第一〇四話 ひたすら走って逃げるお話
衝撃と共に脇腹が赤く染まったのを見て、最初に少年が感じたのは物凄い熱だった。まるで焼けた棒を突っ込まれたかのように脇腹が熱くなり、次の瞬間には激痛に変わっていた。
口から呻き声が漏れ、身体から力が抜けて地面に倒れ込む。それでも「動くな!」との叫び声と共に白い粉まみれになりながらもスーパーの出入り口から外へ出ようとする男たちを見て、少年は拳銃を引き抜き片手で滅茶苦茶に発砲する。何発かが出入り口のドア枠に当たり、火花を散らした。
「武器を捨てろ、抵抗は無意味だ!」
自衛隊員がガラスの割れた窓越しに銃を構えていたが、「黙れ!」と少年は叫び、もう一発撃った。発砲するたびに、衝撃が腹の傷に響き、更なる苦痛を与える。
身体から流れ出す血が、アスファルトの地面に染み込んでいく。今まで感じたことのない激痛に苦しみながら、それでも少年は一歩でも男たちから遠ざかろうとしていた。拳銃を右手で構え、左手で地面を這いながら進んでいく。
その様子を見て自衛隊員が「仕方ない」とでも言うかのように首を振った。男たちと顔を見合わせ、小銃を構えかけた次の瞬間、聞きなれた咆哮が街中に響き渡る。感染者が獲物を見つけ、仲間を呼び寄せるための咆哮だ。
「逃げるぞ」
自衛隊員はその咆哮を聞いた途端、自分たちを襲ってきた少年には目もくれず、他の男たちを促して荷物をまとめ始めた。彼らにとって重傷を負った少年はもはや脅威でも何でもなく、今はこの場所に迫りくるであろう感染者から逃げることを優先していた。派手に銃声を響かせたお陰で、街中の感染者が今やこのスーパーを目指していることだろう。
少年もここから逃げなければならないことはわかっていたが、身体が思うように動いてくれなかった。今まで撃たれた経験は一度だけあったが、その時は銃弾が腕をかすめた程度だった。腹に風穴が空くのは初めてだった。
男たちがスーパーから飛び出し、どこかへ走っていく姿が見える。すぐにその背中も交差点の角の奥に消え、少年は無人の街にただ一人取り残された。
「痛ぇ……」
どうにか上体を起こし、立ち上がろうとする。が、同時に更なる激痛が身体に走る。腹部は内臓など重要な器官が詰まった場所だ。そこを撃たれたのだ、下手をすれば即死していてもおかしくはない。
内臓が傷ついていないことを少年は祈った。もしも銃弾が臓器を傷つけていたら、助かる見込みはほぼゼロだ。医者なんて人材は感染が始まった当初に多くが殺されていたし、生き残っていたとしてもこの場にはいない。身体中に傷のあるモグリの医者なら鏡で自分を映しながら自分の開腹手術を行うところだろうが、少年には手術を行えるだけの知識も技術もない。
とにかく今はこの場を――――――いや、この街を離れなければ。激痛と戦いながら改めてそう考えた直後、道路の交差点の向こうから何かが飛び出してきた。ボロボロになった学生服を纏い、血走った眼で周囲を見回すそれは、感染者と見て間違いなかった。感染者は道路に仰向けになったままの少年の姿を見て、大きな咆哮を上げる。それと同時に学生服を着た感染者の背後から、さらに二体が飛び出してきた。
「うわぁあああああっ!」
恐怖の悲鳴か、それとも気合を入れるための絶叫か。少年は言葉にならない叫び声を上げながら、状態を起こして傍らに転がっていたライフルを引き寄せた。そして素早く構え、レーザー照準器を点灯し、むちゃくちゃに引き金を引く。放たれた銃弾の大半は虚空に消えたが、何発かは感染者たちの身体を貫いた。額から上を吹き飛ばされた学生服の感染者が、つんのめるようにして道路に倒れ込み、蛇のような脳髄が地面にばら撒かれる。他の二体の感染者も射殺したが、街のあちこちから咆哮が響き渡っていた。
