第0-1-1話(あるいは第一二.五話) 囲んで棒で叩くお話
今回も回想です。時系列的には12話の回想の直後です。
『ただいま非常事態宣言が発令されています。市民の皆様は自宅の戸締りを厳重にし、決して屋外に出ないでください。現在一般の方々の移動は禁止されています。落ち着いて自治体からの指示をお待ちください』
日本で最初の感染者が発生してから五日が経過していた。ヘリで脱出し損ね気絶していた僕は、運よく撤退中の自衛隊のトラックに拾われた。しかし彼らは僕を安全な場所に逃がしてくれるわけではなく、ひとまず感染者の巣窟と化した運動公園から離れ、他の部隊との合流を目指しているということだった。その後トラックが目的地に着いた後、僕は身一つで外に放り出される形となった。
トラックの目的地である川沿いの市街地では、未だに大規模な感染は起きていないらしかった。しかし街の住民たちは東へ向かって脱出を図っており、道路には車の長い列が連なっている。
その街では避難所が開設されていなかった。流通が止まったというのに、配給すらない。テレビはまた時折映るようになったようだが、政府発表の繰り返しと被害情報を垂れ流しているだけだった。ラジオはまだ機能しているが、それも録音放送ばかりだ。
自衛隊のトラックから放り出された僕は、ひとまず人の流れに従って東に向かうことにした。なるべく人ごみに近づかないようにしつつも、東へ。西に引き返すつもりはこれっぽっちもなかった。
かといって僕の町がそうだったように、この街に避難所があるわけでもない。かつての震災やテロ事件を機に制定された非常事態宣言が初めて発令され、今では外出禁止令も出ているらしい。感染者の脅威もある中いつまでも外をうろうろしているわけにもいかず、僕は早いところ安全な場所を見つけなければならなかった。街からは時折、銃声が聞こえていた。街のあちこちからは細い黒煙が空に向かって伸びていたが、火事につきもののサイレンは聞こえなかった。
街のあちこちに設置された防災無線のスピーカーからは市民に外に出ないよう呼びかけが繰り返されていたが、その指示を守る者はごく少数だった。市民の多くは街の外、東へ向かって脱出を試みていた。
道路を歩いていると、住民たちが慌ただしく避難の準備を進めている様が見えた。車の屋根にまでバッグやトランクを括り付け、少しでも多く荷物を持っていこうとする一家。移動手段がないのか巨大なリュックを背負い、彼女らしき女性の手を引いて東へ向かう男性。街の案内図が掲載された看板を見ると、街の東側には大きな川が流れているようだった。人々は橋を渡り、さらに東へと避難するつもりらしい。この周辺の地域は西側で感染が拡大しているらしいが、東に行くほど感染者の数は少ないようだ。
彼らが街から逃げようとするのも当然のことだった。テレビでは盛んに感染者の脅威が繰り返し放送されていたし、街の外から感染者に追われた大勢の人々が流入してきているのでは、自分の街にも感染者が現れてもおかしくないと考えるだろう。家に閉じこもって事態が収まるのを待とうとしている人は、ごく一部だけのようだった。
しかし皆が同じことを考えているのでは、あっという間に避難しようとする人々の列で渋滞が起きてしまう。橋に続く道路はどれも軒並み渋滞しているようで、さっきから車の列は全く進んでいないように見える。どの車にも渋滞に苛立つ顔を見せる父親と、助手席で携帯電話やラジオを操作し少しでも情報を得ようとする母親、そして後部席には不安そうな顔の子供たちの姿があった。皆少しでも前に進もうとして、車間距離は人が一人通れるかどうかといった具合までに狭まっている。
それに対して歩道の方は比較的空いていたが、これは徒歩で避難しようとする人間の方が少ないからだろう。余裕があった分だけ、この街の人々はなるべく多くの荷物を持って避難しようとしていた。それに車の方が走るよりもよっぽど早くスピードを出せる。
道路の左側の車線は緊急車両用としてところどころにフェンスやポールが立てられ空いていたが、そのルールもいつまで守られることか。今はまだ差し迫った脅威がないから人々もルールを守っているが、目の前に感染者が現れたらたちまち我先に逃げようとして大パニックが起きるに違いない。
