらしい。スマホで撮った映像を見ると、確かに見た目は人だが様子が普通ではなかった。あれが感染した人間の成れの果てなのだろうか。
警部補たちは警察署に向かったが、途中で引き返したそうだ。街の様子と連絡が取れないことから考えて、署の人間は全滅したか、どこかへ移動してしまったのだろう。
住民の不安は頂点に達している。とにかく今は何とかして彼らを落ち着かせ、これからのことを考えなければならない。だが我々5人だけでやれるのだろうか』
『3月27日
住民たちを集め、状況を説明した。事態がすぐに鎮静化すると思っていた人々はショックを受けたらしく、何人か話の途中で保健室へと運ばれていった。
大半の住民は話を落ち着いて聞いていた。だが彼らの様子から見ると、単に一連の事態を現実のものとして受け止めきれていないだけなのかもしれない。
ひとまずこの避難所は、我々警察が中心となって治めることが決まった。当面は協力して避難所の防備を固めつつ、外部との連絡を取ることを優先する。街があの様子では望みは薄いが、まだ無事な地域はたくさんあるかもしれない。自衛隊が感染者を鎮圧するか、救助に来るのを待つ』
少なくともこの避難所には、感染者は現れなかったらしい。最初から警察官がいたのも、住民たちがうまくまとまることが出来た一員だろう。なんだかんだで、こういった時に一番役に立つのは武器だ。
『3月29日
本日から避難所の外へ、食料の調達に出ることになった。中学校は災害時に一時的な避難所になることは考えられても、恒久的な生活場所として使うには設備も物資も不足している。
まだ感染者の姿も見えないし、生活環境を考えて住民たちを家に戻すべきではという提案もあったが、一か所に集めておいた方が管理がしやすい。住民たちには申し訳ないが、数カ月はここで暮らしてもらわなければならないだろう。
まずは近隣の民家から食料や生活必需品を集めることになった。自分の家を漁られ、私財を持っていかれることに反発する者もいたが、我々がどうにか説得した。こういう時なのだから、素直に協力してほしい。わがままを言ってもらっては困るのだ。もっともこんな言葉、住民の前ではとても言えないが』
『4月4日
今日、外に物資の調達に出ていた住民たちが襲われた。外をうろつく人影を見つけ、市街地から避難してきた人間だと考え迂闊に近づいてしまったらしい。二人が殺され、感染者は近藤巡査長が射殺した。
感染経路は詳しく判明していないが、接触感染が主らしい。ひとまず住民たちを隔離して身体検査を行うことになった。
殺された住民の家族は、我々に抗議してきた。確かに家族を失って悲しいのはわかるが、我々だって人手不足だ。たった5人で200人以上の住民をどう守れと? 本部からの応援もなしに、この10日間以上ずっと不眠不休で頑張っているのは我々なのだ』
『4月6日
感染者に住民が殺されてから、避難所の中の雰囲気が一気に悪化したような気がする。もめごとが増え、殴り合いの喧嘩も起きている。昼夜を問わず問題が発生し、そのたびに呼び出されているのでロクに休むこともできない。もう5日間、4時間以上の睡眠をとっていない。
いい加減にしてほしい。問題を起こす人間は全員撃ち殺してやりたい』
『4月10日
住民たちにとって我々警察官は相変わらず頼りになる存在であり、同時に便利な存在でしかなさそうだった。もめごとや問題は我々に言えば何でも解決すると思っているようで、解決に時間がかかると文句を言ってくる。
些細なことで数分おきに住民に呼び出される。トイレが詰まった、子供の姿が見当たらない、食料が足りない、発電機が故障した……。いい加減にしてほしい。何でもかんでも我々に仕事を押し付けるな。
結局のところ、住民たちは我々を下に見ているのだろう。昔と同じように、呼んだら何でも言うことを聞いてくれる便利な存在としてしか考えていないようだ。ゴキブリが出たくらいで警察を呼んでいた馬鹿な連中もいたが、現在の状況から考えるとこっちの方が酷い。自分でやれ、と言いたくなるようなことまで我々に押し付けてくる。
我々5人だけでこの避難所を仕切るのはもう限界に近い』
『4月15日
田原巡査部長が失踪した。彼の残した書置きによると、家に戻って妻子の安全を確認してくるらしい。
田原巡査部長は結婚して子供もいる。この避難所に来てから何度も家族が無事かと不安をこぼしていたし、繋がらないのをわかっていて携帯電話をかけ続けていた様子も見たことがある。
追いかけて連れ戻すかどうか残りの面々と話したが、野村警部補の「行かせてやれ」との言葉で、ひとまず田原巡査部長が帰ってくるのを待つことにした。もしかしたら家族を見つけて、一緒にこの避難所まで戻ってくるかもしれない。
こんな状況になって思うのは、結婚していなくてよかったということだ。もしも妻子がいたのなら、不安で心が押しつぶされていたかもしれない』
『4月30日
結局、二週間待っても田原巡査部長は帰ってこなかった。残された4人で避難所の管理運営、治安維持を担うのは不可能だ。
協議して、我々に協力的な住人を集め、彼らにも避難所の警備にあたってもらうことにした。最近物資調達に出るたびに、感染者らしき不審な人影を目撃している。警備要員が足りない』
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