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ただひたすら走って逃げ回るお話  作者: 残念無念
第二部:変革のお話
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第九〇話 イエスタデイ・ワンスモアなお話

「クリスマス?」


 お前は何を言っているんだとでも言いたげな少年の表情に裕子は怯みそうになったが、ここで退いてはいけないという気持ちがあった。床に座り込み、広げた毛布の上でライフル銃を分解していた少年に、裕子はさらに一歩足を踏み出す。


「そうよ、クリスマス。皆でプレゼント交換をしたり、ケーキを作って食べようって」

「プレゼントもケーキも、どこから持ってくるんですか。店なんて開いてませんよ」

「プレゼントは作ったり、皆の私物から捻出ね。ケーキについては心配要らないわ、バターはまだ残ってるし、イチゴも温室で育ててるから。さすがに牛乳はないから、ホイップクリームについては難しいけど」

「僕が訊いてるのはそういうことじゃないんですけど。こんな時に何を呑気なことを言ってるんですか?」

「こんな時だからこそよ」


 通常、小百合女学院では12月の下旬に冬休みで生徒たちは自宅へと帰ってしまうので、クリスマス関連のイベントが開かれたことはない。せいぜいツリーを飾ったり、給食にケーキが出たくらいだ。宗教系の学校というわけでもないので、キリスト教的行事には特に力を入れたりせず、生徒たちはクリスマスをもっぱら地元で祝うことになっていた。


 しかし今年は事情が違った。10人の生徒が学院に取り残され、地元に帰る術はない。帰れたとしても、自分たちの知る故郷がそこにあるとは限らなかった。裕子も含めて11人の残留者は、学院でクリスマスを迎えることを余儀なくされた。


 クリスマスを祝ってプレゼント交換をしたり、ケーキを作ろうと言い出したのは裕子だった。こんな時だからこそ、たまには楽しいイベントも生徒たちに提供してあげたい。そんな思いからの発案だった。少年が来て学院の外の惨状を見せつけられてから、明らかに生徒たちからは元気が失われている。このままではたとえ感染者に襲われずに済んだとしても、内側から生徒たちの心は腐っていくだろう。


 生きていくには過酷な現実を受け止めることが重要だが、希望を持つことも大事だ。裕子は生徒たちに希望を持たせたいと思った。生きていてよかった、これから先も生きていたい、そう思えるような体験が必要なのだ。

 そのためのクリスマスだった。この日ばかりは外の血なまぐさい現実を忘れ、以前のように楽しく平和だった日々の思い出に浸ってもいいだろう。だが少年がそれに反対するであろうことは、容易に想像できた。


「クリスマスなんか祝って何になるんです? また次の日から暗い現実の世界に突き落とされ、楽しい気分が一瞬でパーになるのがオチですよ。何の意味もない、時間と労力の無駄です」


 案の定だった。確かに彼の言っていることにも一理ある。クリスマスを祝うなんて目の前の過酷な現実から少しの間だけ目を逸らすだけだ。祝ったところで外の世界が変わるわけでもない。

 しかし息抜きも必要だ。見えない感染者の脅威にさらされ続けた生徒たちは、かなり疲弊している。特にここ10日ほどは激動の毎日だ。突然現れた少年に壊滅した外の世界の惨状を知らされ、直接この目で目の当たりにした。生き延びるために戦い方を学び、先日初めて銃を撃ったばかりだ。


「確かに、私がやろうとしていることは何の意味もないことかもしれない。ほんの少し現実から目を逸らすだけのことだって、私自身よくわかってる。でも、目の前の過酷な現実を直視し続けることだけが、この先も生きていく上で大事なことではないはずよ。またいつか平和な世界がやってきて、以前のような生活が送れる日々が訪れる。そんな希望を持つためにも、昔を思い出すことは必要だと私は思う」

「……そんな世界、やってきませんよ」


 だが裕子は諦めなかった。純粋に教師として、少年を何としてもこのイベントに参加させなければならないと理解していた。

 この世界で生き延びることができるのは、彼のような人間であることは分かっている。冷徹な判断力と鉄の如き意志、そして自分が生き延びるためならば遮るもの全てを排除するという覚悟がなければ、感染者が彷徨うこの世界では生きていけないだろう。


 だがその生き方の先に待つものはなんだ? 誰も信用せず、仲間も作らず、たった一人孤独なまま生きていく。自分が生きるためには女子供も平気で踏み台にする。世界の全てを敵と見なして生き続ける――――――それはもはや人間ではなく、怪物の領域に足を踏み入れた生き方だ。


 昔とある哲学者が言った。『怪物と戦う者は自らも怪物にならぬよう注意せよ。お前が深淵を覗く時、深淵もお前を覗いているのだ』。

 少年は感染者という怪物と戦い、残酷なこの世界の理と戦い続けている内に、自らも怪物と化そうとしている。むしろ、自分からそうなろうとしている節がある。倫理観も道徳観も全てを投げ捨てた怪物とならなければ、感染者という怪物が溢れるこの世界では生きていけない。

