第0-1-3話 逃げる奴はベトコンなお話
目が覚めた時、部屋の中は真っ暗だった。腕時計を見ると、とっくに日没の時間を過ぎていた。
窓からは微かに地上の光が入ってきている。外は昼間と同様に――――――いや、もっと酷い状態だった。橋に詰めかけている人の数は、明らかに昼間より増えている。事故か、あるいは放火されたのか、道端に放置されている車が燃えていた。燃えているのは車だけでなく、街のあちこちから火の手が上がっている。
そんな状態だというのに、いまだに橋は封鎖されていた。昼間よりも橋を警備する自衛隊員の数は増えており、道路沿いに設置された監視塔からサーチライトの光を押し掛けた群衆に浴びせている。橋に急ごしらえで取り付けられた門の前では、消防車が詰めかけた人々に対して放水を行っていた。
どうやら人々は業を煮やし、強引に橋を突破しようとしているらしい。それを阻止しようとしている自衛隊員らとの間で、あちこちで小競り合いが起きている。バリケードや有刺鉄線にそこらへんに置いてあった立て看板を乗せて乗り越えようとする人たちに向けて、消防車の放水が直撃する。何人かが強力な水の奔流を浴びて吹っ飛んで行ったが、人々はなおも橋を封鎖する自衛隊に抗議し、突破を試みていた。
対する自衛隊の方は、暴動をさらにヒートアップさせないためか銃の発砲は控えているようだった。代わりに消防車での放水や催涙ガスの使用、そしてそれでもなお近づこうとする者には大楯を振るい、押し返している。
テレビで何度か見たことがある、外国で起きていた暴動の映像にそっくりな光景が目の前で繰り広げられていた。勤勉で災害時もルールを守って冷静に行動すると言われている日本人でさえ、命の危険に曝されればそんなことも言っていられなくなるということか。
「マズイな……」
橋の封鎖が解除されたら、下に降りて川の向こうへ渡る計画を立てていたのだが、どう見ても自衛隊は誰一人として橋を渡らせるつもりはないようだ。それに今下手に下に降りたら、殺到した人々で身動きが取れなくなる可能性が高い。
かといっていつまでもこの部屋に籠城するわけにもいかない。どうするかと考えたその時、人々の怒号をかき消すような悲鳴が下から聞こえた。
「た、助けてくれぇっ!」
そう言って首筋を手で押さえて必死に逃げ惑う男性に、背後から一人の女性が飛びかかる。彼女が男性を地面に押し倒したところまでならば、痴話喧嘩か何かと笑うことが出来たかもしれない。しかし次の瞬間女性が男性の首に食らいつき、その肉を引きちぎった。男性の絶叫と人々の悲鳴が重なり、橋の前を埋め尽くしていた群衆が、そこだけ急に空間を開けた。
あの女性が感染者であることは間違いなかった。昼間から自衛隊が感染者を始末する銃声が町中から聞こえていたが、とうとう橋までやってきたのか。どこか別の場所で噛まれ、今この場で発症してしまったのだろう。人々が少しでも感染者から離れようと押し合いへし合いする向こうで、橋の上に設けられた監視塔で銃を構える自衛隊員の姿があった。
「何やってんだ、撃てよ!」
群衆の一人が叫んだが、自衛隊員たちは銃を構えるだけで引き金を引かない。当然だ、目の前を群衆が埋め尽くしているのだから。下手に発砲して狙いを外せば、流れ弾で死傷者が出ることは間違いない。監視塔の隊員が無線機に何事か叫んでいる間に、男性を殺した感染者が群衆に襲い掛かる。
そこでようやく、橋の前の道路を一望できる監視塔にいた隊員が引き金を引いた。が、発射された銃弾は感染者ではなくその背後にいた女性に命中し、女性は悲鳴を上げて地面に倒れる。なおも銃声は続き、さらに二人の巻き添え被害を出したところでようやく感染者の胴体を銃弾が貫いた。地面に倒れもがく感染者に、とどめの銃撃が加えられる。
「門を開けろ、橋を通せ!」
