第0-1-2話 その扉は私の「どうぞ」という声にしか反応しないお話
東に向かうにつれて道路には人と車の姿が増えていき、やがて完全に人で埋め尽くされた。車道も歩道も人で溢れ返っていて、一歩も前に進めなさそうだった。車も運転手の苛立ちを反映したかのようにクラクションが鳴り続けていたが、車列が進む気配はない。
西の方からは、時折銃声が聞こえて来ていた。とうとうこの街にも感染者が押し寄せてきたのかと思ったが、銃声の様子から激しく戦っているというわけではなさそうだ。おそらく街にやって来た人間たちが感染していて、発症した彼らを自衛隊か警察が射殺して回っているのだろう。
「おい、早く前に進めよ! いつまでグズグズしてんだよ!」
「んだとコラ!」
ワゴン車の窓から顔を突き出していた男がそう怒鳴り、前方で荷台に荷物を満載にした軽トラックの運転手が顔を真っ赤にして車を降りる。そしてワゴン車の運転手を引きずり出すと、路上で激しく蹴り飛ばした。ワゴン車に乗っていた男の家族がその様子を見て叫んでいたが、誰も彼らに構おうする者はいない。
見ればそこらじゅうで諍いが起きているようだった。荷物を盗んだだの肩がぶつかっただの、挙句の果てには目が合ったという理由で因縁をつけている者までいる。そして口論の末すぐに殴り合いの喧嘩に発展することも珍しくない。
皆恐怖とストレスで心の導火線が短くなってしまっているのだ。死にたくないという恐怖、周りの誰が感染しているかわからない恐怖から、余裕を失ってしまっている。
このままでは暴動が起きかねないし、それに巻き込まれる可能性も高い。何よりここにいたところで前に進めず、東の方がどうなっているのかもわからない。そう判断した僕は、道路を離れどこか高い建物を探した。近くにマンションが見えたので、そこを目指すことにする。
今橋を渡ることが出来ないのなら、このまま無理して東へ進んでも体力を無駄にするだけだ。それに僕は疲れ切っていた。この感染爆発が発生してからの四日間、ずっと寝ていない。食事だってほとんどしていない。水だけは公園の水道などで渇きを癒すことが出来たが、さっきからずっと腹の虫が鳴りっぱなしだった。
人で詰まっている道路を抜け、7階建てのマンションへ。人々は一刻も早く橋を渡ろうと橋へ直通している道路に殺到しているだけで、住宅街などに人の姿はほとんど見えない。逃げ出したのか、それとも皆家の中に閉じこもっているのだろうか。
ずっと寝ていないせいで、身体はフラフラだった。視界がゆらゆらと揺れているし、気を抜けばそのまま倒れ込んでしまいそうなほど疲労感が身体を満たしていた。まるで身体が鉛になったかの如く、足取りが重い。
コンビニはいくつかあったが、どれもシャッターが閉まったままだ。略奪を恐れているか、物流が死んだせいで商品が入ってこなくなり、店として機能しなくなったのだろう。どのみち店が開いていたところで、財布を持っていないのだから意味はない。いや、もうすぐお金も意味を為さなくなるのだろうが。
人々は皆橋に詰めかけているせいか、マンションは川沿いにあるにも関わらず人の姿はあまり見えなかった。駐車場では逃げ出そうと車に荷物を詰め込んでいる家族の姿がいくつもあった。マンションのエントランスのドアはオートロック式だったが、慌ただしく駐車場と部屋を往復する住民に紛れることで苦も無くマンション内へと侵入できた。
状況を把握すべくと最上階へ向かう。驚いたことに、エレベーターはまだ動いていた。発電所や上下水道といった社会活動に必須のインフラ施設には、防衛のために自衛隊が展開しているとラジオで聞いた。きっとまだ彼らがライフラインを維持しているのだろう。もっともこの状況ではいつ電気が止まってもおかしくないので、大人しく階段を使うことにした。
一歩一歩足を踏み出す度に、そのまま倒れてしまいそうになる。どうにか手すりを掴んで身体を支え、最上階の七階へ。そこかしこで慌ただしく動き回る住民たちがいた。
