氷の聖女と銀世界のラガー
『大樽号』が辿り着いたのは、北方の霊峰アイゼン。一年中が雪と氷に閉ざされた、白銀の世界だった。
この地には、教会の「最終兵器」と呼ばれる少女が幽閉されている。
「……ウィル様、さすがにここはマズいです。引き返しましょう」
カイルの顔は、寒さではなく恐怖で青ざめていた。
「アイゼンの氷聖女、エルザ・フォン・アイスラー。彼女の魔力はあまりに強大で、周囲数キロを無意識に凍土に変えてしまう。教会ですら持て余し、ここに『聖域』という名の監獄を造って閉じ込めているんです。近づくだけで凍死しますよ!」
「いいじゃないですか、最高の天然冷蔵庫ですよ」
ウィルは防寒着に身を包み、大樽号の窓から外を眺めた。
「カイル、バルカンさん。……俺たちは今まで、香りの強い『エール』を造ってきました。でも、この冷たく澄んだ空気を見て確信しました。今こそ、世界に『ラガー』を解き放つ時です」
「らがー……? また新しい魔術か?」
バルカンが首を傾げる。
「いいえ、技術の名前です。エールが『華やかさ』なら、ラガーは『究極の透明度』。そのためには、氷点下に近い温度で、数ヶ月間じっくりと眠らせる『ラガリング(低温熟成)』が必要なんです」
ウィルの瞳には、夏の夕暮れ、仕事帰りにコンビニで買った、キンキンに冷えたあの黄金色の缶が映っていた。喉を刺すような炭酸の刺激、そして一切の雑味がない、クリスタルのように澄んだ喉越し。
「それを造るには、俺の『分解』の力だけでは足りない。どうしても、彼女の『完璧な氷』が必要なんです。……さあ、突撃しましょう」
聖域の中心。そこには、触れれば魂まで凍りつきそうなほど美しい、氷の宮殿があった。
その最奥の玉座に、一人の少女が座っていた。プラチナブロンドの髪を足元まで伸ばし、感情の消えた瞳で窓の外の雪を眺めている。
「……誰? 汚らわしいワインを持って、私を使い潰しに来たの?」
エルザの声は、氷が割れるような冷たさだった。だが、彼女が立ち上がろうとしたその時。
「わ、わわっ!?」
ドレスの裾を自ら凍らせていた床に引っ掛けたのか、聖女様は盛大に前のめりに転倒した。
「……痛い。冷たい……あ、冷たいのは当たり前だったわ。……見なかったことにして」
ズザザザ、と氷の上を滑りながら這い上がる少女。カイルが「……え、これが最終兵器?」と困惑する中、ウィルは平然と歩み寄った。
「氷の聖女エルザさん。ワインを造りに来たのではありません。……あなたのその力を、もっと『楽しいこと』に使ってほしくて来ました」
「楽しいこと……? 私、教会のワインを冷やすことしかさせてもらえなかったわ。おかげでこの宮殿、冷えすぎちゃって……時々自分でも凍りそうになるのよ? ほら、今の転倒だって私の魔力が暴走して床を滑りやすくしたせいなんだから」
意外と話しやすい、というか、放っておけないタイプのポンコツ臭が漂ってきた。
「エルザさん。俺と一緒に、世界で一番『透き通った黄金』を造りませんか? あなたのその『止める力』は、生命を殺すためじゃなく、美しさを閉じ込めるためにあるはずだ」
「……透き通った黄金? よくわからないけど……お腹も空いたし、暇だったから、やってみてもいいわよ」
ウィルの「狂気」が始まった。
彼はデッドランドの超軟水と、ナルカミ村で分けてもらった良質な麦、そしてバルカンが新開発した「耐圧式の発酵タンク」を並べた。
「エールは、暖かい場所で活発に発酵させます。だから華やかな香りが生まれる。……でもラガーは違う。エルザさん、このタンクの中を、常に『摂氏零度』から『三度』の間に保ってください。一ミリの狂いも許されません」
「零度から三度!? そんなの熱湯じゃない! 私はいつもマイナス五十度で凍らせているのよ!」
「それがダメなんです! 凍らせちゃいけない。酵母を殺さず、かつ眠らせるギリギリの『生ぬるさ』を維持する。……これぞ聖女の技でしょう?」
「む、むう……。やってやろうじゃない。これでも聖女なんだから!」
エルザがタンクに手を添える。だが、最初の一撃でタンクがパキパキと凍りつき始めた。
「あわわわ! 凍っちゃった! 戻して、温度戻して!」
「エルザさん、落ち着いて! 魔法で温めるんじゃなくて、冷気を引くんです!」