「逃げなきゃ……」
今にも足から力が抜けそうだったが、ライフルを杖代わりにしてどうにか立ち上がる。空になった弾倉を交換すると、少年は重い身体を引きずるようにして、車を止めたマンションへと走り始めた。走ると言ってもほとんど早歩きと変わらないようなスピードだったし、一歩足を踏み出すたびに腹の銃創からさらに血が流れだすのが分かった。身体を割くような痛みが、歩くだけでも全身を襲う。
マンションへ向かう途中、数体の感染者とさらに遭遇した。出来ることなら大きな音の出る銃は使いたくなかったが、この際生き延びるために手段を選んでいる暇はなかった。少年の姿を目にするなり飛びかかろうとした感染者を射殺し、わき目も降らずにマンションの駐車場へ駆け込む。銃声を聞いた感染者がさらに集まってくるだろうが、今は一刻も早くこの街を離れなければならない。ぐずぐずしていたら、街中の感染者が少年のところへ押し寄せてくるだろう。
血まみれのダッフルバッグを後部座席へ放り込み、ライフルを助手席に立てかけて運転席に座る。急いでいるせいか、それとも出血のせいで志向が鈍ってきているのか、中々エンジンキーが上手く差さってくれなかった。脂でぬめる指でどうにかエンジンキーを差し込み、捻ってエンジンを動かす。そのままアクセルを前回にふかし、駐車場の門にぶつかるのではないかと思うほどの急なカーブを描いてワゴン車は道路へ飛び出した。
幸い、前にも後ろにも感染者の姿は見えない。が、誰もいない街中でエンジン音を響かせていたら、やはり感染者に居場所を知らせることになる。電動走行モードに切り替えた直後、遠くから響いた銃声が窓ガラスを震わせた。
単発の銃声に交じり、連発した銃声も窓ガラス越しに聞こえてくる。おそらくあの男たちが感染者と戦っているのだろう。少なくとも彼らが戦っている間、感染者はそちらの方へと向かってくれるに違いない。ぼんやりとそんなことを考えながら、少年は東へ向けて車を走らせた。なぜ東かとは考えなかった。今は一刻も早くこの街から逃げ出し、腹の傷を治さなければならない。そのことだけを少年は考えていた。
10分ほど車を走らせた後、ようやく少年はブレーキを踏んだ。すでに九段の街ははるか後方のかなたへと消え、あたりには程よく寂れた郊外の街並みが広がっている。ここなら感染者はいないか、いても数は少ないだろうと少年は判断した。
チェストリグを脱ぎ捨て、血を吸ったジャケットの裾を捲る。意を決して脇腹を見ると、小指の先ほどの大きさもない穴が開き、そこから血が流れ出ていた。おそらく自衛隊員が発砲したのは、貫通性能の高いフルメタルジャケット弾だろう。着弾と同時に弾頭が潰れるホローポイント弾だったら今頃内臓はぐちゃぐちゃにかき回され、傷口だって目も当てられないような状態になっている。
内臓が傷ついているかどうかはわからないが、そうでないことを少年は祈った。そうでなければ手の施しようがない。手術なんてしてくれる人間はこの場にはいないのだ。
とにかく今は、止血することが最優先だった。激痛と出血で身体はフラフラしていたが、それでもなお生きることへの執着は強かった。一分一秒でも長く生き延びる、そのことだけが少年の頭を支配していた。
だが腹部の傷は止血することが難しい。手足ならば大腿や上腕部を縛ることで止血が出来る。しかし腹部はそれが出来ない。止血するには直接傷口を塞ぐしかない。
少年はライフルも持たず、拳銃のささったホルスターだけを身に着けて車から降りた。そして後部席からカセットコンロと救急箱、そして以前見つけた麻薬の小袋を引っ張り出し、手近な民家へと上がり込んだ。
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