第一〇五話 上手に焼けたお話
中世ヨーロッパでは銃創などの傷口を、高温の油をかけたり焼きごてを押しつけることで塞いでいたらしい。人体を構成するタンパク質は熱で固まるから、それを応用して傷口を塞ぎ出血を止めていたという。
無論、医学の発達した現代ではわざわざそんな苦痛に満ちた方法を採る必要はない。麻酔をかけて血管を縛ることで、十分止血が出来る。しかしそれが出来るのは医者だけだし、今少年の近くに医者はいなかった。どこの病院に行っても、医者など一人も残っていないだろう。
なぜならウイルスの流行初期に病院には大勢の感染者によって負傷した人々が担ぎ込まれ、そのままそこで発症して感染者と化してしまったからだ。対応にあたった医師や看護師は、大半が殺されたらしい。もし生き残っていたとしても、少年と同じように逃げ出しただろうからどこにいるかさえわからない。
たとえ戦場であっても、今よりは状況がマシだったろう。何せ銃弾を受けて負傷しても、仲間が応急手当をしてくれる。そしてその後衛生兵の手当を受けるなり、後送されて軍医による治療を受けるなりでまだ一命をとりとめる可能性はある。
しかし今、ここにはそのどれもがない。高度な医療を受けられない上に十分な器具も技術もなく、独りぼっちの今、少年は古典的な方法に頼るしかなかった。安全を確保した家の中、床に置かれたガスコンロには火が灯り、その上に乗せられたフライパンに少年はビニールの小袋に入った白い粉を振りかけた。先ほどから少しづつ炙っているその粉は、一カ月ほど前にヤクザたちの死体と一緒に見つけた麻薬だった。
麻薬常習者はパイプのようなものを使って麻薬をあぶり、吸引するらしいが、そのような器具までは見つからなかった。代わりにフライパンで少しづつ炙り、その気体を部屋に充満させ、吸っている。
麻薬の中には麻酔として使われているものもある。傷口を塞いで出血を止めるためとはいえ、自分で自分の身体を焼くことには大変な激痛が伴うだろう。その痛みを少しでも和らげるため、少年は麻薬を使うことを決めた。もっともどれだけ痛みが和らぐか、そもそも役立つかすらわからなかったが。
袋の中身が半分ほどなくなったところで少年は、一緒にコンロの火にかけていた、刃を潰したナイフを手に取った。熱せられたナイフは火傷しそうなほど熱く、表面の煤を拭い、柄をタオルで巻いて手に持つ。そして少年は改めて、血で真っ赤に染まったシャツの裾を捲った。
脇腹に空いた小さな穴からは、未だに血が流れ続けている。銃弾は背中に命中し、腹から貫通して出て行った。最初に比べれば出血量は減ってきているが、単に出血量が多すぎて失血状態なのかもしれない。どちらにせよ、このまま放っておくわけにはいかなかった。今すぐ傷口を塞がなければ、命に関わることは明らかだった。
炙った麻薬を吸ったせいか、それとも血を流しすぎたせいか、頭が少しぼんやりしている。思考が鈍り、気のせいか腹部の痛みもだいぶ和らいできているように感じる。少年は硬く捩ったタオルを口に咥え、意を決して熱いナイフの刃を傷口に押し当てた。
とたんに襲いかかってきた全身を貫く熱と痛みに身体が震え、目尻から涙が零れ落ちた。タオルを噛んでいなかったら、舌を噛んでいたかもしれない。声にならない絶叫が、うめき声として口から漏れた。
ナイフを押し当てていたのはほんの数秒だったかもしれないが、少年にとっては何十秒も身体を焼かれていたような感覚だった。改めて腹を見ると、銃創とその周辺の皮膚には真っ赤な火傷が走り、水膨れが出来ていた。しかし出血は止まっている。
だがこれだけでではない。背中側の傷口も同様に塞がなければならないのだ。はっきり言ってもうやりたくはなかったが、少年は震える手を火薬に伸ばした。やるしかなかった。それがどのような痛みを伴うものであれ、生き延びるためならば何でもやらなければならない。
その後どうやって傷口を塞ぎ、処置をしたのか少年は覚えていなかった。気づいた時には背中側の傷も同様に焼かれ、腹に包帯を巻いた状態で少年は床に倒れていた。
麻薬を使ったとはいえ、撃たれたのとはまた違う、耐えがたい痛みだったことは覚えている。何度気を失いそうになったか――――――いや、実際に気を失っていたかもしれない。荒っぽい方法ではあったが、そのおかげで出血は止まった。単に身体に残っている血の量が足りないだけなのかもしれないが。
が、今度は大やけどを負ってしまった。それに貫通した銃弾が内臓を傷つけていないという保証もない。火傷はどうにかできるが、内臓の傷はどうしようもない。処置が間に合わなかったり、腹の中に汚れた衣服のかけらなどが残っていて敗血症の危険だってある。そもそも火傷から新たな感染症にかかってしまうリスクだってあった。
今後自分の身体に何も異変が起きないことを祈るしかなかった。撃たれた場所は下腹部だし、脇腹から数センチのところなので肝臓や脾臓の心配はないが、腸が破れていたらお手上げだ。もしも内臓が傷ついていたら――――――その時はその時だろう。
