第九二話 すり替えておいたお話
一方ガソリンスタンドで燃料の調達を終えた二人は、スーパーに向かった裕子と礼の帰りが遅いことに気がついていた。すでに期限の一時間を過ぎたが、二人がガソリンスタンドに姿を見せることはない。
「遅いですね……何かあったんでしょうか?」
「何かあったから遅れてるんだろ」
村に潜んでいた感染者に襲われたか、あるいは何か面倒なことに巻き込まれたか。時間までに戻ってくるよう厳命してあったし、教師である裕子が時間にルーズな人間だとも思えない。となれば何かあったと考える方が自然だろう。
葵には言っていなかったが、少年は先ほどかすかに車のエンジン音のようなものを聞いたような気がしていた。この村の惨状を見る限り、ここで暮らしている人間がいるとは到底思えない。となると、自分たちと同じように外から村にやってきている人間がいるのかもしれない。
「車に乗れ、帰るぞ」
「え、二人を待たないんですか!?」
「そういう話だ。合流時間に遅れたら置いていくってきちんと説明しただろ」
仮に二人が感染者かに襲われ既に死亡していた場合、いつまでも同じ場所に留まるのは自殺行為を意味する。それでなくても今はどこに危険が転がっているのかわからないのだ。一か所に留まる時間はなるべく短い方がいい。
「早く乗れ、でないとお前も置いていくぞ」
葵は唇を噛んだが、結局は少年の指示に従おうとした。彼の言うとおりだった。裕子が時間を守らないなんてことは今までほとんどなかったから、きっと何かあったのだ。何かに襲われたのだとしたら、自分たちも同じ目に遭いかねない。ここは一旦学院に戻り、その後捜索隊を出すなりなんなり判断すべきだろう。幸い裕子たちは武器もある程度の食料も持っているから、仮に死んでなかったとしてもしばらくは生き延びられる。
葵が車に向かって歩き出した途端、背後で声が聞こえた。女の子の声だった。
「待って、止まって! 助けてください!」
振り返るより早く、車に乗り込もうとしていた少年が葵に駆け寄り、片手で彼女を地面に引き倒した。そしてもう片手で短機関銃を構え、こちらに向かって走ってくる少女に「動くな!」と叫ぶ。いきなり地面とキスすることになった葵は、怯えた瞳でこちらを見る少女の姿を視界に捉えた。
青いジャンパーを羽織り、セミロングの髪を揺らしてこちらに走ってきていた少女は、少年の警告に足を止めた。続いて「両手を上げるんだ!」という指示に、「やめてください……」と震えた声で言った。
「友達が怪我してるんです、お願い助けて……」
「まずは手を挙げるんだ、話はそれからだ」
そう遮った少年の言葉に、ようやく少女は恐る恐るといった感じで両手を挙げる。見るからに怯えているようだった。助けを求めてやってきたのに、いきなり銃を突き付けられたのだから当然だろう。
「……どうするんです、あの子。なんか困ってるみたいですけど、助けますか?」
「その前にボディーチェックだそれくらいわかるだろ」
少年が葵を促し、立ち上がった葵はボディーチェックを行うべく両手を挙げて立ち止まったままの少女に近づいていく。これがイラクかアフガニスタンだったら、身体に巻きつけた爆弾付のベストによる自爆に巻き込まれる役回りだ。だがここはそんな紛争地帯ではないので、いきなり爆死という目には遭わないだろう。
「失礼します」と一言断ってから、葵は早速少女のボディーチェックを始めた。すぐに、ズボンの背中側に挟まった固いものの感触が手に伝わる。ジャンパーを捲って確認すると、その下にあったのは一丁のリボルバー拳銃だった。見たところ、日本の警察広くで使用されているM36に違いない。
武器はそれだけらしい。こんな少女が拳銃を持っていることに驚きを感じたが、今の葵だって銃を持っている。死んだ警官は多いらしいから、そこから拝借したのかもしれない。
「悪いな、手間を取らせた。それで、君は誰だ? この村で暮らしているのか? 他に仲間は?」
