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王都の逆襲 ——『インペリアル・スタウト』で迎え撃つ防衛戦【前編】

 王都アルバードを追放されてから、これほどまでに「静寂」が重く感じられたことはなかった。

 大樽号の内部、操縦席の横では、エルザが自身の杖を媒介にした魔導投影図ホログラムを浮かび上がらせていた。青白く光る地図の上に、四百に近い「銀色の点」が、整然とした隊列を成してこちらへ近づいてくるのが見える。

「……リネットの鳥(使い)が知らせてくれた通りね。王都を発ってから三日、一時の狂いもない進軍速度だわ」

 エルザが忌々しげに呟く。彼女が展開した広域索敵魔法は、騎士団が纏う魔導銀ミスリルの微弱な共鳴を正確に捉えていた。

「ふふ、私の可愛い元部下たちは優秀なの。枢機卿閣下が『不浄の醸造師を処刑せよ』と聖騎士団に勅命を下した瞬間、私の耳に届いていたわ」

 リネットが自慢げに、鋭い短剣を指先で弄ぶ。

「王都の広場では、民衆が教会のワインを溝に捨てて『ウィルのビールを連れてこい!』って暴動を起こしているそうよ。枢機卿様、相当焦ってるみたい。自分の利権が泡と一緒に消えちゃうのが怖いのね」

「……それで、昨夜の『お仕事』の首尾はどうですか」

 ウィルが、タンクの温度計を見つめたまま問いかける。

「完璧よ。カイル様が夜陰に乗じて、奴らの補給車をまるごと『迷い込み』させてくれたわ」

 隣で腕を組むカイルが、苦笑しながら頷く。

「騎士団の警備は、自分たちが『正義の征討軍』だと信じ込んで、背後を突かれる想定をしていなかった。崖下の峡谷に彼らの水樽とワイン樽をすべて投げ落とし、代わりにバルカン殿が造った『超高濃度の塩水』を入れた樽を一つだけ残してきた」

 ウィルは静かに笑った。

「塩水……。それは喉が渇くでしょうね」

「仕上げに、奴らの進軍ルートの井戸には、一日だけ腹を下すハーブを仕込んでおいたわ。……さあ、銀の鎧を纏った『喉の渇いた狼たち』のお出ましよ」


 だが、事前の工作だけで勝てる相手ではないことは、ウィルが一番よく知っていた。

 彼が今、挑んでいるのは醸造家としての「禁忌」に近い領域だった。

「……っ、あぁ……ッ!!」

 ウィルが突然、膝をついた。彼の右腕――肘から先が、禍々しい漆黒の魔力に侵食され、血管が黒い稲妻のように浮き出ている。

 エルフの森で『千年の蜜』を強引に分解し、さらに今、このタンクに眠る漆黒の液体に「命」を吹き込むためにギフト『分解』を酷使した代償だ。

「ウィル様!!」

 エルザが駆け寄り、その右腕を抱える。

「もうやめて! この『インペリアル・スタウト』は危険すぎるわ! アルコール度数12%を超える発酵なんて、人間の魂を削らなきゃ維持できない……!」

「いいんだ、エルザさん……。相手は、王都の誇りそのものである聖騎士団だ。普通のビールじゃ、彼らの『思い込み』は壊せない。……鉄も、誇りも、すべてを溶かして飲み込むような、圧倒的な『闇』が必要なんだ」

 ウィルは歯を食いしばり、黒く染まった右腕をタンクに押し当てた。

 タンクの中では、通常の三倍の麦芽と、焦がしたコーヒー豆のようなロースト麦芽が、ウィルの魔力を糧に暴狂的な発酵を続けている。

 焦がしたチョコレート、濃厚なカカオ、そして喉を焼くような強烈なアルコールの香り。それは「酒」という概念を超えた、液体の重火器だった。

「がっはっは! 若造、根性を見せおったな! 魔力炉の火は儂が完璧に管理してやる。お主は、その『漆黒の王』を完成させることだけを考えろ!」

 バルカンが煤だらけの顔で叫び、魔力炉に最高級の魔石をぶち込む。大樽号が、内側からの圧力でミシミシと悲鳴を上げた。


 数時間後。荒野の地平線が、銀色の光で埋め尽くされた。

 王都直属・聖騎士団。

 四百の重装騎兵が巻き上げる土煙は空を覆い、磨き抜かれた鎧が夕日に反射して、見る者を威圧する。中央には、教会の権威を象徴する十字の旗が翻っていた。

「……来たな。整然とした、いい隊列だ。喉の渇きを隠して、これほどの行軍を見せるとは」

 大樽号の屋根に立ったカイルが、冷静に分析する。

「先頭に立つのは聖騎士団長ガストン。融通は利かないが、部下からの信頼は厚い男だ」

 大樽号の前に、巨大な銀の壁が立ちはだかる。

 ガストンが馬を前に進め、雷鳴のような声を上げた。

「追放者ウィル・ロット! および、その協力者たちよ! 貴様らは禁忌の魔術を酒に込め、民の心を惑わし、王国の秩序を乱した! 枢機卿閣下の名において、直ちに投降せよ。さもなくば、この大樽ごと塵に還す!」