それに出血は止まったが、腹に空いた穴が完全に塞がったわけではない。それに止血するまでの間に大量に出血してしまった。傷口が塞がり、元通りに動けるようになるまで二週間から三週間、あるいは一カ月以上かかるかもしれない。
銃弾を受けた腹部にはワセリンを塗り、その上からラップを巻いて傷口を完全に外気と遮断してある。火傷や軽い怪我なら有効な治療法だが、貫通銃創にどこまで通用するかはわからない。だが医師も十分な医療器具もない今、少年は今まで読んできた本と自分の知識をフルに動員してこの局面を乗り切るしかなかった。それが出来なければ、死ぬだけだ。
出血のせいか、あるいは激痛か。それとも麻薬を吸ったせいかはわからないが、頭がぼんやりしていた。この家の住民は感染者の出現から避難まで時間があったのか、家の中の荷物が持ち出された形跡があった。タンスの棚は開いたままだし、どの部屋の扉も半開きだ。冷蔵庫の中には何も残っていない。
こればかりは残されていたベッドに横たわり、少年は白い壁紙が張られた天井を見上げた。どうしてこんなことになったのか。そんな言葉が頭に浮かんだ。
どうして今自分はこんなに痛い思いをする羽目になったのか? それはあの自衛隊員に腹を撃たれたからだ。
じゃあなぜ彼らと戦う羽目になった? そう考えた時、少年は自分の行動がルールに反していたことに気づく。
まず最初に敵対行動を取ったのは、少年の方だった。スーパーに足を踏み入れた男たちに対し、先に銃口を向けたのは少年だった。
銃口を向けた時点で相手を殺す意思があると見なされるのが普通だし、実際に少年もこれまで銃口を向けられた場合、相手にどんな意図があろうと自分に敵対していると見なし、排除行動を取ってきた。そして自分を正当化するために、少年は自分から相手に銃口を向けないというルールを決めていた。
撃たれるまで、あるいは相手が明確に敵対行動を取るまではこちらも攻撃しない。それがこの世の中で自分を正当化し続ける唯一の方法であり、それに従って定められたルールだ。だが少年はそれを破った。恐怖心から食料を求めてスーパーにやって来ただけの男たちに向けて、銃口を向けた。
だとすると最初に敵対行動を取ったのは僕の方で、僕が決めたルールに従えば僕こそが排除されるべき存在だったのではないか? 少年はそんな結論に至りそうになり、慌てて否定しようとした。だが冷静になって考えれば考えるほど、悪いのは自分であるという結論しか頭に浮かんでこない。
自衛隊員の男が突然発砲してきたのだって、彼から見れば少年が仲間たちに銃口を突き付けているのを目の当たりにしたのだから当然の行為だろう。かつて少年がそうしたように、あの自衛隊員だって仲間を助けようとしただけだ。
やはり、僕が悪いのか? その結論に至り、いつものように否定しようとしたが、今はそれすらできなかった。自分が間違いを犯してしまったこと、そしてその結果今死にかけていること。その事実に気づき、少年は震えた。
もしかして今回のように、僕は今までずっと間違いを重ね続けてきたんじゃないか。そんな考えが頭に浮かんでは消えない。日本で感染者が発生したあの日、避難所となっていた学校の門を開けてしまい感染者の侵入を許し、結果として多くの人が死んでしまったこと。感染者と化した父と母を自分の手で殺し、その後も多くの人たちを見捨てて生き延びてきたこと。せっかく助けた人たち、あるいは出会った人たちもみな殺されるか、あるいは自分の手で死に追いやってしまったこと。
いつものように仕方がなかった、自分のせいじゃないと思い込みたかった。だが今はどうしてもそれが出来ない。「お前のせいだ」と自分を責め立てる声が、頭の中で反響して消えない。
じゃあどうすれば良かったのか。他に何か選択肢はあったのか。そう自問自答しても、「お前のせいだ」と自分を責め立てる声は消えない。少年はベッドの上で目をつむり、何も考えないようにしようとした。いつものように自分は悪くないと言い聞かせ、死んだ連中が間違っていたのだと思い込む。
だがこの日もそんな自己暗示は上手くいかなかった。悩んだ時に相談に乗ってくれる友人も、親も誰もいない。話を聞いてくれる人も、答えを示してくれる人もいない。
そして生死にかかわる重傷を負っているというのに、助けてくれる人もいない。去年だったら少年が熱を出して学校を休むような時は、母がご飯を作ってくれたり家に帰ってきてから看病してくれた。医者だっていたし、彼らが処方してくれる薬だってあった。
だけど今は、それらの全てが無い。少年は自分で自分の手当を行い、自分のこれまでのことを振り返り、そして自分で結論を下し答えを見つけなければならない。鈍い腹の痛みを抱えつつ、少年は独りぼっちであることの恐怖と孤独を改めて身を以て理解していた。
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