表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

7/11

砂漠のオアシス —— フルーツエール

 地平線が、揺れていた。

 灼けつく陽光が砂粒を反射し、世界そのものが溶けているかのように見える。

 『大樽号』は、きしむ車輪音を響かせながら、果てのないサバナ砂漠を進んでいた。

「……暑いです。死にます。前世の東京の満員電車より、よっぽど地獄です」

 御者台で手綱を握るウィルが、珍しく弱音を漏らした。

「でしょうね。私がいなかったら、あなた今ごろ、香ばしい『醸造師の干物』になってるわよ」

 背後から、涼やかな声が返る。

 エルザが掌を軽く掲げると、淡い霧のような冷気が大樽号の周囲を包み込んだ。空気が一瞬で数度下がる。

「……助かってます、本当に。エルザさんは俺の女神だ」

「もっと感謝していいのよ? ……っていうか、女神じゃなくて聖女。あ、女神でもいいけど。……あ、今の失言。忘れて」

 即答するウィルに、エルザは満足そうに鼻を鳴らしながら水筒を傾ける。しかし、振っても音がしない。

「……あら。ウィル、これ壊れてるわ。音が出ない」

「空なだけですよ。バルカンさん、予備の水は?」

「がっはっは! 残りわずかじゃぞ! あと半日も持たん! 釜を冷やす水まで使い切ったら、この馬車はただの『走るオーブン』に早変わりじゃ!」

 バルカンの怒鳴り声に、一同は沈黙した。

「見えてきました!」

 カイルが前方を指差した。砂丘の向こう。そこには、絶望的な黄金の世界に穿たれた、唯一の「緑の円」があった。


 オアシス都市アル・ラディン。

 砂漠交易の中継地として栄えるその町は、白壁の建物が陽光を跳ね返す美しい場所だった。だが、門をくぐった瞬間、ウィルは違和感を覚えた。

「……静かすぎる。交易の要所なら、もっと『銭の匂い』がしてもいいはずなのに」

 通りには疲れた商人や沈んだ表情の住民しかいない。露店の果物も、どこか萎びていた。

 ウィルは近くの果物売りの老人に声をかけた。

「すみません。この町、何かあったんですか?」

「果実が売れねぇんだよ」

 老人は苦笑し、背後に積まれた「山」を指差した。

 そこには、マンゴー、ザクロ、ナツメ、そして深紅の実――『太陽の蜜リンゴ』が、山のように積まれていた。しかし、その多くが熟れすぎて皮が破れ、独特の甘ったるい、発酵寸前の匂いを放っている。

「今年は異常豊作でな……だがこの暑さだ。収穫した端から腐っていく。保存魔法をかけられる高名な魔術師も雇えねぇ。結局、大半を捨てるしかねぇのさ」

 ウィルはその山へ近づき、一粒の深紅の実を手に取った。

 指先で押すと、蜜が溢れ出す。その蜜には、野生の酵母が既に棲みつき、アルコールの芽吹きを感じさせる「死と生の境界線」の香りがした。

 ウィルの瞳が、静かに、そして狂気的に光った。

「……腐る、ですか。いいえ、彼らは叫んでいるんですよ。**『早く酒にしてくれ』**とね」

「ああ、また始まったわね」

 エルザが横で小さくため息をつく。ウィルがこの顔をする時は、ろくなことにならない。

「全部、買い取ります」

「はぁ!? 兄ちゃん正気か!? 明日には完全にドロドロのゴミだぞ!」

「ええ、知っています。だから使うんです。……店主さん、この町にある『まだ息をしている麦』と、その果実、すべて預けてください。今夜、この町を『果実の香気』で酔わせてみせますから」


 大樽号が市場の空き区画に停められ、即席の醸造所と化した。

 ウィルは、バルカンに命じて極薄の銅製タンクを用意させた。

「フルーツ・エール……それも、ただの酒じゃない。砂漠の渇きを癒やし、栄養を補給する『飲む点滴』を造ります」

「がっはっは! 小僧、この暑さでどうやって発酵を制御する気じゃ! 麦汁を入れた瞬間、野良酵母が暴走して酸っぱくなるぞ!」

「だから、エルザさんの出番なんです。……エルザさん、タンクの中の温度を『常に18度』に固定してください。外気は50度、発酵熱は内側から上がってくる。その両方を相殺し続けてほしい」