 そして少年は大勢の人を見殺しにし、親しい人たちを手にかけ、生き延びるためには人を殺さなければならないというこの世界の新たな理をその身を以て理解してしまった。裕子は何としても、少年を深淵から引き戻さなければならなかった。彼が本当に怪物となってしまう前に、自分も人間であることを理解させなければならない。そのためにも、クリスマスの行事に何としても参加させなければならない。

 本当ならば世界はこんなに平和で楽しいものだということを、彼に思い出させなければならないのだ。


「とにかく、絶対参加しなさい。プレゼントは何でもいいから。他の準備は全て私たちがやっておくわ」

「参加しなかったら?」

「夕食後のケーキ無し、反省文10枚。……冗談よ、あなたが参加してくれると私は信じるわ。クリスマス会は24日の夜にやるから、それまでに何か用意しておいてね」


 そう言って戻っていった裕子の背中を一瞥すると、少年は毛布の上に広げたライフルの部品を素早く組み上げていった。クリスマス会に参加する予定なんて、これっぽっちもなかった。

 以前からクリスマスという行事には、少年は否定的だった。信仰もしていない宗教の祭日をなぜ祝わなければならないんだというのが少年の主張だったが、自分に聖夜を一緒に過ごす彼女が存在せず、24日を仲睦まじく過ごす恋人たちが羨ましかったのが本音であることは否定できない。しかし今になっては事情が違った。恋人や宗教に関係なく、こういった行事は無駄だと思った。


 労力の無駄だ。すでに曜日という概念すら消えつつあるのに、特定の日にお祝いをすることに何の意味がある? クリスマスを浮かれ気分で過ごせても、次の日にはまた過酷な現実と向き合わなければならなくなる。だったら何もやらない方がマシだ。

 少年が幼い頃にサンタクロースとなって枕元にプレゼントを置いてくれていた父も、ケーキを作ってくれていた母ももういない。そんな行事をやったところで、平和だった昔を思い出して辛くなるだけ。だからやらない。やる必要がない。


「……意味なんてないんだよ」


 そう呟き、少年は組み上がった自動小銃のボルトハンドルを引き、引き金に指をかける。自分一人しかいない教室に、撃鉄が落ちる乾いた音が響く。




 その日の昼からは、村での物資調達が予定に入っていた。すでに村の中心部まで探索範囲は広がっていたが、予想通り生存者は誰一人として見当たらなかった。残されていたのは死体と数体の感染者だけ、少年たちの他に生きた人間はいない。

 村の中心部にはガソリンスタンドやスーパーマーケットがあり、そこで物資調達が行える。もっとも、村の惨状を見る限りどれだけ物資が残っているかは疑問だが。村が感染爆発からしばらくの間は無事だったことは間違いないので、その間に食料などが持ち出されてしまった可能性は十分ある。


「僕らはガソリンを調達してくる。先生たちはスーパーの確認を」


 村に到着し、二手に分かれて行動を開始する。今回少年と一緒に村を訪れたのは裕子と礼、そして葵の三人だった。裕子と礼はスーパーに保存食が残っているかを確認に向かい、少年と葵は車で直接ガソリンスタンドに乗り付けて燃料を確保する算段だった。すでにガソリンスタンドがある地点までは、安全を確認してある。


「不用意な発砲は避けてください。ただし、必要だと思った時には発砲を躊躇わないように。相手が人間であっても同じです」


 武器は全員に渡してある。すでに全員が銃の使い方を学び、散弾銃で武装していた。弾もいざという時に自分の身を守れるくらいの数を渡してある。

 銃を渡すことはそれだけ背後から撃たれる可能性を増やすことでもあったが、仕方のないことだった。裏切りを恐れて銃を渡さず、自分一人で戦うよりかはマシだ。それにここに来てからの彼女たちの行動を見て、少年は彼女らに人を撃つ勇気はとてもないだろうと判断していた。


「成果があろうがなかろうが、一時間後にガソリンスタンドで集合しましょう」


 その言葉を最後に、二手に分かれての行動が始まった。重い散弾銃を抱きかかえるようにして、裕子と礼が村唯一のスーパーマーケットがある方向へと走っていく。一方少年と葵は車に戻り、ガソリンスタンドへ車を走らせた。


「ガソリンと軽油、残ってるといいですね」


 助手席に座る葵が、後部席を振り返りつつ呟く。後部席には学院から持ち出してきたポリタンクがいくつも転がっているが、すべて満タンになるほどガソリンが残っているかどうか。ライフラインが断絶してからはこの村でも自家発電機による電気の供給が行われただろうし、その時にガソリンスタンドの燃料を残らず使ってしまったかもしれない。


