第一〇〇話 盗んだバイクで走り出すお話
学院編はこれで終わり、閉廷!
次からは終盤に入っていきます。
礼の突然の告白に混乱しながらもどうにかその場を離れた少年は、急いで自分に宛がわれた教室へ向かっていた。今は一人になりたかった。これ以上誰かと話し続けていると、頭がおかしくなってしまいそうだった。
バリケードの構築作業を終えたのか、亜樹を筆頭に数名の女子生徒が少年の前方から廊下を歩いてきていた。学院に来た当初は少年に警戒や恐怖が入り混じった鋭い視線を浴びせていた彼女たちも、今ではまるで友人に接するかのように廊下ですれ違ったり顔を合わせれば挨拶をしてくる。だが今は、挨拶すら聞きたくない。挨拶を無視し小走りで彼女たちの脇を通り過ぎようとした少年に、背後から亜樹が声がかけられる。
「あ、そうだ忘れてた。先生がこれをあんたに渡しておいてって」
立ち止まってはいけないはずなのに、思わず足を止めてしまった少年に、亜樹がポケットから取り出した折りたたまれたコピー紙を押し付ける。プレゼントといい、この紙といい、あの先生は何か忘れっぽいようだ。そんなことを思いながら折りたたまれたコピー紙を開いた少年は、そこに印刷してあった文字に視線が釘付けになった。
「進路調査書……?」
「そ。といっても昔みたいに行きたい大学とかの名前じゃなくて、来年に何をしたいか書いてくれって先生が言ってたよ。新年の抱負、的な?」
そういう亜樹たちは楽しそうだった。そういえばクリスマスパーティー以降、彼女たちが笑っているところを見る機会が増えた気がする。生徒たちに明るい気持ちを持たせようという裕子の試みは、成功したのかもしれない。
「どんなこと書いた?」
「とりあえず、彼氏を作ろうとか。そっちは?」
「私は5キロ痩せるって書いた。まあこの一年ずっと体重は減りっぱなしなんだけどね」
会話に華を咲かせる生徒たちを見ていると、少年は心の中で何かどす黒い感情が広がっていくのを感じていた。なんでそんなに楽しそうにしていられるんだ。そんな言葉が脳裏に浮かんだ途端、彼は手にした進路調査書をぐしゃぐしゃに握り潰していた。
「……下らねえ。何が新年の抱負だ、僕もあんたらも来年どころか明日には死んでるかもしれないのに、こんなもんに意味なんてない」
「いや、何マジになってんの……?」
「だいたいお前らは能天気すぎるんだよ! この前だって友達や先生が殺されかけてたってのに、呑気にクリスマスパーティーなんかやって新年の抱負とか……。今はもう昔とは違うってこと理解できてないのかよ!」
突然大声を張り上げた少年に、生徒たちが醸し出していた明るい空気はどこかへ行ってしまった。代わりに重苦しい空気が周囲に満ちた。生徒たちは自分たちが置かれている状況を思い出したかのように顔を見合わせ、視線を下に落とす。
そうだ、これでいい。こいつらは長いこと安全な場所にいたせいで現実を忘れてるんだ。楽しいことにうつつを抜かしているこいつらの顔を強引にでも外に向かせて、もう世界に未来も希望もないってことを教えてやらなければ。心に広がるどす黒い感情に身を任せるまま言葉を継ごうとした少年だったが、その前に亜樹が口を開いた。
「……あんたさ、そんな生き方で楽しいの?」
「なんだと?」
「そんな生き方をしていて人生楽しめるかって聞いてるのよ。確かに外の状況は最悪だってことくらい、私だって理解できる。村には死体がゴロゴロ転がってて、父さんとも連絡が取れてない。だけどこんな時だからこそ明るい気持ちを持たなきゃダメなんじゃない? 何かささやかな楽しみであっても、それが生きる希望に繫がればいいんじゃないの? あんたみたいにずっと根を詰めていつも最悪な状況のことばかり考えてたら、生きる気力も沸いてこなくなるわ」
何も言い返せなかった。そんな少年に、亜樹は重ねて問うた。
「あんたさ、何か将来の夢とかないの? こんな最悪の状況が終わって世の中が良くなったら、何かやりたいってこと一つくらいはあるでしょ?」
「……あるわけない。世界はもうどうにもならない、これ以上悪くなることがあっても良くなることなんて……」
「私にはあるよ、夢が。私は先生になりたい。皆もあるよね?」
亜樹が背後を振り返ると、生徒たちは口々に「うん……」「私も……」と言いながら首を縦に振った。少年にはそれが理解できなかった。こんな最悪で絶望しかない世の中で、どうして将来への夢なんか抱いて生きていける? なぜ未来が明るいものになると無条件に信じられる?
