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異端の移動式醸造工房 、 伝説のドワーフと「大樽号」の夜明け

聖都を出て二週間。馬車が辿り着いたのは、地図の端に記された不毛の地「デッドランド」だった。

 そこは、かつての大戦で魔力が枯れ果てたと言われる、呪われた荒野だ。風が吹くたびに、乾燥した硫黄の匂いと、白く風化した獣の骨が擦れ合う乾いた音が響く。

「……終わった。本当の終わりだ」

 騎士カイルが、絶望に打ちひしがれた声で呟いた。

 目の前に広がるのは、ひび割れた大地と、凍てつくような冷気を孕んだ岩山のみ。食料も、住処も、命の気配すらない。

 だが、馬車を降りたウィル・ロットは、深々とその「死の空気」を吸い込み、歓喜に肩を震わせた。

「……素晴らしい。最高じゃないですか、カイル」

「ウィル様……正気に戻ってください。ここは死地ですよ?」

「いいえ、ここは『聖域』です。見てください、あの岩陰を」

 ウィルが指差したのは、切り立った岩壁の隙間から、音もなく湧き出ている泉だった。

 魔力が枯渇した土地ゆえに、一切の魔物も雑菌も寄り付かない。そこにあるのは、雪解け水のように澄み渡った、超軟水の天然水だ。

「この冷たさ。この透明度。……教会が独占するあの湿っぽく、カビ臭い葡萄園の地下室とは比較になりません。ここは、世界で唯一の、完璧な醸造所ブルワリーです」

 ウィルは前世の記憶を反芻する。

 冷えた缶を握りしめて死んだ、あの暗いアパート。死の直前、彼の鼻を突いたのは腐ったゴミの臭いだった。だが今、目の前にあるのは、生命を拒絶することで保たれた、究極の純粋だ。


 ウィルはすぐに「仕事」に取り掛かった。

 カイルが呆然と見守る中、馬車から降ろした小型醸造装置を泉の傍らに設置する。王都から持ち出したわずかな大麦を、土魔法で即席に作り上げた釜で煮込み、麦汁ウォートを抽出していく。

 そして、仕上げの瞬間が訪れた。

 ウィルは麦汁の入った樽に、そっと右手をかざした。

 ギフト『腐敗』——死を招くと忌み嫌われた黒い魔力が、指先から溢れ出す。

(……聴こえる。さあ、演奏を始めよう)

 ウィルの意識は、ミクロの領域へと潜り込む。

 本来なら数ヶ月を要する複雑な分解と合成のプロセス。それを、このギフトが「加速」させる。

 シュワリ、シュワリ。

 糖を貪り、アルコールと炭酸ガスを吐き出す微生物たちの歓喜の声。

 タンパク質がほどけ、アミノ酸の深みへと変わる重厚な低音。

 それは、目に見えない無数の生命たちが奏でる「琥珀色の交響曲」だった。

 だが、そのタクトを振るウィルには、凄まじい負荷が掛かる。

「……っ、うあああ……!」

 右手の皮膚が黒く変色し、激痛が走る。

 一分が、一時間にも感じられるような極限の集中。やがて、樽の中から「パチパチ」という、小さな祝福の音が聴こえてきた。

「……完成だ」

 ウィルは崩れ落ちるように地面に膝をついた。右手には痛々しい黒い痣が残っていたが、その瞳はかつてないほどに輝いていた。


 樽から冷えた液体をグラスに注ごうとしたその時、背後から凄まじい地響きが迫った。

「――そこまでだ、不浄な人間共め!」

 現れたのは、身の丈ほどもある巨大な鉄槌を担いだ、老ドワーフ、バルカンだった。

「ワシの縄張りで、何の毒を造っておる! 酒か!? 酒は魂を腐らせる泥水だ! ワシの里は、人間が持ち込んだ安酒のせいで滅びた。もう二度と、この地に汚らわしい液体は通さん!」