突然轟音が響き、道路脇のコンビニに暴走族のような恰好をした少年たちが金属バットや鉄パイプを手に乗り込む姿が見えた。降りていたシャッターをバールでこじ開けバッドで破り、窓ガラスを叩き割り、レジを床に叩き落として中のお金を拾い上げる。少年の一人はナイフを取り出して、オーナーらしき中年男性にレジの奥に並んだ煙草を寄越せと言っていた。こんな状況でも逃げるわけにはいかなかったらしい、一人コンビニに出勤してきていたオーナーは、哀れ略奪の危機に直面していた。
「やりたい放題だな……」
かといって、僕に何が出来るわけでもない。コンビニに乗り込んでいって「皆平和が一番! 争いは止めようね」と言ったところで、調子に乗っている少年たちに袋叩きにされるのがオチだ。コンビニの中では少年たちが奇声を上げ、棚に並んだ商品を薙ぎ倒している。僕に出来ることはその光景を見なかったことにして、延々と歩道を進み続けることだけだった。僕だけではない、道を歩く人々の中で、今まさに襲われているコンビニのオーナーを助けようとする者は誰一人としていなかった。
すると市内を巡回していたらしい、自衛隊の装甲車が緊急車両用の車線をこちらに向かって走って来るのが見えた。左右合わせて8つのタイヤを備えた前後に細長い装甲車はコンビニの近くで停車すると、後部のハッチが開きガスマスクを装着した自衛隊員らが降車する。隊員の何人かは警察の機動隊員が持っていたような透明なポリカーボネード製の盾を持ち、警棒を握りしめていた。
屋根のハッチから身を乗り出した隊員が、突然コンビニ向けてマウントされたグレネードランチャーを連射した。いきなりの発砲に人々の悲鳴が上がる中、発射された擲弾は地面に落下しても爆発することなく、白煙の尾を引きつつ地面を何度かバウンドしてコンビニの中へと飛び込んでいった。すぐに火事でも起きたかのように店内から白煙がもうもうと噴き出し、涙と鼻水を流して咳き込むオーナーや少年たちが外へ飛び出してきた。彼らが撃ったのは催涙弾だった。
自衛隊員の一人が銃身側面にタンクを備え、グリップの前に円盤のような弾倉を取り付けた銃を構え、略奪行為を働いていた少年たちに向けて警告なしに発砲する。銃声の代わりにエアガンを撃ったかのような空気が漏れる音と共に、バットを振りかぶり自衛隊員に突進しようとした少年の一人がアッパーカットを食らったかのように地面に崩れ落ちた。血は流れていないから、おそらく非殺傷用の武器なのだろう。その後も何発か非殺傷弾が発射され、激しく咳き込む少年たちが吹っ飛ばされる。
「拘束しろ」
隊長らしき人物がそう言うと、隊員たちは行く手を塞ぐ車道の乗用車を乗り越え、ボンネットを踏みつけながらコンビニの近くでのたうち回る少年たちを確保に向かった。道路に連なる乗用車には一般人が乗っていたが、お構いなしだった。硬いブーツの底で踏みつけられた乗用車の窓ガラスが白くひび割れ、運転席の男性が抗議の声を上げる。
自衛隊員たちは逃げようとする者には非殺傷弾を撃ち込み、立ち上がって抵抗を試みた者を警棒や大楯、そして小銃の銃床で殴りつけた。両手を上げて降参の意を示していたり、地面にうずくまったままの者にもブーツで一撃を食らわせ、うつ伏せにして捕らえた少年たちの両手を後ろ手に縛っていく。コンビニのオーナーがとばっちりを食らって取り押さえられていたが、「私は被害者だ!」という叫び声に自衛隊員たちは聞く耳も持たずコンビニから出てきた者を全員拘束していた。
風に乗って催涙ガスが周囲に拡散し、歩道にいた人々が咳き込み始めた。僕のいる辺りにも漂ってきたのか、まるで玉ねぎを切ったかのように目が痛み、刺激臭が鼻についた。慌ててハンカチで口を塞いだが、涙と咳は止まらない。
すぐに濃緑色の軍用トラックがやって来て、拘束された少年たちとコンビニのオーナーがマグロのようにその荷台に放り込まれていく。そして破壊されたコンビニを後に自衛隊員らが撤収しようとした時、催涙ガス攻撃のとばっちりを食らった人々が彼らに詰め寄った。
「何考えてんだ、子供がいるんだぞ!」
