第0-1-4話 朝のナパームの香りは格別なお話
今更ですがネット小説大賞の一次選考に通過しました。皆さまの応援に感謝します。
人々が感染者に食い殺される悲鳴は、マンションの下の方からも聞こえ始めていた。厳重に戸締りして立てこもろうかと考えていた僕のプランは、たちまちご破算となった。どのみち食料も十分に無い上いつ電気や水道が止まるかわからない状況では、立てこもるのもあまりいい考えとは言えなかったが。
しかしこのマンションを出て、どこに行けばいいのかわからない。感染者は西側からやってきているが、東へ行くための橋は自衛隊が封鎖している。橋を渡ろうとしていた人たちが全員射殺されたのか銃声は先ほどから止んでいたが、もしもまた渡ろうとするものがいたならば、再び彼らが構える銃口から火が噴き出るだろう。
この街の南は海だ。となると、北へ逃げるしかない。やってきたばかりであまり地理に詳しくないが、それでもここに留まっているよりかは生き延びる確率がわずかにでも上がるだろう。
僕は誰もいない部屋を素早く漁ってナップザックを確保し、冷蔵庫にあった水や食料を手早く放り込んでいく。子供用らしき部屋には、あちこち傷だらけの金属バットも置いてあった。学生服と野球のユニフォームがハンガーに掛けられていたから、持ち主は高校生だろうか。
ナップザックを背負い、金属バットを片手にそっと玄関のドアを開ける。感染者の群れの襲来に、今まで閉まったままだったドアが次々と開いて、住民たちが廊下を右往左往しているのが見えた。彼らもこのマンションが安全ではないと悟ったのだ。
マンションの廊下から下を見下ろしたが、感染者はマンションのすぐ前まで迫っていた。今ここを離れなければ、永遠に逃げる機会を失ってしまうだろう。僕は慌てる住民たちに逃げるよう言ったが、何人の耳にその言葉が届いただろうか。
非常事態ということもあってか、エレベーターは止まっていた。階段を三段飛ばしで駆け下り、息を切らしながら一階のエントランスまで降りる。先にこのマンションに住んでいた家族らしい4人組が、自動ドアから外に出ようとしていた。しかし自動ドアが開き、一家が外に出た途端、複数の人影が彼らに向かって飛びかかる。
子供たちの悲鳴と、首筋に食らいつかれた父親の絶叫が響き渡る。家族を襲っているのは感染者たちだった。それも一体や二体ではなく、五体はいる。二体がまず最初に外に出た父親に襲い掛かり、残りの三体が子供や母親を襲った。
「助けてえっ!」
まだ小学生くらいの男の子が、自動ドアの窓ガラスを叩いて叫ぶ。しかし不審者の侵入防止用に、エントランスの自動ドアは鍵を使うかインターホンで住民を呼び出してロックを解除してもらわない限り、外からは開かない。ドアを叩く彼らにも、感染者たちは容赦なく食らいついた。鮮血が窓を汚す。
「ああクソッ!」
彼らを助けるのは無理だ。僕にはそれが分かった。襲われた家族はまだ生きているが、全員噛まれてしまっている。彼らが発症して感染者の仲間入りをするか、あるいは死ぬのが先か。
ガラス越しに僕の姿に気づいた感染者の一体が、強化ガラス製のドアを殴り始めた。このままではすぐにドアも破られてしまうだろう。僕は正面の入り口からではなく、一階の廊下から外に出ることを決めた。
廊下は大人の胸ほどの高さのある壁に囲まれていたが、乗り越えられない高さではない。まずはバットを外に放り投げ、続いて壁をよじ登って駐車場に出る。駐車場でも何人かが襲われていた。襲われているのは住民ではなく、外からこのマンションへ逃げ込んできたらしい人々だった。
僕の姿に気づいた感染者が死体を貪るのを止め、こちらに向かって突進してくる。幸い、向かってくるのは一体だけだ。僕は拾い上げた金属バットを構え、タイミングを見計らった。感染者が間合いに飛び込んできた途端、刀を振り下ろすようにバットを斜め上から思い切り感染者の頭に叩きつけた。ぐしゃっという何かが潰れる嫌な感触が手に伝わる。