「残っていることを期待しよう」


 そう答え、少年は野良猫一匹通らない道路に車を走らせた。村の中心部に近づくにつれ、混乱の痕跡がそこかしこで見えてくる。

 民家に突っ込んだ乗用車、割れたたばこ店の窓ガラス、そして道端に転がる死体……。だが村の人口に比べれば、死体の数は少ない。逃げ延びたか、あるいは自らも感染者と化したか。


「あっ、ありましたね」


 やがて見えてきたガソリンスタンドは、いかにも田舎の個人経営といった感じの小ぢんまりとしたものだった。給油機の計量メーターはアナログだし、屋根を支える支柱には錆が回っている。スタンドの奥には売店もあるが、窓は薄汚れていた。消防法の改正でガソリンスタンドの廃業が増加し、田舎では問題になっていると聞いたことがあるが、ここはまさに廃業一歩手前といった感じの古臭さだった。


 念のため周囲を確認したが、感染者の姿は見られない。早速、二人は作業に取り掛かる。裏にある小さな倉庫から非常用の手動ポンプを持ってきて、地下タンクの蓋を開けてホースを垂らす。少年にとってはもはや当たり前になりつつある燃料の調達方法だったが、葵には新鮮なようだった。葵は少年の一挙手一投足を、まるで尊敬するかのような眼差しで見つめていた。


「凄いですね隊長殿! いったいどこでこんな知識を?」

「ガソリンスタンドはもう開いてないんだ、燃料を調達しようと思ったら嫌でも覚えることになる。それより静電気に気をつけろ、汚い花火は見たくないからな」


 静電気除去グッズを持っていた生徒がいたのは幸運だった。やはり女子というのはこういうことが気になるらしい。葵が静電気除去用のキーホルダーに触ってからハンドルを握ってポンプを動かしている間、少年は売店の中も探索することにした。

 売店といってもコンビニほど品揃えは多くはない。せいぜい軽食や雑誌などが売っているくらいで、缶詰などの保存食の類は一切置いていない。消費期限が切れていない菓子や缶飲料をカゴに放り込みながら売店の中を回っていると、レジの上に何かが置いてあることに気付く。店主の持ち物らしき、イヤホンのついたポータブル式のカセットプレイヤーがカウンターの上に転がっていた。


 ふと、数か月前の出来事を思い出す。今はもういない仲間たちと出会う前、隠れていたマンションの一室でも似たようなカセットプレイヤーを見つけたのだ。それは感染者から逃げる時にリュックと一緒に捨ててしまい、今は持っていない。

 懐かしさにかられ、思わずプレイヤーを手に取る。周囲を見回し窓ガラス越しに外の様子を伺い、周囲に異常がないことを確認してからそっとイヤホンを耳に嵌めた。再生ボタンを押すと、ピアノの演奏と共に女性の声で英語の歌が流れ出す。


「……カーペンターズかよ」


 自分が生まれる遥か以前に発表された歌だが、少年はこの歌を知っていた。中学時代の英語の教師が、生徒に英語に慣れ親しんでもらおうと授業中にいつも外国の歌を流していたのだ。おかげでビートルズやら何やら、父親世代の外国の歌ならば少年はある程度知っている。


 この歌も英語の授業中に流れていた。過ぎ去りし日々を懐かしむ歌。少年もこの歌を聴いて、昔のことを思い出していた。

 将来のことなど何も考えず、毎日遊んでいられた小学生時代。定期試験に悩みつつも、いろいろなことを知っていった中学時代。そして厳しい入学試験を乗り越え、一歩一歩大人に近づきつつあった高校生時代。それらは全て、この歌と同じように過去の出来事になってしまった。


 昔は未来に希望を抱いて毎日を過ごせていた。日々の悩みに頭を抱えつつも、明るい未来が来ると信じて疑わなかった。

 だが世界は大きく変わってしまった。もう二度と、あの平和な日々は戻ってこない。父も母も、友達も何もかもが、手の届かないところへ行ってしまった。


 今の自分に残されたのは武器と知識だけ。ペンの代わりに銃を握り、英単語の代わりに人の殺し方を覚える。戦い、殺し、そして生きる。それが新しい毎日になった。


「昨日よもう一度」と言ったところであの平和な日々が戻ってくるわけではないし、自分がやってきたことが全て綺麗さっぱり消え失せるわけでもない。ならばこの道を突き進んでいくしかないのだ。たとえそれが間違った道であっても、自分はこれしか生き方を知らないのだから。


 過去を思い出すことも、感傷に浸るのも全て無駄なことだ。そんなことをしたって目の前の現実が変わるわけでもないし、問題が解決することもない。



 ――――――それでも少年は、最後まで歌を聴くのを止められなかった。

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