「俺たちに死ねってのか! いつまでこんな危険な場所にいさせるつもりなんだ!」
しかし群衆は落ち着くことなく、さらにヒートアップしているようだった。いくら感染者を殺すためとはいえ、巻き添えで死傷者が出てしまった。そのことが彼らの怒りを増幅させたのだろう。そしてここに留まっていては感染者に殺されるか、その巻き添えで自衛隊に殺されるという恐怖が彼らを駆り立てた。
『止まりなさい! 止まりなさい!』
拡声器を持った指揮官らしき人物が叫んでいたが、もはや事態は制御不能だった。群衆は橋を塞ぐ門、そしてそれを守備する自衛隊に向けて突進していく。制止を求める声と共に威嚇射撃の銃声が響いたが、それがさらに群衆の恐怖と怒りを煽った。
「みんな、ここを突破するぞ!」
誰かが叫び、それに応える声が轟く。感染者から身を守るために持ってきていたらしいバットや角材を振りかぶり、あるいは素手で群衆が橋の入り口に展開する自衛隊へと突っ込んでいく。
対する自衛隊の側からはガス弾や非殺傷のゴム弾が発射されたが、もはや一個の生き物と化した群衆には効果が薄かった。感染者でもない人間に向けて発砲するか戸惑う隊員たちに、バリケードや有刺鉄線を乗り越えてきた群衆が襲い掛かる。
「撃て、撃て!」
隊員の誰かが叫び、銃声が空気を震わせる。しかし発砲した隊員は、真っ先に群衆に狙われた。バットで殴られ、倒れた隊員を人々が取り囲み、銃を奪おうとする。そんな彼らに向けて、監視塔や装甲車から銃撃が浴びせられた。
群衆の側にも猟銃を持っている者がいたのか、銃声とともに装甲車の屋根から身を乗り出して発砲していた隊員が、首筋から血の尾を引きながら車内に倒れこむ。怒り狂った群衆が、監視塔や車両に群がって揺さぶり始めた。数十人の力を受けたせいで急造の監視塔は倒壊し、車両は横転する。さらに火炎瓶が門の前に並ぶ数台の装甲車へ投げつけられ、車両が炎に包まれる。
「後退、後退だ!」
その声とともに隊員たちが発砲しながら、門の脇に作られた小さな扉から橋の向こうへと下がっていく。群衆に襲われていた隊員たちがあらかた門の奥に引っ込むと、群衆は門を壊そうと手にした鉄パイプやバットで殴りつけ始めた。しかし何としても感染者に突破されないよう頑丈に作られたのか、ちょっとやそっとの打撃では壊れそうもない。
すると突如土手の上に放置されていたブルドーザーが、重々しいディーゼルエンジンの振動音とともに動き始める。運転席に乗っているのは若い男だった。どこかの工事現場で働いていたのかはわからないが、ブルドーザーの操作法を知っているのだろう。人々はブルドーザーの進路からさっと飛びのいたが、逃れられなかった不幸な何人かが絶叫とともに履帯の下敷きになり、ぐちゃぐちゃの血と肉の塊と化す。
しかし人々は自分さえ巻き込まれなければ、他人が死んでもかまわないと考えている節すらあるようだ。群衆は目の前で人が轢かれたにも関わらず、門に向かって前進するブルドーザーに向かって歓喜の雄たけびを上げている。
「どいつもこいつも狂ってやがる……」
その光景を目の当たりにした僕は、そんな言葉しか口から出なかった。今この場にいる皆が、僕も含めて狂気に飲まれている。
だがこの状況を利用しない手はない。この街まで感染者がやってきたことは明らかだ。あの門が突破された場合、人々は安全な対岸の街に向かって橋を渡るだろう。それに紛れることが出来れば、僕も橋を渡れる。
有刺鉄線を踏みつぶし、バリケードを押しのけて進むブルドーザーが勢いよく鉄製の門にぶつかり、轟音が空気を震わせる。人間や乗用車の突破を阻止する目的で作られたらしい門は、重機での破壊を想定していなかったのかもしれない。最初の一撃で半分門がひしゃげ、ブルドーザーがバックしてもう一度ぶつかると、門は蝶番の部分から内側に向かって開いた。すぐさま群衆が開いた門の隙間から、橋を東に向かって駆け出す。