打って変わって七階の廊下には、人影は全く見えない。高いところから橋の様子を観察しようと思っていたが、身体が限界を迎える方が先だった。今の僕はものすごく疲れていた。一刻も早く何か食べ、横になって眠りたかった。
かといってこんなところで横になるわけにはいかない。いつここに感染者がやって来てもおかしくないのだ。いけないことだとはわかっていたが、僕はどこかに開いている部屋はないか探し始めた。
いくつか部屋のドアノブを回していく。最初の二つの部屋は鍵がかかっていたが、三つめの部屋はドアノブを捻るとあっさり扉が開いた。金属のこすれる音と共に、靴が乱雑に散らばった玄関の様子が伺えた。
どうやら慌てて逃げ出そうとしたせいで、ドアにカギをかけていくのを忘れたらしい。部屋の中は外から見ても荒れ放題だと一目で分かった。念のため「誰かいますか?」と呼びかけたが、部屋の中からは返事が返ってこない。
「お邪魔します……」
そう言って部屋に上がり込み、後ろ手でドアを閉める。少し迷った末に、ドアにカギをかけた。見ず知らずの他人の家なのに自分のもののように振舞うのには抵抗があったが、今はこうするより他に安全な場所を確保する手段はない。
床には服やタオル、下着などが散らばっていた。きっと慌てて逃げ出す途中で落としていったのだ。他人の家を詮索するのは悪い気がしたが、空腹には勝てない。僕は台所に向かうと冷蔵庫を見つけ、迷わずその扉を開く。
電気が通っているおかげで、中の食料品が腐っているということはなかった。元の住民も食料は避難先で確保できると考えていたのか定かではないが、冷蔵庫の中には食品がたっぷりと残されていた。空腹に耐えかねた僕は手も洗わないまま、冷蔵庫に入っていたハムやチーズ、そして見つけたパンなどに食らいついた。
勝手に他人の家に上がり込んだ挙句、冷蔵庫を漁って食事をする。通報されて逮捕されても文句は言えないなと思いつつも、手は止まらなかった。四日ぶりの食事ということもあって、どれも高級品ではないにも関わらず、人生で一番おいしく感じた。空腹は最高のスパイスだという言葉があるが、本当にそうなのかもしれない。
一々コップに注ぐのももどかしく、ジュースの入った紙パックに直接口をつけて口内の水分を奪い去っていたパンを胃に流し込む。リンゴを鷲掴みにして、そのまま丸かじりする。ようやく腹を満たした僕は火事場泥棒まがいの自分の行いに気づいて自己嫌悪に陥ったが、非常事態だし仕方ないと言い訳をした。もしも家主が帰ってきたら、謝罪して自分の氏名と住所を伝え後で代金を支払えばいい。
食い散らかしたゴミを片付けるべく立ち上がったその時、食器棚のガラス戸に自分の顔が映る。鏡の中の僕は、今まで見たこともないようなひどい顔つきをしていた。
顔中泥と乾いた血と煤で汚れ、目の下には黒々と隈が出来ている。催涙ガスを浴びたせいで目は真っ赤だし、髪はぼさぼさだった。まるで浮浪者のようなその顔が、自分だと気づいたのはしばらく後になってからだった。
「……なんで、こんなことに」
途端に満腹感はどこかへ消え去り、また惨めな気持ちが僕の身体を支配していく。何もかもを失い、感染者から必死で逃れ、こうして火事場泥棒まがいのことをして飢えを満たしている自分が情けなかった。いくら非常事態と言えども、泥棒のようなことをすることには抵抗があった。が、結局欲には勝てないのだ。
いや、今更火事場泥棒くらいで大騒ぎすべきではないのだろう。何せ僕はそんなことが些細なことに思えるほどの、大きな過ちを犯してしまったのだから。
「父さん、母さん、みんな……」
僕のせいで、中学校にいた大勢の人が死んだ。その事実は中学校を一人脱出した時からずっと、僕を苛み続けてきた。この四日間何度か死にかけ、あるいは逃げ回っている時はそのことも忘れていられた。だがこうやって落ち着いた途端に、皆の死にざまが僕の頭に浮かんで消えない。
中学校に避難していた人々が襲われ、殺されていく悲鳴が耳から離れない。無残に食い殺された人々の激しく損壊した死体が瞼の裏に焼き付いている。そして感染者と化した父さんと母さんを殴り殺した時の感触は、未だに手に残っていた。