 バルカンが鉄槌を振り上げる。

 ウィルは静かに、完成したばかりのグラスを差し出した。

「バルカンさん。……俺も、酒に殺された男です。孤独で、寒くて、誰にも看取られず、安酒を見つめて死んだ。……だからわかるんです。あなたが憎んでいるのは酒じゃない。酒に呑まれ、自分を見失った『弱さ』だ」

 ウィルは、グラスをバルカンの足元に置いた。

 一切の濁りがない、透き通った琥珀色の液体。その上には、シルクのようにきめ細やかな白い泡がふんわりと乗っている。

「これは、貴方を酔わせるための毒じゃありません。……その乾ききった魂を、一度だけ洗うための『水』です」

 バルカンは鼻を鳴らし、乱暴にその液体を喉に流し込んだ。

 ――静寂が訪れた。

 バルカンの目が見開かれる。草原を駆け抜けるようなホップの苦味。麦の芳醇な甘み。そして、喉の奥の汚れを根こそぎ洗い流していくような爽快感。

「……なんじゃ、これは。苦いのに……温かい。ワシの、ワシの喉が……泣いておる……」

 老ドワーフの頬を、一筋の涙が伝った。

「……小僧、いや醸造師殿。その安物の魔導具は見てられんわい」

 涙を拭ったバルカンは、ウィルの装置を指さして鼻で笑った。

「そんな脆い釜では、貴様のその強大な『魔力』に耐えきれず、すぐに爆発するか味が濁る。ワシが、世界最高の『釜』を打ってやろう」

 バルカンは馬車の荷台を検分すると、おもむろに巨大な鉄槌を地面に叩きつけた。

「カイルと言ったか! そこら辺に転がっている『魔銀ミスリル』の端材と岩塩を集めてこい! ウィル、貴様は馬車の木材に『腐敗』をかけろ!」

「えっ、木材にですか?」

「バカ者が。腐らせるんじゃない。『熟成』させるんじゃ! 長年使い込まれた古樽のような粘りと香りを、今すぐこの板材に持たせろ!」

 そこからは、二人の狂気が混ざり合う伝説の時間が始まった。

 バルカンが魔銀を叩き、複雑な魔力回路を刻んだ銀のパイプを血管のように張り巡らせる。ウィルは命を削るような集中力で、馬車の木材一本一本の細胞を「熟成」させ、最高級のオーク材をも凌ぐ強度と防腐性能を与えていった。

 数時間後。

 追放者用のボロ馬車は、その姿を完全な「異形」へと変貌させていた。

 荷台部分は巨大な横置きの木樽のような形状になり、その内部にはバルカンが鍛え上げた魔銀製の醸造釜が鎮座している。パイプを通じて泉の水を自動で引き込み、移動の振動すらも「攪拌」に利用する、世界に類を見ない移動式醸造工房。

「……できたぞ。これはただの馬車ではない。移動しながら発酵・貯蔵・抽出をすべて完璧に行う、黄金の城じゃ」

 ウィルはその操縦席に腰掛け、手元のレバーに触れた。

「……素晴らしい。これなら旅をしながら、最高の状態のビールを醸し続けられる。こいつの名前は……『大樽号ビッグバレル』だ」

「ウィル様……これ、王都で売ったら戦争が起きますよ」

 カイルもまた、完成したばかりのビールを二杯、三杯と煽り、顔を真っ赤にして叫んでいた。

「戦争なんてしませんよ。ただ、みんなに『乾杯』を教えるだけです」

 ウィルは『大樽号』のアクセル——魔力注入レバーを引いた。

 孤独死したあの日、俺が欲しかったのは、この一杯だった。そして今、俺の横にはそれを分かち合える仲間がいる。

「さあ、行きましょう。次の目的地は……『雷鳴のホップ』が自生するナルカミ村です」

 ホップの爽やかな香りが、デッドランドの死の匂いを完全に上書きしていた。

 琥珀色の革命は、今、静かに、だが熱狂的に幕を開けたのである。

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