対岸では後退した自衛隊の部隊が小銃を構え、群衆を待ち構えていた。
『最後の警告だ、今すぐ引き返しなさい! これ以上前進する場合、我々は実力を以て君たちを阻止する!』
だが頭に血が上り、恐怖と怒りに支配された群衆の耳にはその言葉は届かなかった。なおも前進する群衆に向けて、『撃て!』と拡声器越しの声が聞こえた直後、先ほどの散発的なものとは違う、一斉射撃の銃声が響き渡る。
隊員たちは土嚢や装甲車のボンネットに小銃や機関銃の二脚を立て、迫る群衆に向けて射撃を開始した。最前列を走っていた連中は全身に銃弾を浴びて倒れ、後続の者たちも同様の末路を辿った。
そこでようやく我に返ったのか、人々は悲鳴を上げてもと来た道を引き返し始めた。しかし逃げる人たちの背中にも、容赦なく銃弾が浴びせられた。群衆が戦意を喪失して逃げ惑っているにも関わらず、発砲は続いていた。
「このヤローっ!」
ブルドーザーの運転席に座る若者が、そう叫びつつ橋を前進する。ブルドーザーに向けて銃弾が浴びせられたが、持ち上げられたドーザーブレードが盾になって運転席を守っていた。銃弾が弾かれる甲高い金属音を響かせつつ、ブルドーザーが走る。
小口径の小銃や機関銃の弾では、頑丈なドーザーブレードを貫通させるのは難しそうだった。銃弾の嵐をものともせず前進するブルドーザーを見て、逃げ出していた人々が再び橋を東に向かって走り始める。走るブルドーザーを盾にするようにして、死体が転がる橋の上を群衆が前進していく。
しかし次の瞬間、爆音と共にブルドーザーが炎に包まれた。ブルドーザーの後ろにいた人々が、爆炎の中で手足をバラバラに四散させる光景が僕の目に焼き付いた。
橋の中央部分でまたもや爆発が起き、密集していた人間たちが吹き飛ばされる。対岸の街から姿を現したのは、装甲車の屋根に戦車の砲塔を乗せたような戦闘車両だった。その砲口から発射炎が吹き出すたびに、橋の上にいた人たちがバラバラに吹き飛ばされた。
さらに重機関銃を屋根に搭載した数台の装甲車がその後に続き、屋根から身を乗り出した隊員が発砲する。重機関銃弾はかなりの威力があるらしく、直撃を受けた人は手足が吹き飛ばされ、あるいは身体を真っ二つに引き裂かれた。
「もう無理じゃん……」
もうこうなっては、強引に封鎖を突破して橋の向こうに渡ることは不可能だ。ライフルしか持っていないようならまだしも、戦車まで持ち出してきた自衛隊にほとんど素手に近い群衆が敵うはずもない。自衛隊は何が何でも、誰にもこの橋を渡らせないつもりなのだ。
ならば別のルートで川の向こうへ渡る術を見つけなければ。そう思った直後、今度は反対側――――――西の方から悲鳴が聞こえた。一つや二つではない、悲鳴の合唱と助けを求める声が橋での喧騒をかき消す。
「今度はなんだ……?」
ベランダは川に面した東側を向いているので、西の様子を見るにはマンションの廊下に出なければならない。ドアを開けて廊下に出て外を見渡すと、そこかしこで火の手が上がっていた。そして道路には、川とは反対方向の西から走ってきた人々の姿が見える。必死な形相の彼らはしきりに背後を振り返り、助けを求める声を上げながら橋を目指して走っていた。
そんな人々の背後を追う、いくつもの人影があった。唸り声を発しながら走る人影の一つが、道路を走っていた女性の背中に飛びかかる。女性を押し倒したそいつは、勢いよくその鼻に食らいついた。
ぞっとするような悲鳴が空気を震わせた。鼻を中心に顔の肉を食いちぎられた女性に、さらに複数の人影が群がる。街のあちこちから、聞き覚えのあるまるで獣のような咆哮が聞こえてきていた。
この街にも、ついに感染者の群れが押し寄せてきたのだ。僕は目の前が真っ暗になるような気持ちを味わった。
ご意見、ご感想お待ちしてます。
回想は次で終わると思います。