「私たち、この村の近くでキャンプを張って暮らしてるんです。村には食料の調達に来たんですけど、友達が足の骨を折って……」
話を聞きながら少年は葵の背後に立ち、少女から取り上げたリボルバーを何やら弄っていた。シリンダーから銃弾が排出されるかすかな金属音が、背後で聞こえたような気がした。
「怪我? 酷いのか?」
「階段で転んで落ちて、肉が裂けて足の骨が飛び出ちゃってるんです。早く手当てしないと……」
「わかった、案内してくれ」
葵は耳を疑った。この少年が人の助けに即座に応じるなんて、いったいどういうつもりなのだろうか? 気まぐれなのか、あるいは何か考えがあるのか。それとも今まで自分たちに見せていた冷徹な部分は単に演技であって、本当は人助けができるようないい人間なのだろうか。
いずれにせよ、怪我人がいるのなら助けるべきだろう。目の前の少女が嘘をついているようには見えないし、危険な人物のようにも思えない。助けを求められたのならば素直に手助けをする、それが葵にとっての常識だった。
「わかりました、こっちです。……その前に、銃を返していただけると……」
「あ、悪い」
そう言って素直に銃を返したのも驚きだ。あれほど自分たちには銃を持たせようとしなかったのに、いきなり現れた見ず知らずの少女が武器を持つことは許せるのか。
少女も驚いた様子で少年と差し出された自分の拳銃を見比べ、そして素直に受け取った。
「あ、ありがとうございます……。いきなり銃を向けられたから、てっきり怖い人なのかと」
「まさか。今の世の中、生きている人間は貴重だからね。助けられるようなら助けたいさ」
「……優しいんですね、私たちも今まで出会った人たちは皆怖い人ばかりだったから不安で……」
頭でも打ったのではないか。それとも気化したガソリンを吸ってラリッているのか。葵はこれまでとは打って変わった様子の少年のことを本気で心配したが、とりあえず彼についていくことにする。少女を案内役に、二人はガソリンスタンドを離れて商店街の方へと向かった。
少女の友達がいる家は、商店街の端にあるのだという。葵は久しぶりに学院以外で同年代の女子と出会い、気分が高揚していた。感染者がいるかもしれない村でなければ、早速会話を始めていただろう。少年に注意されて口を閉じてはいるが、本当は今すぐにでも話をしたい気分だった。
「ここです……」
そう言って少女が指さしたのは、一軒の古びた民家だった。軒先には車が一台止まっている。あたりに人の姿は見えないから、その友達とやらは家の中にいるのだろう。
「わかった、君がドアを開けてくれ。いきなり見ず知らずの人間が来てびっくりされても困るだろうし」
少女が一瞬顔を歪ませたように見えたのは、気のせいだろうか? しかし彼女は何も言うことなく、少年の前で玄関の扉を開ける。直後少女が素早く脇に飛び退き、扉が開け放たれた玄関の向こうに人影が見えた。
扉の向こうで待っていたのは、銃を構えた男だった。彼が少女の言っていた友人なのだろうか? しかし男が怪我をしているようにはとても見えない。ついでに言えば、友好的なようにも見えなかった。その顔に浮かんでいるのはしてやったりというにやけ面で、まるで獲物を罠にかけたハンターのような印象だった。
ボルトアクション式のライフル銃を構えた男が、少年の数メートル先で銃口を向けていた。続いて家の陰から金属バットを持った若者が姿を現し、葵たちに向かって走ってくる。入口の前から飛び退いた少女が拳銃を引き抜き、こちらに向けた。
騙された。その言葉が頭に浮かぶ。自分たちは少女に騙されたのだ。
「動くな! 両手を頭の上に挙げ――――――」
しかしそんなことを思っていたのも一瞬だけだった。少年の手が素早く動き、スリングで身体の前にぶら下げていた短機関銃を構える。男の指が引き金にかかった瞬間、少年は短機関銃のハンドガードに内蔵されたフラッシュライトを点灯していた。
100メートル先を照らしだせるフラッシュライトは、昼間でも有効だった。強力な光が男の目を焼き、とっさに男はライフル銃を構えた両手で目を覆った。次の瞬間聞こえたくぐもった銃声が、男の最後の知覚となった。