 ガストンの声は威厳に満ちていたが、その瞳には微かな「焦り」があった。

 昨夜からの異常な渇き。補給路の謎の事故。そして、目の前の銀色の馬車から漂ってくる、脳の芯を痺れさせるような、官能的で重厚な「香り」。

 ウィルは、右腕を布で隠しながら、ゆっくりと馬車の外へ歩み出た。

「ガストン団長。……まずは、遠いところをご苦労様です。……随分と、お疲れのようですね?」

「黙れ! 貴様の甘言に耳は貸さん!」

「甘言ではありません。……ただの、おもてなしですよ。リネット、準備を」


 ウィルの合図と共に、リネットが大樽号の側面にあるバルブを開いた。

 ジョボジョボと、重々しい音を立ててジョッキに注がれたのは、光を一切通さない漆黒の液体だった。泡は細かく、クリーミーなベージュ色。

「……なんだ、その泥水は」

 ガストンが眉をひそめる。

「これは『インペリアル・スタウト』。……かつて、最果ての帝国の王が、極寒の地で兵士たちの士気を高めるために愛したと言われる、最強の黒ビールです」

 ウィルは右腕の激痛を隠し、自らジョッキを掲げた。

「毒を疑うなら、俺が先に飲みます。……見ていてください」

 ウィルがその漆黒を一口煽る。

 その瞬間、彼の背後でエルザが魔力を放ち、冷却魔法でジョッキの温度を「極限の最適解」まで引き下げた。

 喉を通る衝撃。焦がした麦芽の苦みが舌を支配した直後、濃厚な糖分が脳を直撃し、12%のアルコールが全身の血管を拡張させる。

「…………ぷはぁっ!!」

 ウィルの口から、黄金色の魔力を含んだ吐息が漏れた。

「……最高だ。……身体の節々の疲れが、すべて熱となって消えていく」

 その様子を、渇ききった四百の兵士たちが、唾を飲み込んで見つめていた。

 リネットはニヤリと笑い、予備のジョッキを数点、騎士団の最前列へと放り投げた。

「おひとつどうぞ? そっちのワイン樽には、もう『しょっぱい思い出』しか詰まってないでしょ?」

 一人の若い兵士が、ガストンの制止が間に合う前に、地面に落ちたジョッキを拾い上げた。彼は震える手で、その夜のように深い液体を口にした。

「……っ!? な、なんだこれ……旨い、旨すぎる!! 身体が、身体が軽い!!」

 その絶叫が、騎士団の規律に最初の「ひび」を入れた。


「飲むな! 隊列を崩すな!」

 ガストンが怒鳴るが、一度火がついた本能は止められない。

 次々とジョッキが兵士たちの間を巡り、漆黒の液体が彼らの喉を潤していく。

 だが、ウィルは冷徹な瞳でその光景を見ていた。

「……カイル。……始まりますよ」

 ウィルが、隠していた右腕の布を解いた。

 漆黒に染まった右腕が、タンクと共鳴して不気味に脈打つ。

「ギフト『分解』――指向性発酵励起しこうせいはっこうれいき!!」

 ウィルの叫びと共に、スタウトを飲んだ兵士たちの周囲で、目に見えない「波」が広がった。

 それはスタウトの中に潜ませた、ウィル独自の「高活性・分解酵母」への起動指令。

 ギギッ、バキッ!

 不気味な音が、騎士団の最前線から響き始めた。

「な、なんだ!? 私の剣が……鞘から抜けない!?」

 一人の兵士が叫ぶ。彼の剣の鞘――高級な牛革で作られた装飾が、スタウトの霧と反応し、爆発的な速度で『発酵(分解)』を始めていた。

 革はドロドロのゼリー状になり、接着剤となっていた有機成分が分解され、剣の柄がボロリと地面に落ちた。

「私の盾が! 盾の裏の木材が、カビて崩れていく!!」

 別の兵士が悲鳴を上げる。ウィルの酵母は、金属以外のあらゆる有機素材――革ベルト、木製グリップ、布製のマント――を「栄養」として認識し、驚異的な速度で分解・腐敗させていた。

「貴様……魔法か!? 卑怯な真似を!!」

 ガストンが剣を引き抜こうとするが、彼の愛剣のグリップも既にカビに覆われ、握った瞬間にヌルリと滑った。

「魔法ではありません。……『発酵』ですよ」

 ウィルは、黒く染まった右腕を突き出した。

「あなたの装備は、俺のビールが美味しくいただきました。……さて、武器を失った聖騎士の皆さん。……まだ、戦いを続けますか?」

 銀色の壁は、今や「ボロ布を纏った、酔っ払いの集団」へと成り下がっていた。


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