「俺の車どうしてくれるんだよ、修理代だせよ!」
「今のはいくら何でもやりすぎだろ、いきなり撃つなんて」
催涙ガスを吸って泣いている子供を抱きかかえた親たち、自衛隊員の踏み台にされた車の持ち主たちが抗議の声を上げる。しかし隊長は「撤収」の一言を告げるだけで、人々に見向きもしない。車のフロントガラスを割られた男性が隊長の前に立ちはだかると、彼はあくまでも冷静に言った。
「ただちに自宅へ戻りなさい、現在外出禁止令が発令されています。外に出るのは危険です、直ちに家に帰り、自治体の指示を待ちなさい」
「ふざけんな! やっとの思いで逃げてきたのに、今更家に戻れってのか!」
そもそも帰る家すら無くなった者もいるだろう。僕もその一人だ。帰るべき家は燃えてなくなり、僕の住んでいた町は今や感染者の巣窟だ。そんな場所に戻るなんて自殺行為も同然だ。
「偉そうに命令してんじゃねーよ、大体何の権限があってこんなことしてんだ。強盗をやってた連中とはいえ、大勢の人がいる場所でガスを撒くなんて。おまけに車までぶっ壊しやがって」
「自衛隊法第78条による治安出動、および同89条、90条の武器の使用に関する条項により、我々は治安維持のために武器を使用することが許可されています。直ちに指示に従って、自宅に帰りなさい」
「お前ロボットじゃねーんだから、同じことばっかり言ってんじゃねーよ! 帰る家がなくなった奴はどうすりゃいいんだ!」
そうだそうだと人々から同意の声が上がり、一向に動かない渋滞の列に業を煮やした運転手たちも車から降りて、装甲車に乗ろうとしていた自衛隊員らを包囲する。
「私たちは事態を掌握しています。じきに状況も落ち着きます。自宅に戻って戸締りを厳重に行い、自治体からの指示を待っていてください」
「事態を掌握? 嘘をつくな! だったら何でテレビのチャンネルが半分以上映ってないんだよ! ラジオもテレビも同じことしか繰り返してないぞ」
「ここから西の街は感染者に襲われて全滅したって聞いたぞ、早く東へ逃げないとマズいってよ」
「大体警察や自衛隊は何やってんだ、こういう時に何とかするのがお前たちの仕事だろうが!」
群衆の一人が隊長の襟首を掴もうとしたその時、隊長が太腿のホルスターから拳銃を抜いた。そして今まさに自分に掴みかかろうとしていた男の額に、その銃口を向ける。
「いい加減にしろ、大人しく家に帰れと私は言っているんだ!」
「こ、国民に銃を向けるのかよ……」
「必要があればそう命令するだけだ」
その言葉と共に、自衛隊員たちが肩にかけていた小銃を構え、自分たちを取り囲む群衆に銃口を向けた。一瞬で自衛隊員らを取り囲んでいた人の輪が一メートルは後退し、沈黙した。ガスマスクのゴーグル越しに見える隊員たちの目には苛立ちと罵声を浴びせられたことへの怒りの感情、そして何よりも恐怖の色が浮かんでいるのが見て取れた。彼らはいつ、自分たちを取り囲む人々が感染者になるのか恐れているのだ。
威嚇なのか、それとも本気で撃とうとしているのか、隊長が構えた拳銃の撃鉄を親指で起こした。
「大体、その国民が狂暴化して人を殺して回っているんだ。今後感染者に対する作戦が行われる際に、外にいては巻き添えで命を落とす危険もある。だから家に帰りなさい」
男はがくがくと頭を上下に振り、隊長が銃を下した。彼は改めて撤収を命じ、隊員たちが装甲車に乗り込んでいく。
『混乱に乗じた犯罪行為には実力を以て対応し、犯罪者は厳重に処罰される。暴行、略奪、自衛を除く殺人行為を行い、秩序を混乱させる者は射殺することも本部では検討されている! そして街の東へと通じる道路は全て封鎖され、関係者以外の通行は禁止だ。直ちに自宅に帰るか、指定された避難所に向かうように!』
隊員から拡声器を受け取った隊長がそう言うと、人々はすごすごと車の中へ、あるいは歩道へと戻っていく。だが誰一人として、自分たちが来た方向へ戻ろうとする者はいなかった。もっとも、車は車道が詰まっているせいで前進も後退も方向転換もできないのだが。