少年は躊躇うことなく、手にした短機関銃の引き金を引いた。ペットボトルの消音機越しに響いた銃声は一発目は小さく、そして二発目はやや大きく聞こえた。ライフルを構えていた男の胸に二発銃弾が突き刺さり、倒れこんだところにもう一発、今度は頭を狙って発砲する。飛び散った血が点々と、庭に敷き詰められていた砂利を真っ赤に染める。
「え……?」
「は……?」
仲間の突然の死に、少女と若者がそれぞれ間抜けな声を上げた。まさか自分たちが反撃にあうなんて、とても考えてもいなかったような口調だった。目の前で殺害された仲間の死体に衝撃を受けた若者が一瞬棒立ちになった隙を、少年は見逃していなかった。
足元に転がっている拳ほどの大きさの石を拾い、若者に向かって投擲する。放り投げられた石は若者の顔面を直撃し、鼻血を吹き出しつつ若者がその場に崩れ落ちる。呻き声を上げつつも片手で鼻を押さえ、もう片手で取り落としたバットを拾おうとした若者だったが、少年が伸縮式の特殊警棒を取り出し彼に駆け寄る方が早かった。
右手を振って握った警棒を伸ばすと、少年は若者に殴り掛かった。頭を集中的に狙い、たまらず若者が両手で頭を庇う。本当ならば正当防衛とはいえ顔面を警棒で殴打しまくるのはご法度のはずだが、少年は蹲った若者の頭にひたすら警棒を振り下ろした。
頭を庇っていた両手が真っ赤に晴れ上がり、頭から血を流して呻く若者は、どう見ても戦意を喪失しているようだった。しかし念には念を入れようというのか、最後はどこから取り出したのかスタンガンを左手に握ると、蹲ったままの若者の脇腹に電極を押し当ててスイッチを入れる。その身体が大きく痙攣した後、若者は地面に倒れたまま動かなくなった。
「う、動かないで! 動くとこいつを撃つわよ!」
あまりにも容赦のない攻撃に唖然としていた葵と少女だったが、我に返った少女が葵の背後に回り込み、その頭に銃口を突き付ける。だが少年は倒れた若者の身体を呑気に漁り、他に武器を持っていないことを確認してからようやく振り返った。
「撃てば?」
それがどうしたと言わんばかりの口調で、少年はそう言い放った。少女の警告など聞こえなかったかのように、たった今自分が射殺した男の方へ向かって歩き出す。近づいてくる少年に少女は思わず後ずさり、引きずられた葵は思わず転びそうになった。
「こ、来ないで! 撃つわよ、本気でこいつを殺すわ!」
「だからやればって言ってるじゃねえか。やれよほらぁ、早くやるんだよぉ!」
その気迫に押されるかのように、少女がさらに後ずさる、少年はそんな少女と人質に取られた葵を横目に死んだ男が取り落としたライフル銃を拾い上げ、ボルトハンドルを引いて銃弾が装填されているかどうかを確認する。そしてそのライフルをスリングで肩から吊ると、ようやく少女と葵の方を向いた。
「来ないでって言ってるでしょ!」
もはや絶叫に近い声で、少女が警告する。もしかしてこの子は人を撃った経験がないのだろうか。人質に取られ頭に銃口を突き付けられている状況だというのに、葵は呑気にそう思った。もしも少女が誰かを殺していたのなら、今頃とっくに引き金を引いているだろう。
警告にも足を止めることなく近づいてくる少年は、まるでブルドーザーか戦車のようにも見えた。少女が葵を突き飛ばし、少年に銃口を向ける。がたがたと震えながら拳銃を構え、少女が絶叫した。
「止まれーッ!」
ついに少女が引き金を引いた。銃声が轟き、銃弾を食らった少年が倒れる――――――。そんな光景を予想した葵は、思わず目をつむった。しかし銃声は響かず、かわりに聞こえたのは撃針が薬莢を叩く乾いた音だけだった。
「え?」
手にした拳銃と目の前に迫った少年を見比べ、少女が慌てたようにもう一度引き金を引く。リボルバーはオートマチックと違い、不発弾であっても引き金を引けば次弾を発射できる。しかし少女が再び引き金を引いても、銃弾が発射されることはなかった。
