第2話
ガタン、と重い音を立てて馬車の扉が閉まると、先ほどまでの喧騒が嘘のように遠ざかった。
一人になった途端、私は完璧な令嬢の仮面をかなぐり捨て、座席に深く身を沈めた。
「……ぷっ、ははっ! あー、最高!」
こらえきれずに笑い声が漏れる。
惨めに捨てられた令嬢が、馬車の中で一人で笑っているなど、誰が想像するだろう。
(これでようやく、あの窮屈な日々とおさらばできる!)
窓の外を流れていく王都の夜景を眺めながら、私は左腕の腕輪をそっと右手でなでた。
ひんやりとした金属の感触が、肌に心地よい。
長年使い込まれて、表面には無数の細かい傷がついている。だが、それが私にとってはどんな宝石よりも価値があった。
この腕輪は、私が十歳の時に、初めて自分の力だけで作り上げた魔道具だ。
身につける者の魔力を安定させ、集中力を高める効果がある。デザインは見ての通り、地味で飾り気がない。だが、その性能だけは国一番だと自負している。
そう、私の正体は、ただの地味な辺境令嬢ではない。
世間では正体不明とされる、伝説の魔道具職人『エインズ』。
それが、私の本当の姿だ。
「……思い出した」
婚約破棄という強い衝撃が、心の奥底にあった最後の蓋をこじ開けたらしい。
もやがかっていた記憶の断片が、一気につながり、鮮明な映像として脳裏に蘇る。
――私は、かつて『日本』という国で生きていた。
名前は確か、相川莉子。小さな町工場で、精密機械の部品を作ることに人生を捧げた、所謂『ものづくりオタク』だった。寝る間も惜しんで研究に没頭し、新しい技術を生み出すことに至上の喜びを感じていた。
そして、過労の末にあっけなく三十路でその生涯を終え……気がついたら、この剣と魔法の世界に、イライザ・フォン・ベルクシュタインとして生れ落ちていた。
この世界でも、私の『ものづくり』への情熱は変わらなかった。
前世の科学知識と、この世界の魔法。その二つを融合させれば、とんでもないものが生み出せるのではないか?
そう思い立ってから、私は独学で魔道具作りを始めた。最初は失敗の連続だった。魔力の制御がうまくいかず、工房の一部を吹き飛ばしてしまったこともある。両親に固く禁じられてからは、夜中にこっそりと屋敷を抜け出し、森の奥の廃屋で研究を続けた。
そして完成したのが、この腕輪だった。
私の原点であり、最高傑作。
そのうち、正体を隠して『エインズ』の名で売り出した私の魔道具は、その圧倒的な性能から、瞬く間に評判となった。しかし、その才能が皮肉にも王家の耳に入り、私は望まぬ婚約を結ばされることになったのだ。
(王妃教育なんて、地獄の日々だったわ……)
刺繍やダンスの練習よりも、鉄を打つ槌の音を聞いている方がずっと心が安らぐ。
貴族の令息たちの見え透いたお世辞よりも、魔力回路の美しい輝きを見ている方がよほど心が躍る。
だが、それももう終わり。
これからは、誰にも邪魔されず、心ゆくまで魔道具作りに没頭できるのだ。
「まずは、領地の灌漑設備を改良しましょう。それから、新しい魔導ランプの開発も……ああ、やりたいことが多すぎるわ!」
胸の高鳴りを抑えきれない。
私の人生は、今日、この瞬間から、ようやく本当の意味で始まったのだ。
ふと、先ほどの夜会での出来事を思い返す。
アルフォンス殿下やソフィア嬢の顔は、もう霞んで思い出せない。だが、ただ一人。あの『鉄血公爵』の鋭い視線だけが、なぜか脳裏に焼き付いて離れなかった。
(どうして、彼は私の腕輪を……?)
彼の噂は、良いものとは言えない。
冷酷非情。戦場の鬼神。人の心を持たない鉄の男。
そんな彼が、なぜ。
まさか、とは思う。
『エインズ』の作品は、その価値を理解する一部の専門家や武人の間で、高値で取引されている。もしかしたら、彼もその一人で、私の腕輪が『エインズ』の初期作品であることを見抜いた……?
(いや、ありえないわ。こんな地味な令嬢が、あの『エインズ』だなんて、誰も結びつけられないはず)
私は小さく首を振って、馬車の窓から見える月を見上げた。
煌々と輝く満月が、まるで私の新しい門出を祝福してくれているようだった。
もう、誰かのための人生は終わり。
これからは、私の好きなように、私の生きたいように生きていく。
固い決意を胸に、私は故郷であるベルクシュタインの領地へと、心を馳せるのだった。