自衛隊員を乗せた装甲車と、略奪を働いていた少年たちの乗るトラックが動き出す直前、僕は装甲車のハッチから身を乗り出していた隊長に、トラックを指さしながら言った。コンビニで襲われていた中年男性も、一緒にトラックに放り込まれたままだった。自分と何の関係もない人間とはいえ、さすがに少年たちと一緒に略奪を働いていた加害者と勘違いされ、犯罪者として連行されるのは可哀想だった。
「あの、一緒に捕まってたあのおじさんは、あのコンビニのオーナーみたいですよ。煙草を出せってナイフも突きつけられてましたし。だから加害者じゃなくて被害者です」
「そうか、わかった。ありがとう」
隊長が無線機に何事か吹き込むと、トラックの荷台から顔に痣を作った中年男性が下りてきた。彼は手違いで自分をタコ殴りにして捕まえた自衛隊員たちを睨み付けたが、結局何も言うことなく破壊されたコンビニへと戻っていく。
トラックと装甲車が出発し、辺りにはやり場のない苛立ちと恐怖に包まれた人々だけが残された。自衛隊が前に出ることで治安は多少改善されたかと思ったが、その逆のようだった。自衛隊が警察に代わって略奪者たちを捕まえなければならないほど、人手が足りなくなってきているのだ。
思えばこれだけ人がいるというのに、群衆整理に当たる警察官の姿はどこにも見当たらない。自衛隊員すら、数キロおきに数人ずつ立って人々に自宅に戻るよう告げているだけだ。既に警察は壊滅状態に陥っているのかもしれない。感染者が現れた時にまず現場に駆けつけるのは警察官だが、警察の武器は自衛隊のそれに比べてかなり貧弱だ。
そして事態の対処に当たる自衛隊員たちにも、疲労の色が見て取れた。彼らも感染者に怯えているのだ。いつ自分の周りの人間が感染者と化し、襲い掛かってくるか。同僚が、部下が、あるいは上官が感染して襲ってくるかもしれない。あるいは自分の目の前にいる市民が、すでに感染しているかもしれない。そう考えるだけでも、かなりのストレスを感じるだろう。自衛隊員は銃火器を装備しているが、一般人と比べて生き延びる確率を高めているだけに過ぎない。銃で簡単に感染者に対処出来ていたのなら、世界規模で感染が拡大などしていないだろう。
何の警告もなしに催涙弾を無関係の一般市民がいる場所に撃ちこみ、略奪を働いていた少年たちを袋叩きにしていたのがその証拠だ。まだ日本で感染者が発生してから、五日しか経っていない。しかし最前線で事態の対処に当たる警察や消防、自衛隊の人間にとっては長すぎる五日間だと言えるだろう。
橋は封鎖されていると隊長は言っていた。通行を制限するのではなく封鎖するということは、人々をそこから絶対に先へ通したくないということだ。つまり川を越えた街の東側には、まだ安全な場所があるのかもしれない。そこへ感染している危険性のある人々を入れたくないがために、橋を封鎖して人々を家に追い返そうとしているのだろう。
確かにあの隊長には同情するし、言っていることも理解できるが、それでも僕は一刻も早く安全な場所へと行きたかった。本来なら一昨日には避難できていたはずなのに、ヘリポートになっていた運動公園に感染者たちが押し寄せてきたせいでそれもパーになった。
僕は死ぬことが怖かった。死体の山しか残っていない中学校を逃げ出してからずっと、他の考え事をしていなければすぐに中学校の惨状が頭に浮かんできてしまう。食い殺された人々、そして僕が自ら手を下した、感染者と化した父と母の姿……。
地獄の釜を開いてしまったのは、僕に他ならないのに。その僕だけが生き残り、こうして感染者から逃げ続けている。ただ生きたいという本能に従って。
だから僕はたとえ自衛隊が阻止しようとも、何としても安全な場所へと行きたかった。彼らが橋を封鎖しているのなら、何とかして他の侵入経路を探すだけだ。僕は感染していないのだから、そこへ避難する権利だってあるはずだ。誰にだって生きる権利がある。もっとも、僕にそんな綺麗事を言う資格があるかは疑問だが。
風で拡散した催涙ガスのせいで、目と鼻が未だに痛い。催涙ガスは水で流せると聞いたことがある。早速どこか顔を洗う場所を求めて、僕は街の案内図を探し始めた。
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