脳天に金属バットの一撃を受けた感染者は地面に倒れたが、尚も立ち上がろうとしていた。人間だったら病院行きが確定する打撃だろうが、感染者にとってはさほどでもなかったらしい。頭を上げた感染者の額に、とどめの一撃を振り下ろす。感染者の顔が文字通り歪み、鼻や耳から血が流れ出た。目が半ば飛び出した感染者は再び地面に倒れ痙攣し始めたが、今度は起き上がる気配はなかった。
一体を倒したが、まだ安心するわけにはいかない。正面の入り口付近には一家を襲った感染者たちがまだ残っているだろうし、それ以外にも街の外からやってきたり、この街の住民だった感染者たちが周辺にまだ多数いることは疑いようがない。早くこの場を離れなければ、次々と増えていくであろう感染者たちに追いかけられる羽目になる。
僕は駐車場からマンションの外に出た。すでに道端には死体がいくつか、それも酷く食い荒らされたものばかりが転がっていた。グズグズしていては、僕もあの死体の仲間入りをしてしまう。
橋の方からは、再び銃声が聞こえていた。流れ弾を食らう危険があったが、僕は川に沿って北に向かうことにした。今は川沿いに人が集まっている。もしも感染者がやってきたとしても、獲物が多い方が僕がターゲットにされる可能性は低くなる。残酷なことだが、僕にはそうするしか他に手段がない。
――――――そんなことを思って川沿いの道路に出たが、すでにそこでは地獄絵図が繰り広げられていた。川の向こうの街へ避難しようと橋に押し掛けていた大勢の人たちに、感染者の群れが襲い掛かっていた。
車も動けないほど人が詰めかけていたせいで、感染者に襲われた人々は逃げることさえ出来ていない。そこかしこで悲鳴と怒号が飛び交い、断末魔の絶叫が空気を震わせる。
「助けてくれ!」
破壊された門を通って、対岸の街へと後退した自衛隊に向けて人々が助けを求めて走っていく。しかしそんな彼らへの答えは、一斉射撃による銃弾の嵐だった。自衛隊は暴徒ですらない、感染者から逃れようと助けを求めに来た人たちに向けて発砲を開始していた。大人も子供も、男も女も関係なかった。
装甲車のハッチから上半身を乗り出した隊員が重機関銃を発砲し、橋の上で人体が次々と引き裂かれていく。土嚢やバリケードから顔を出す隊員たちが、手にした機関銃や小銃の引き金を引いた。
『全部隊へ、全部隊へ。大規模な感染者集団の街への侵入が確認された。よって規定に従い、これより対岸にいる全市民を潜在的な感染者と認定する。全市民を殺害せよ。繰り返す、全市民を殺害せよ。なおニヒトマルマル時を以って市街全域を空爆し、米軍が化学兵器による攻撃を行う。街に留まっている部隊は直ちに離脱せよ。ニヒトマルマル時までに脱出が完了しない場合でも空爆は実施される、繰り返す……』
自衛隊と群衆が衝突した時に隊員が落としたのか、地面に転がっていた携帯無線機のスピーカーからそんな声が漏れ出ていた。僕は思わず無線機を手に取り、スピーカーに耳を当てる。先ほどから同じ内容の通信が繰り返されていた。
だから自衛隊は市民を救助するのではなく、発砲を続けているのだ。もはや僕たちは守るべき国民から、いつ感染者になってもおかしくない敵だと認定されたのだ。橋に陣取る自衛隊は逃げる人々も、彼らを追いかける感染者も関係なしに発砲していた。さらに射線は橋の上だけではなく、川沿いの道路にまで広がっている。感染者の魔の手から逃れようとする人々に向けて、機関銃の掃射が浴びせられた。感染の有無にかかわらず、次々と皆が死体に変えられていく。
「皆逃げろ! ここはもうすぐ爆撃されるぞ!」
そう叫んだが、どれくらいの人間の耳に僕の言葉が届いただろうか。拾ったばかりの無線機は、背後から突き飛ばされた際に吹っ飛んで行ってしまい、人々の足に覆い隠される。こうなってはもう逃げるしかない。非力な僕では誰も助けられない。
川沿いの道路では感染者と人々が入り乱れ、阿鼻叫喚の地獄絵図が繰り広げられていたが、逃げる分には好都合だった。悲鳴の大合唱が街中に響いているせいで、感染者たちは橋の前に集まった人々のところへ殺到している。川沿いの道路から離れると、すぐに感染者の姿は見えなくなった。