「多分あんたは私たちじゃ想像もつかないくらいつらい経験をしてきたんだろうね。それには同情するし、悲しいことだと私は思うよ。でもそんな時だって前を向いて生きていくべきなんじゃないの? 目の前のつらい現実ばかり見ていて楽しいことを何も考えず、いつも最悪なことばかりを予想してたら、生きる希望なんて湧いてこないんじゃない?」
少年は今度こそ何も言えなくなった。亜樹の言っている生きる希望なんて湧いてこない生き方、それはまさに今の自分の生き方なのではないか?
いや、僕は間違っていない。少年はすぐにそう思った。夢も希望も、そんなものは9か月前にとっくに失われてしまったのだ。代わりに世界を満たしているのは絶望と恐怖だけ、僕はそれに適応した生き方をしているだけだ。
環境の変化に適応できた生物だけが生き残り、出来なかった種は絶滅してきたように、僕は生き延びるべくこの世界に適応しただけなのだ。それが出来ていない彼女たちは、変わろうとしない限り死ぬしかない。そう、未来や希望といったものを捨て去らない限り。
そう言い返そうとしたが、声が出なかった。そんな少年に畳みかけるように、亜樹は言った。
「あんた、何のために生きてるの?」
その質問は、少年の心の奥深くに突き刺さった。その質問はまさに、少年がずっと求めているものだった。だが長い生死をかけた戦いで疲れきった少年は、生きることそのものを目的としてしまった。
何も言い返せず、少年は無言で走って彼女たちから離れた。背後で亜樹が何か言ったが、聞こえなかったフリをした。
これ以上ここにいてはいけない。そう心の中で何かが囁いていた。せっかく新しい世界で生き延びるためにルールを定め、それに従って今まで生きてきたのに、この学院の先生と生徒たちは古い世界のルールで生き続けている。夢や希望を抱き、それを少年にも見せつけてくる。少年が定めたルールでは、夢や希望なんてものは真っ先に捨て去るべきものだと定義されていた。
ここに居続けていたら、彼女たちによってせっかく定めたルールがぶち壊されてしまう。早急にここを離れなければ。そう自分に言い訳をしながら、少年は自分が使っている教室に戻った。
いつでも逃げ出せるような暮らしを送っていたはずなのに、教室のあちこちに自分の衣服や装備が散らばっていた。それらを急いでリュックに押し込み、銃を担ぎ上げて廊下に出ようとしたところで、少年の足が止まる。
もしも自分がいきなりいなくなったら、裕子や亜樹たちが困惑するだろう。別れのあいさつの一つくらいしておくべきではないか――――――そう思ったところで、少年は頭を振ってその考えを振り払った。
そもそも自分と彼女たちはギブアンドテイクの関係だっただけで、そこまで親密にしていたわけじゃない。別れの礼なんて必要ない。そもそも自分にとって他人とは、利用するためだけの存在だったはずだ。
そう思ったが、少年は教室の中へと引き返し、散らばっていた紙を一枚手に取り『ここでの生活は自分に合わないので出ていきます』と書いた。そして少しの間の後、『さようなら』と付け足したその紙を黒板に磁石で張り付ける。
グラウンドでは葵たちが弾薬を用いない射撃の訓練を続けていた。葵には裕子が拉致された時からブローニング自動小銃を預けっぱなしだったが、返してもらう暇はない。予備弾がなく撃ち尽くしたらそれで終わりということで、拾ったトカレフ自動拳銃も誰かに貸したままだった気がする。
他にも生徒たちが持っている銃や弾薬の大半は、少年が村で見つけたものだった。それらをすべて集めれば結構な量になるが、もはや返してもらう気すら失せていた。少年は武器弾薬が積み込まれたままのワゴン車に乗り込むと、校門の方へと車を走らせる。
「あれ、軍曹殿。どこへ行かれるんですか?」
「村に行ってくる」
「そうですか、気を付けてくださいね」
少年に気づいた葵が車に寄って来たが、特段疑うこともなく少年を送り出した。それどころか校門まで同行し、わざわざ重い門扉を開けすらした。他の生徒も少年を見送るだけであり、引き留めようとする者はいない。もう帰ってこないなんて露とも思っていない顔をしている。
少年は葵が開けた門から車を出し、南に向かって車を走らせる。なぜ葵に嘘を言って学院を出たのか、自分でも理解できなかった。彼女たちを不安にさせたくなかったのか?
