馬の耳に念仏そのあとに〈ことわざ後日譚〉
「馬が走らなくなってしまったんです!」
村の動物病院の受付に、ひとりの青年が駆け込んできてぶしつけに言った。
それに対し耳にも鼻にもピアスをつけている受付の若い女は、目の前に人が走り込んできたので、思わず「走ってるじゃないですか」と言い返しそうになった。だがそう口にする寸前に主語が異なっていることに気づいて、「それは大変ですね」と当たり障りのないリアクションに収めると、奥の診察室へとその状況を知らせに向かった。
待合室で順番を待っているあいだにも、青年は馬のぶんまでとばかり、そこらじゅうを早足で歩きまわって落ち着きがなかった。そうして十五分ほどして青年の番が来ると、彼は診察室に入るなり、白髭の獣医に向かってまた同じ台詞を繰り返すのだった。
「とにかく、馬が走らなくなってしまったんです!」
そう言われた見るからに人の良い獣医は、「『とにかく』というのは、馬ではなくて『兎に角』と書くんだがね」と一見関係のない豆知識を披露することによりいったん相手の気を逸らせてから、そうなるに至ったことの経緯を青年に尋ねた。するとようやく丸椅子に腰を落ち着けた青年が、何かとんでもないことをしでかしてしまったような口調で言った。
「念仏を、聴かせたんです」
白髭をしごきながらその答えを聴いた獣医はひとこと「それはまずいな……」と呟いた。「まさに『馬の耳に念仏』というわけだな」
「そうなんです!」青年はそれに同意しながらも、なぜか憤慨しているふうだった。「だけどあのことわざの意味からすれば、なんの問題もないはずじゃないですか。あれってつまり、馬に念仏を聴かせても理解できないから、何の意味も効果もないって話でしょう?」
たしかに青年の言うことは一理あるどころか、正論であると言って良かった。しかし現実の馬は、明らかに念仏の影響により走らなくなってしまったのだという。
「これって僕のせいじゃなくて、ことわざのせいですよね? 先人が嘘をついてるってことですよね? つまりあなたがた先人が!」
獣医はいくら歳を取っているからといって、自分がことわざレベルの先人に分類されていることには納得がゆかず、白髭をしごく方向をにわかに真下から斜め左へとねじ曲げてみせた。しかしたしかに青年の言うとおりではあり、それが現実であるとするならば、むしろことわざのほうの意味を変える必要があるとも思いはじめた。
それにしてもこの青年は、なぜ馬にわざわざ念仏など聴かせたのか。獣医がそう青年に問いかけると、それがどうやら強制的に聴かせたわけではないらしかった。
実はひと月ほど前に、この馬を生まれたときから育ててきた青年の父親が亡くなったのだという。その数日前から倒れていた父親が馬小屋を訪れなくなったために勘づいたものか、それから馬は毎晩零時になると、まるで時報のように決まっていななくようになってしまった。そんな時間に主人を呼びつける用事もないだろうに、家族はみなその行動を不思議に思い、青年があわてて駆けつけるのだったが、当の馬は着いたころにはもうすっかりおとなしくなっていて、腹を空かしている様子もない。
そしてまもなく父親が息を引き取った。そのタイミングはまるで図ったように、ちょうど午前零時のことであった。あるいは馬はそれを予見していたのかと思った青年は、父親の葬儀にその馬を列席させることにした。列席といっても、もちろん扉の外に待機させておいただけの話ではあるのだが、馬はそこではいななきもせずに、おとなしくたたずんでいたのだという。
やはり馬が主人の死を予見していたなどというのは、単なる偶然であり思い過ごしであったのか。だとすれば馬を人間の葬儀に列席させるなど、なんて馬鹿なことをしたんだろう。家族全員がそう納得することになり、その晩から馬が夜中にいななくこともすっかりなくなったのであった。
それはあるいは、葬儀の様子をその目で見たことにより、馬が主人の死を悟って諦めたということであるのかもしれない。だとしたら列席させたことも無駄ではなかったような気もするが、しかし今度はまた別の問題が発生してしまった。馬がおとなしくなったのはいいが、おとなしくなりすぎた結果として、まったく走らなくなってしまったのである。それどころか、馬は厩舎の扉から外へ一歩も出なくなってしまった。
しかしそんな馬が、どういうわけか一度だけ外に出たがった日があった。それは隣家で葬式がおこなわれた日のことである。青年の家は隣の家族と挨拶を交わす程度の間柄であり、それ以上のつきあいはなかった。その家の老婆が亡くなったらしいが、葬式に呼ばれているわけでもない。もちろん馬とて隣家との交流はなかったが、その日は朝から珍しく厩舎の扉に体をぶつけて明らかに外に出たがっているものだから、ようやく走る気になったのかと思った青年は、要求に応じて馬を小屋から出してやることにした。
すると馬は広い土の上を走りまわるのではなく、つかつかと青年が持っている手綱を引っ張るようにアスファルトの上を歩いて隣の家に向かうと、その開いた窓の脇から中でおこなわれている葬儀の様子を、立ったままじっと覗き込んでいるのだった。
しばらくして葬儀が終わると、馬はなぜか出てきた僧侶のあとをつけるように歩き、何かの催促でもするようにその尻を何度も鼻先でつんつんとやるものだから、青年はそのたびごとに僧侶に頭を下げねばならなかった。と同時に青年の中に、ひとつの予感がもたらされた。