カチカチと乾いた音を立て、シリンダーが回転する。しかし弾は一発も発射されない。呆然とする少女の手から、少年は悠然と拳銃を奪い取った。
「なんで……?」
「残念だったなあ、トリックだよ」
そう言い放ち、少年は呆然と立ち尽くす少女の脇腹にスタンガンを押し当てた。強力な電流を食らい地面に倒れこんだ少女の身体が痙攣し、のた打ち回る。その両手を掴み、後ろ手に手錠をかけた少年は、続いてリュックから取り出したガムテープで少女の口を塞いだ。最後に両目にもガムテープを張って視界を塞いでから、ようやく立ち上がる。
「……気づいてたんですか? この子が罠を仕掛けてるって?」
「どう考えてもおかしいだろ。普通だったらこんな村に誰かがいるとは思わないから、怪我人が出たらその場で手当てして自分たちで何とかするはずだ。なのにこいつはまっすぐ僕たちのところに来て助けを求めた。まあ僕は誰も信用していないだけだけどさ」
同じく気絶しているであろう若者にも手錠をかけ、少年が答えた。まるで襲撃されることを予想していたかのような鮮やかな手つきだったが、最初から全てを警戒していただけのことなのだ。少年は葵たちも含めて、自分以外の誰も信用していない。
「じゃあ、この子が銃を撃てなかったのは……」
葵のその問いに、少年は無言で少女から奪った拳銃を取り出した。そしてシリンダーから排出した銃弾を一発、葵に放り投げる。
見ると拳銃の薬莢の底部、雷管に小さな凹みがあった。これは既に銃弾が使用されたものであることを意味している。雷管に出来た凹みは、拳銃の撃針がぶつかったものだ。雷管は一度使うと再利用はできない。弾頭と発射用の火薬、そして雷管をロードすれば再び発砲が可能になるが、未使用の雷管には凹みがついてないはずだ。
「ダミーカート……?」
「そうだ、前にミリタリーショップで見つけたやつさ。いつも持ち歩いてんだ、こういう時の為に」
葵が少女をボディーチェックして取り上げた拳銃を、少年は葵の背後で何やら操作していた。あの時に実弾と発射できないダミーの銃弾とをすり替えていたのだ。だからあの時少年はすり替える作業を少女に見られないよう、わざわざ葵の背後に立っていたのだ。
「一度見ず知らずの他人の手に渡った武器をチェックもしないなんて、こいつら銃を手に入れたばかりの素人みたいだな」
「だから私が人質に取られても、あんなに堂々としてたんですか……」
「他に武器も持ってないようだったし、間抜けなもんだ」
その用意周到っぷりに呆れるとともに、下手をしていたら自分が死んでいたであろうことを思い出し、葵は内心ぞっとした。少年に撃ち殺された男の死体からは、未だに血が流れ続けている。
これまで村では何度か死体を見たし、感染者もこの手で殺したが、目の前で生きている人間が死ぬのを見るのは初めてだった。
少年を責めるつもりはなかった。先に手を出してきたのは彼らの方だし、銃口を向けてきたのも彼らだ。少年が男を殺したのはあくまでも正当防衛だ。それでも葵は、容赦なく男を殺した少年がどこか恐ろしく感じた。何の躊躇いもなく、少年は引き金を引いたのだ。
「それで、この二人はどうするんです?」
「たぶん先生たちを襲ったのは、この二人の仲間だろうな。庭にタイヤの跡がある。それにほら……」
少年が若者のポケットから車のリモコンキーを取り出し、ボタンを押す。すると庭に停めてあった車のランプが点滅し、後部のスライドドアが自動で開いた。放置車両ではなく、この三人組が乗ってきた車ということだろう。
「殺すつもりならいきなり撃ってきてるだろうし、僕らを拉致してどこかに連れて行くつもりだったのかもな」
「じゃあ先生たちも……」
「それはこの二人に聞いてみよう」
そこでようやく、葵はなぜ少年が若者と少女を殺さなかったのかを理解した。
「親睦を深めるために、お話でもするか。確か途中に、楽器店があったよな」
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