「冷気を引く!? どうやるのよ、そんなことしたことないわよ! ……あ、できた。……あ、また凍った!」
ウィルはエルザの背後に立ち、彼女の手の上に自らの手を重ねた。
「……感じてください。俺が酵母の代謝を『分解』で抑制します。あなたは、その周囲の時間を、完璧な静寂で包み込む。二人で一つの温度を創るんです」
「……う、うん。……なんか、あなたの手、あったかいわね。……あ、今の失言。忘れて」
ウィルの『分解』とエルザの『氷結』。
相反する二つの力がタンクの中で調和していく。
本来、ラガービールは数ヶ月の貯蔵期間を要する。低温でゆっくりと時間をかけることで、不純物が沈殿し、液体は水晶のような透明度を獲得していくのだ。
(……聴こえる。エルザの氷の中で、酵母たちが深い眠りについている。……その眠りの邪魔をする『雑味』だけを、俺が摘み取っていく……)
数分、数十分。エルザの頬に、生まれて初めての「労働の汗」が滲む。
「……できた。これが、ラガーだ」
ウィルは、キンキンに冷えたグラスに、その液体を注いだ。
泡は白雪のように細かく、液体は向こう側が透けて見えるほど澄み渡っている。
「エルザさん。これを」
エルザは震える手でグラスを受け取った。そして、一口。
「――っ!?」
彼女の喉を、稲妻のような冷たさが駆け抜けた。だがそれは、彼女を傷つける冷たさではない。
極限まで削ぎ落とされた麦のピュアな旨み。ホップの上品な苦味。そして何より、飲んだ瞬間に鼻から抜ける、冬の朝の空気のような清涼感。
「……美味しい。私、自分の力がこんなに優しく感じたの、初めて……」
感動的なシーン。……だったのだが。
「ぷはぁー! これ、いくらでも飲めちゃうわね! ウィル、もう一杯! あ、手が滑っ――」
ガシャーン。
感動の余韻に浸る間もなく、エルザは喜びのあまりグラスを落として割った。しかも、慌ててそれを魔法で拾おうとして、床を半径十メートルにわたってツルツルのスケートリンクに変えてしまう。
「あわわわ! カイル、滑るわよ! 捕まって!」
「うわぁぁ!? 聖女様、私を掴んで一緒に転ばないでください!!」
教会の異端審問官たちが乗り込んできたのは、そんなカオスな状況の時だった。
「エルザ! 熟成ワインの納期が……なっ、なんだこの光景は!? 聖女ともあろう者が、泥酔して騎士と抱き合って転がっているだと!?」
「……うるさいわね。今、いいところなんだから。……それから、ワインはもう造らないわ。私は、この黄金色の飲み物を守る『冷やし担当』になるんだから!」
エルザが指をパチンと鳴らすと、異端審問官たちの足元だけが瞬時に氷像となった。
「……さあ、ウィル。次の街に行きましょう! 私のこの魔力、もっと美味しいビールのために使わせてあげるわ!」
「……エルザさん、その前に。まずはその、自分のドレスの裾を凍らせて床にくっついてるの、直しましょうか」
「……え? あ、本当だ。動けないわ。ウィル、助けてー!」
数日後。
『大樽号』の荷台には、エルザ専用の「特等席(冷蔵ルーム兼寝室)」が備え付けられていた。
「ウィル、次の街は暑いところがいいわ。私のビールが、一番美味しく感じられる場所へ! あ、でもおつまみは忘れないでね?」
エルザは、もう「孤独な氷の聖女」ではなかった。
ビールの美味しさを世に広める、一人の、そしてちょっと危なっかしい「チル・マスター」になっていた。
「がっはっは! いいぞ、エルザ! ワシの釜と貴様の氷があれば、世界中を最高の喉越しで黙らせてやれるわ!」
ウィルは、窓から見える広大な世界を見つめた。
ペールエール、IPA、そしてラガー。ビールの三原色が揃い、彼の「醸造革命」は加速していく。
「次は……そうですね。港町に行きましょう。そこには、まだ誰も見たことがない、海のように真っ黒な『黒ビール(スタウト)』の材料があるはずですから」
大樽号が雪原を蹴って進む。
孤独死した前世。だが今、ウィルの横には最高の仲間と、完璧に冷えた一杯のラガーがあった。
「……あー、やっぱりこれだ。ビールは、裏切らない」
ウィルの独り言は、心地よい炭酸の泡とともに、銀世界へと溶けていった。