翌日から馬はまた、すっかり馬小屋に引きこもってしまった。そこで青年は前日得た思いつきから、ひとつ実験をしてみることにした。
彼はスマホで検索したある動画を馬に見せた。それは僧侶が念仏を唱える動画であったが、すると馬はそれを食い入るように覗き込んでくるのだった。その様子は以前ふざけてにんじんの収穫動画を見せたときよりも、明らかに前のめりなのであった。そしてまるでジャズバーで音楽を聴く客のような顔をしてうっとりと念仏を聴いていた馬は、徐々に重心を後方へ移行させながらどうと尻餅をついてゆっくり目をつぶると、その細い脚をどうにかしてあぐらまでかいてみせたのであった。
以降、食事のたびに馬が催促してくるので、青年はそのたびにスマホで僧侶の念仏動画を見せているのだという。しかしそのせいか、近ごろはその美しいたてがみが急激に薄くなってきているような気もするらしい。
「では試しに、ラップでも聴かせてみたらどうかね?」
青年の話をふんふんと感心しながら聴いていた獣医は、自分はろくに聴いたこともないくせに、面白がってふとそんな提案をしてみた。もちろん冗談のつもりであったが、青年は即座に膝を打って「それだ!」とひとつ叫ぶと、そそくさと診察室を出ていってしまった。
その後改めて報告に来た青年によれば、馬はそれから再び外を走るようになったらしい。とはいえ馬はラップを聴かせているあいだしか絶対に走らないし、その走りかたもなんというか、繰り出したひと足ごとに伸び上がって跳ねるような、妙なグルーヴ感のある走りかたになってしまって、乗り手はみなすぐに酔ってしまい使いものにならないのだという。試しにニューエラのキャップをかぶせてみたら体を揺すってそれを斜にずらしてみせたというのだから、その馬のラップ好きはどうやら本物であるらしい。
まもなく古くからの知人である黒髭の言語学者に会った獣医の白髭先生は、この話を伝えると同時に、こうなったら《馬の耳に念仏》ということわざの意味を更新したほうが良いのではないかと持ちかけた。このことわざは、これまでのようになんの効果もないという意味ではなく、むしろ「馬のように影響を受けやすい人」の喩えとして使われるべきなのではないかと。
しかしこの黒髭の言語学者はそもそも、門外漢の意見などけっして聞き入れることのないとんでもない堅物であり、そのような新説を聴く耳などまったく持ちあわせてはいなかった。まさに《馬の耳に念仏》というほかない。
【ChatGPT氏によるちょうちん解説】
《ことわざの死後硬直と、馬のグルーヴ》
この作品は、ことわざという“言葉の化石”に、もう一度血を通わせようとする奇妙な蘇生実験である。しかもメスを握るのは人間ではなく、念仏に耽溺し、やがてラップで駆け出す一頭の馬だ。
冒頭の「馬が走らなくなった」という報告は、単なる異変ではなく、言語と現実のねじれを告げる号砲である。ことわざにおいて「馬の耳に念仏」は無効性の象徴だったはずだが、この物語では逆に“効きすぎる”。つまり、言葉は現実を説明するものではなく、現実を歪めてしまう力として立ち現れる。
とりわけ印象的なのは、馬が念仏を“理解してしまう”どころか、身体の奥深くで受信してしまう点だ。あぐらをかき、静止へと傾くその姿は、理解というより“同調”に近い。ここでは意味は不要で、リズムや声の振動が直接、生の挙動を書き換える。言葉は意味の器ではなく、波として作用している。
その極点がラップである。念仏によって停止した馬が、ラップによって再び走り出すという転換は、宗教と音楽、静と動、死と生のあいだを一本の奇妙なコードで接続する。しかもその走りは“機能的な走り”ではなく、グルーヴに支配された跳躍であり、もはや労働や実用から逸脱している。ここに、意味に従う身体からリズムに従う身体への転調がある。
さらに物語の後半で提案される「ことわざの意味更新」は、いかにも合理的で正しそうに見える。しかし、それを一蹴する言語学者の存在によって、この試み自体が再び「馬の耳に念仏」と化してしまう。つまりこの作品は、言葉をアップデートしようとする運動すらもまた、言葉の無力性に回収されるという、二重のアイロニー構造を持っている。
興味深いのは、死のモチーフの扱いである。父の死、葬儀、念仏。これらは通常、意味や儀礼によって秩序づけられる出来事だが、本作ではむしろ馬という異種の感受性を通じて、意味からこぼれ落ちた“音”や“気配”として再編成される。馬は人間のように死を理解しない。しかしその代わりに、死の周囲に漂うリズムを受け取ってしまう。
結果としてこの物語は、問いを静かに反転させる。
「言葉は意味を伝えるものか?」ではなく、
「言葉はどのように身体を動かしてしまうのか?」へ。
ことわざは、意味の標本として固定された言葉である。だがこの作品では、それが再び“鳴り出す”。そして鳴り出した瞬間、意味は遅れ、身体だけが先に反応してしまう。
最後に残るのは、どこか滑稽で、しかし少しだけ不気味な光景だ。
念仏で座禅を組み、ラップで跳ねる馬。
それはもはや比喩ではない。ことわざが現実に侵入してきた、その“そのあと”の風景なのである。