自分がしでかしたことの大きさに、身体の震えが止まらなかった。僕は床に座り込み、膝を抱いて顔を押し付け呟く。
「仕方なかった、僕は悪くない……」
何度そう言っても無駄だということは、自分が一番理解している。情報が少なかった、他の人でも同じ行動を取って同じ事態を引き起こしていた。確かにその通りかもしれない、だけど地獄の釜を開いたのはこの僕に他ならない。
眠気が襲ってきているというのに、眠りたいという気持ではなかった。寝たら僕は、きっと悪夢に襲われるだろう。それも今まで体験したことがないくらい、最悪の夢を見るに違いない。
空気を震わせるヘリコプターのローター音が聞こえて来て、僕はようやく顔を上げた。どうにか立ち上がり、窓際まで寄ると、マンションの上空を一機のヘリが通過していくところだった。
機体の前後にローターを備えた迷彩塗装の大型ヘリは、運動公園で避難民を輸送していたのと同じ型式の機体だった。ヘリは川を越え、対岸の街に徐々に降下していく。対岸の街からは煙の一本も上がっていないし、破壊された建物などもない。死体も道端に転がっていない。まるで平和そのものだ。
川を挟んだこちら側では、暴動一歩手前の状態に陥っていた。橋は自衛隊によって封鎖され、川岸にはフェンスが張り巡らされている。所々に鉄パイプを組み合わせた監視塔が立てられ、ご丁寧にサーチライトまで取り付けらられていた。
川沿いに張り巡らされたフェンスは工事現場から持ってきたものもあるのか、オレンジ色のフェンスがいくつかあった。護岸か道路整備などの工事が行われていたらしく、川の土手の上にはダンプカーやショベルカー、ブルドーザーが放置されている。
橋の入り口は一般人が通行できないように鉄骨と鉄板を溶接して作り上げた門が塞いでおり、その手前には土嚢やコンクリートブロックが積み上げられて車両による突入を阻止している。対人用なのか、有刺鉄線が道を横断するように設置されていた。角ばったジープのような小型の装甲車が何台か道路を塞ぐようにして停まり、屋根にマウントされた機関銃をハッチから身を乗り出した自衛隊員が構えていた。消防車や救急車もそれぞれ一台ずつ停まっており、指揮所なのかテントが張られその下を慌ただしく行きかう迷彩服の人影がいくつも見える。橋の手前には自衛隊員らが並んで、押し寄せる市民を追い返している。
『現在外出禁止令が発令されています! 外は非常に危険です、直ちに自宅に帰りなさい!』
帰宅を促す拡声器越しの声が聞こえてきたが、その指示に従う者はいない。まるで開園前のディズニーランドのように、橋には人が殺到していた。後から後から押し寄せる人々に押され、先頭にいた何人かが道路に置かれた有刺鉄線の上に倒れ込んでしまう。悲鳴が上がったが、彼らを助けようとする者はいない。
「なんで俺らを通してくれないんだよ! あのヘリはどうしてあっち側に行けて、俺らは行けないんだ!」
「私たちが死んでもいいって言うの!?」
次々と抗議の声と罵声が上がるが、有刺鉄線の向こうの自衛隊員らは盾や小銃を手に無言で立っているだけだった。検問所のようなプレハブ小屋も橋の入り口には建てられているが、誰かを通すつもりはないのだろう。そうしている間にももう何機か、今度は先ほどのよりも幾分か小さい中型のヘリコプターが西側から飛来し、対岸の街へと降下していく。
きっと対岸の街には感染者がいないのだろう。だがそこへ大勢を受け入れてしまえば感染者が発生するリスクが生まれる。だから誰も対岸の街へは入れてもらえないのだ。あそこに避難できるのはきちんと検疫を受けた一握りの人間――――――政府の高官や政治家といった人間ばかりなのかもしれない。通すにしても、検疫や防衛といった受け入れ態勢が整った後になるだろう。
とにかく今すぐに橋を渡るのは無理そうだ。そう判断した僕は、リビングのソファーに身体を横たえた。四日間寝ていない身体は既に限界を迎えていた。悪夢を見ることが怖かったが、すぐに僕は眠りに落ちていた。
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