エルフの秘境 —— 千年の蜜と琥珀の神酒(ミード)【後編】
静寂が広場を支配していた。ウィルが掲げたグラスの中で、琥珀色の液体が月光を吸い込み、内側から発光しているかのように輝いている。
「……それが、我が森の至宝を『加工』したという代物か」
セレスティーヌが、忌々しげに、だがその芳香に抗えず鼻を鳴らした。
「毒見は不要です。俺が、ここで最初に飲みますから」
ウィルは自らグラスを煽った。その瞬間、彼の袖から覗く右腕の皮膚が、パきりと音を立てて裂け、中から琥珀色の魔力が蒸気となって噴き出した。
千年の蜜が持つ膨大な魔力を『全解離』させた代償――彼の右腕は、過負荷によって醸造のたびに内側から焼かれる「不浄の刻印」を刻まれていた。激痛に顔をしかめながらも、ウィルは喉を鳴らして飲み干した。
「……あぁ。最高だ」
その一言が合図だった。セレスティーヌは意を決したように歩み寄り、差し出されたグラスを奪い取るように受け取った。彼女が唇を湿らせた、その刹那――セレスティーヌの瞳が、限界まで見開かれた。
(……何なの、この芳醇な暴力は。私たちが守ってきた数百年は、この一杯の快楽にすら届かないというの? 清らかであることに縋ってきた自分が、今、この琥珀色の海に溺れて消えてしまいたいと願っている……っ)
鉄のプライドを誇った自警団長の膝が、微かに震えていた。
「……ふふ、驚くのも無理ないわ。セレスティーヌ」
エルザが、優雅に自らのジョッキを傾けながら進み出た。
「これは単なる蜂蜜酒じゃない。ウィルは、蜂蜜という『糖の塊』に、麦芽の『構造』を与えたの。ミードの歴史を数百年飛び越えた、まさに『神の祝祭』よ」
エルザの解説は、もはやエルフたちにとって「神託」だった。
「がっはっは! 驚くのはまだ早いわ、長耳の娘よ!」
そこで割って入ったのは、腕まくりをしたバルカンだった。彼は特製の石釜から、香ばしい匂いを漂わせる極厚の骨付き肉を取り出した。
「酒だけでは片手落ちじゃ。この『千年の蜜』を塗って焼き上げた、岩猪のハニーローストじゃ! これを食うてから、もう一度その酒を煽ってみい!」
セレスティーヌの理性が、肉汁とミードの奔流によって決壊した。
「美味い……っ! なにこれ、止まらない……! 誰か、誰かおかわりを!」
広場が狂乱に染まる中、カイルは少し離れた場所から鋭い目で見守っていた。
「リネット。君、少し煽りすぎじゃないか? エルフたちが完全に我を忘れている」
「あら、カイル様。これは必要な『市場調査』よ。彼らのガードを下げなきゃ、対等な取引なんてできないでしょ?」
リネットは笑いながら、酔った勢いで自警団員たちの武器を「安全のため」と称して次々と預かっていた。
「……やれやれ。君のやり方は相変わらずえげつないな。……だが、万が一の暴動に備えて、私がこの場を制圧できる位置に陣取っておこう。ウィル様の『乾杯』を汚させるわけにはいかない」
カイルは腰の剣に手をかけつつ、密かに周辺の警戒網を掌握していった。元騎士と元スパイの連携が、この奇跡の夜の安全を担保していた。
翌朝。広場には、至る所で心地よさそうに転がって眠るエルフたちの姿があった。
「……やりすぎましたかね」
ウィルが、包帯を巻いた右腕をさすりながら苦笑する。
「いいえ。これで『エーテルガルド』はあなたの最大の支持基盤になったわ」
エルザが、少し眠そうな目をこすりながら答える。
「ウィル様ー! 契約書、バッチリよ!」
リネットが、セレスティーヌの直筆サインが入った羊皮紙を振って走ってきた。警備の引き継ぎもカイルが完璧に行い、森は実質的にウィルの「醸造拠点」へと変貌していた。
「……しかしウィル様。王都の方は放っておいていいのですか? 彼らがこれを知れば、いよいよ軍を動かしてくるかもしれません」
カイルの懸念に、ウィルはハンドルを握り、朝日に輝く森の出口を見つめた。
「その時は、その時ですよ。俺たちのビールが、軍隊の槍より強いことを証明するだけです」
数日後。王都アルバード。
枢機卿の元に、リネットからの最新の報告書と、小さな琥珀色の瓶が届いていた。
『……エルフの森、陥落。ターゲットは、軍隊すら戦意を喪失させる「最強の酒」を完成させました。……枢機卿、この小瓶の液体を飲めば分かります。私たちは、追放してはならない男を敵に回したのです』
震える手で小瓶を開けた枢機卿は、その香りを一嗅ぎしただけで、ガタガタと椅子を鳴らした。
ただの「美味」ではない。この液体には、王国の秩序を根底から腐らせ、民衆を狂信的な快楽へと叩き落とす「力」が宿っている。
「……バカな。……不浄だと? 汚らわしいだと? ……我々が追放したのは、神の雫を操る『魔王』だったというのか……っ!!」
枢機卿の背筋を、見たこともないほどの恐怖が駆け抜けた。もしこの酒が王都に流れ込めば、誰もがワインを捨て、教会を忘れ、ウィルの足元に平伏すだろう。
教会の権威が、ビールという名の黄金の波に飲み込まれようとしていた。
外国のビールだからって一杯1500円は高いと思う今日この頃