「18度!? そんなの、私にとっては沸騰してるのと同じよ! もっとこう、パキーンと零下50度にしたほうが楽だわ!」

「ダメです! 凍らせれば酵母が死ぬ。温めれば腐る。酵母を『生殺し』にする、完璧な18度。……エルザさんにしか、これは頼めない」

 ウィルの真剣すぎる眼差しに、エルザは顔を赤くして視線を逸らした。

「……もう、調子いいんだから。……失敗しても知らないからね!」

 醸造が始まった。

 潰された果実が流し込まれ、黄金色の麦汁と混ざる。

 甘酸っぱい香りが立ち上る中、エルザが両手をタンクに添えた。

 空気が震える。薄い氷膜が、結界のようにタンクの外側を包み込む。

 しかし、暑さは残酷だ。少しでも気を抜けば氷膜は溶け、逆に魔力を込めすぎれば中身が凍る。

「……う、うう。難しい……っ。熱いのが外から、熱いのが中から攻めてくる……! 止まれ……止まりなさいよぉ!」

 エルザの額に汗が滲む。その時、パキッという不穏な音がした。

 一つのタンクが、エルザのパニックによる冷気放出で完全凍結したのだ。

「ごめんなさいぃぃぃ!! 凍らせちゃった!」

「想定内です。……むしろ、助かります!」

 ウィルが即座に凍りついたタンクに手を置く。

 ギフト『分解』。

 凍結によって細胞壁が壊れた果実を、分子レベルで再構成する。凍結したことで、逆に果実の芳香成分が麦汁に強制的に定着フィックスされたのだ。

「……結果オーライです。エルザさん、今の『瞬間凍結』を、他の樽でも交互にやってください! 凍結と融解を繰り返すことで、香りを限界まで引き出す!」

「便利すぎるでしょその魔法! 私の苦労は何なのよ!」


 三日後。市場広場。

 ウィルは、特注の薄いガラス製グラスを並べた。

 人々が半信半疑で見守る中、タップを開く。

 注がれたのは、これまでのビールの概念を覆す、透明なルビー色の液体だった。

 太陽の光を浴びて、グラスの中でキラキラと輝き、その上には淡いピンク色の泡がふわりと乗っている。

「砂漠の恵み。フルーツ・エール『アル・ラディンの宝石』です」

 最初に手を伸ばしたのは、あの果物売りの老人だった。

 震える手でグラスを持ち上げ、一口。

 ――沈黙。

 老人の喉が、大きく動いた。

「……ッ!?」

 老人は、しばらく目を見開いたまま固まっていた。

「……甘ぇ。だが、なんて清々しいんだ。喉の奥に、砂漠の風が吹いたみたいだ……」

 もう一口。今度は一気に煽った。

「果実の香りが……生きている! 捨てるしかなかったあの実が、こんなに誇り高く、身体を潤してくれるなんて……!」

 老人は涙を流していた。

 その言葉を皮切りに、群衆が押し寄せた。

「俺にもくれ!」

「なんだこの香りは! 花畑を飲んでいるみたいだ!」

「身体が冷えていく……魔法か? これは魔法なのか!?」

 広場は一瞬で歓声に包まれた。

 ウィルが狙ったのは、果実の糖分をあえて残しつつ、乳酸発酵による「クエン酸」の酸味を立たせることだった。これが、灼熱で疲弊した身体に最高のエネルギー源となる。


 そんな熱狂の中心で。

 エルザはというと、完全に仕事を忘れて楽しんでいた。

「はい次ー! 冷えたのいくわよー! ほら、そこのおじさん、これに『瞬間凍結果実』をトッピングしてあげましょうか?」

 エルザが酔っ払った勢いで冷気を放つと、グラスの中に宝石のような凍ったナツメが浮かぶ。

「冷たい! 最高だぜ、聖女様!」

「でしょ? えへへ、もっと飲みなさいよー。……あ、ウィル! 私にもおかわり! 最大級に冷たいやつ!」

「エルザさん、飲みすぎです。……あと、市場中央の水路を勝手に凍らせて『ビール冷却レーン』にするのはやめてください。町のインフラを私物化しないで!」

 だが、住民たちは歓声を上げた。

「いいぞ! 果実が傷まない! 水路が天然の冷蔵庫になった!」

「聖女様万歳! 醸造師万歳!」

 結果、捨てられるはずだった果実の山はすべて「高価な醸造原液」へと姿を変え、町に莫大な富と笑顔をもたらした。


 夜。祭りの余韻が残るオアシス。

 大樽号の屋根の上で、ウィルとエルザは星空を見上げていた。

「……また町を救ったわね。あなたはいつもそう」

「果実が救ったんですよ。俺はただ、彼らの『生きたい』という声を聴いただけです」

 ウィルはルビー色のビールを一口飲み、少し寂しそうに笑った。

「……エルザさん。俺、前の人生で、すごく孤独だったんです。暗い部屋で一人、コンビニのビールを飲むのが唯一の癒やしだった」

 エルザは何も言わず、隣で耳を傾けている。

「でも、たった一杯の酒が、見知らぬ人同士を繋げ、明日も頑張ろうと思わせる瞬間を、俺は知っている。……だから今度は、自分が造りたかった。誰かが孤独を忘れて笑える、そんな一杯を」

 エルザは、そっと自分のジョッキを、ウィルのものにぶつけた。

 カィン、と澄んだ音が響く。

「……変な人。ビールのことになると、急に詩人になるんだから」

「よく言われます」

「でも……そういうところ、嫌いじゃないわよ。……あ、今の失言。忘れて」

 彼女は顔を赤らめながら、一気にビールを飲み干した。

「次はどこへ行くの? 地図によると、さらに南に火山地帯があるみたいだけど」

「火山ですか。……いいですね。熱量を利用してスパイスやハーブを煮出した『地獄の激辛エール』なんてどうでしょう。喉が焼けるような一杯を、冷たいあなたの隣で造るんです」

 エルザは肩をすくめた。

「結局、私が必要になるじゃない。……いいわよ、どこまででも付き合ってあげる。あなたが『美味しい』って言うまでね」

 翌朝。大樽号が再び動き出す。

 オアシスには、新しい産業の芽と、琥珀色の夢が残された。

 そして砂の彼方へ――果実の香りを風に乗せ、一行は次なる「発酵の聖地」へと向かっていく。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