時刻は午後八時。ニヒトマルマル時というのはおそらく21時のことだろうから、爆撃まであと一時間しかない。それまでに人口密集地である市街を抜け出さなければ、僕は黒焦げにされてしまう。
幸いなことに、徒歩で北まで向かわずに済みそうだ。というのもそこら中に鍵のかかっていない自転車が乗り捨てられてたからだ。感染者に襲われたか、あるいは自転車ですら移動が困難だと判断した人たちが捨てていったのだろう。僕は手近な一台に跨ると、北に向かって全力でペダルをこぎ始めた。
電線がどこかで切れたのか、街灯が一斉に消えた。しかしそこらじゅうで何かが燃えているせいで、明かりには事欠かない。燃えているものなら何でもある。車、家、そして人間。
橋は封鎖され、川沿いにいるだけで無差別に銃撃を浴びせられるにも関わらず、僕は何度も東へ向かって走る人たちとすれ違った。彼らはまだ自分たちが潜在的な感染者だと認定され、殺害対象になっていることを知らないのだろうか。声をかけようと思ったが、感染者に襲われた恐怖でパニックになっている彼らは立ち止まることもなく川の方へと走り去っていった。
「おっと……」
途中、空気を震わせるディーゼルエンジンの音が聞こえ、僕は慌てて自転車を降りて電柱の陰に隠れた。その直後、自衛隊の装甲車が数台、東へ向かって走っていくのが見えた。爆撃に巻き込まれまいと、川向うの街へと脱出する部隊だろう。装甲車の屋根の機関銃には自衛隊員たちが取りつき、周囲を警戒している。全市民を殺害するよう命令を受けた彼らに助けを求めて出て行ったところで、鉛弾の答えが返ってくるだろう。僕は自衛隊の車列が通り過ぎるまで、電柱の陰でじっと身を潜めていた。
北へ北へと進んでいく内に、建物はまばらになりマンションなども見えなくなってくる。どうやら市街地の北には畑や田んぼが広がっているらしい。もともと住んでいる住民の数も少ないようで、逃げる人や感染者の姿は見られなかった。
月明かりの下、暗い道路を北へ向かって自転車を漕ぎ続ける。腕時計を見ると、今まさに9時を回ろうとしていた。
爆音に近いエンジン音を響かせながら、翼端灯を点滅させながら数機の編隊を組む戦闘機が市街地の上空を旋回しているのが見える。地上の炎に照らし出される機体の腹から何かが落下した。爆弾を投下したらしい。田んぼに囲まれた家が数軒しかないようなこんな場所まで爆撃されるとは思えないが、慌てて僕は自転車を乗り捨て、近くの用水路に飛び込んだ。
街の方から、それまでよりも大きな火の手が次々と上がる。それに遅れること数秒、雷鳴のような爆発音が僕の耳にも届いた。爆撃を行っている編隊は一つだけではなく、複数の編隊が街中に爆弾を落として回っている。
きっと今頃、街ではありとあらゆるものが焼かれているだろう。橋を渡ろうとして川に殺到していた人たちは爆撃を食らうか、その前に銃撃で全員死んでしまったに違いない。この街で死んだ人は、きっと千人や二千人では済まないだろう。
きっと同じことが日本だけではなく、世界中で繰り広げられているんだろうな。僕は炎上する市街地を遠くから眺めながら、そんなことを思った。
大を生かすために小を犠牲にすることは仕方がない。平和な時代でさえも、民主主義の下ではそんな考えが許容されていた。だがこれではどう考えても、犠牲になった人間の方がそれによって生き延びた人間よりも多すぎる。小を生かすために大を犠牲にした形だ。
だが、そうすることもこれからは必要になってくるのかもしれない。危険な要素を切り捨てていった先で生き延びられる人間は、ほんの少ししかいないだろう。対岸の街を守る自衛隊は大勢の市民を潜在な感染者として判断し、街に感染者が侵入しないよう全員を殺害する措置を取った。不確定要素であり危険な存在になりかねない大勢よりも、すでに安全が確認されている少数の人間を守る決断を下したのだ。そして僕は切り捨てられた側にいながらも、どうにか生き残った。
これから僕も、そんな決断をしなければならない時がやってくるのだろうか。爆撃を受けて燃え盛る街を見つめながら、僕はそんなことを思った。
次回からはまた時系列が現在に戻ります。そろそろ学院編は終わりです。