南にまっすぐ向かえば先日の村に行き当たるが、少年は森を出たところで東へ進路を取った。彼女たちが決して追ってこられない場所、知らない土地へ行きたかった。
しかし学院から離れていくにつれ、少年の心を何かが埋め尽くしていく。先ほどのどす黒い感情とは違う、虚無感がまるで虫のように少年の心を削り取っていく。
悲しみと寂しさが心に広がり、少年は戸惑った。なぜ自分で出ていくという選択をしたのに、悲しんだり寂しがる必要があるのか。むしろお互いのことを考えるとこれでいいはずなのだ。水と油が交じり合わないように、少年と学院の人間の価値観は絶対に一致しない。このまま学院にいたところで彼女たちは再度異物でしかない少年を疎んでいただろうし、少年も彼女たちの考えに苛立ちを抱いていただろう。あのまま学院に居続けることは、お互いにとって不幸なことでしかないはずだ。
なのになぜ、僕は。森から抜けた少年は、東に向かってハンドルを切る。どうして僕は、あれだけ彼女たちのことが気になっていたんだろう。
ルールに定めた通り他人は生き延びるために利用する道具でしかないのなら、こんな気持ちは抱かないはずだ。出て行くにしても、転勤ばかりのサラリーマンがするように、淡々と学院を引き払うだけだ。本当に他人が利用するしか価値のない存在ならば、わざわざ感傷など抱かない。
口論だってしなかっただろう。自分以外の全てに無関心だったのなら、他人が何を言ったところで全く意に介さない。だが少年は亜樹の言葉に反発し、そして結局何も言い返せなかった。礼の告白にだって動揺して、結局逃げるように学院を出てきてしまった。
車は殺風景な田園地帯を走り続ける。道路の左右には荒れ果てた田畑しか見えない。もうこの畑が誰かに耕されることはないだろうな……と考えていた少年は、唐突になぜ自分が自分で定めたルールから逸脱してしまったのかを理解した。
羨ましかったのだ、平和な生活を送り続ける裕子や亜樹たちが。
彼女たちは誰かを殺すこともなく、仲間を失うこともなくこの九か月間生き延びてきた。そんな彼女たちは少年が失っていた将来への希望や夢といったものを抱き続けていた。その姿が羨ましく、そして妬ましくもあった。
結局のところ自分がやろうとしていたのは、他人にも自分の不幸を押し付けようとしたことだった。両親を殺し、仲間を死なせ、仲間を殺し、善意が裏目に出て大勢の人に死をもたらし、誰も救うことが出来ず、生きるために人を殺し続けた。自分ばかりがこんな不幸に陥っているのに、学院の人間はそんな経験をすることもなく今まで生きてきた。だからお前らも僕と同じく不幸になれという、ごく身勝手な理由で少年は彼女たちの考えや行動を否定し続けてきた。わざわざ村に連れ出し死体を見せつけたりしたのだって、彼女たちの考えをぶち壊して、自分と同じ経験を味わってもらおうという嫌がらせに過ぎない。
だが本当に否定したかったのは、今の自分の生き方かもしれない。
『あんた、何のために生きてるの?』
亜樹に言われた言葉が蘇る。生きる目的を失い、いつしか生きることそのものが目的となってしまった自分は、本能のままに動き続ける感染者と同じ存在に成り下がってしまった。
だけど今更やり直すことなんて出来やしない。今まで色々なものを失い続けてきた末に、ようやく導き出した自分の生き方を、そう簡単には変えられない。このまま進み続けるしかない。そう考えたからこそ少年は彼女たちの考えは間違っていると、学院を飛び出してきたのだ。
あのまま学院にいたのならば、いずれ少年も彼女たちと同じ考え方をするようになっていたかもしれない。だが全てを失い、その末にルールを定めて今の生き方を決めた少年にとっては、それは受け入れられないことだった。今の自分の生き方やルールは、死んでいった両親や仲間たちが土台になって作り上げられている。それと真逆の生き方をする彼女たちの考え方に染められてしまえば、それらの犠牲が無駄になってしまうのではないか?
仲間を全て失った時、少年はそれまでの自分を捨てて今までとは全く異なる新しい生き方を選んだ。それまで抱いていた常識や考え方を捨て去ることは自分がいなくなってしまうような気がして怖かったが、生きるためにはそうするしかなかった。その経験をもう一度味わいたくはなかった。自分が今まで積んできた経験や、そこから導き出した答えが全て無駄になってしまうことを恐れた。
つまらない意地の張り合いだってことはわかっていた。だけど考え方が変えられない、変えようとしない限りはいつまでも学院にはいられない。だから少年は逃げたのだ、自分がまた変わってしまうことを恐れて。
ハンドルを握りながら、少年は自分以外誰も映っていないルームミラーを見た。また一人になってしまった。あのまま学院にいたら、学院の人々は自分を仲間として受け入れてくれたかもしれない。だけどもう、戻ることは出来ない――――――。
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