喰う部屋【前編】
朝、目を覚ますと――そこは見知らぬ部屋だった。
散らかった床、無造作に脱ぎ捨てられた服の数々。どう見ても、男の人の部屋だ。
ここに来た記憶はない。私は身を起こし、ゆっくりと周囲を見渡した。
窓の外から差し込む光――どうやら、朝のようだ。
外を覗くと、どこにでもありそうな街並みが広がっている。けれど、それは私の知っている街じゃない。
看板に書かれた文字を見る限り、日本ではあるらしい。
ーー私の心は異様なほど冷静だった。
本来ならパニックに陥る状況なのに、この部屋はなぜか、居心地がいい。
とにかく、誰かに連絡を取らなきゃ――
私はポケットに手を入れた。
……スマホは、あった。
安堵の息をつく。だが、すぐに眉をひそめた。
画面に表示されたメッセージの数々は、どれも知らない名前からだった。
「カズくん、昨日は楽しかったね♡」
「また一緒に朝ごはん食べよう?」
「起きたらシャワー使っていいよ〜」
誰だよ、「カズくん」って。
私は「カズ」なんて名前じゃないし、そもそも誰かと朝食を取った覚えもない。
違和感が一気に現実味を帯びる。
私はスマホのロック画面を見た。
そこに表示されていた名前は――
「一ノ瀬 和也」
……は?
呼吸が、一瞬止まった。
これ、私のスマホじゃない。
そのとき――着信が鳴った。
びくりと身体が跳ね、スマホを取り落とす。
だ、だれ……?
恐る恐る画面を見る。そこには、
「宮崎 雄壱」
という名前が表示されていた。
着信音はまだ鳴っている。
私はスマホを拾い、意を決して通話ボタンを押した。
「おっす〜、和也? 今日なんだけどさ、悪い、急に用事できちゃって俺行けなくなっちった。ごめんね〜」
ノリの軽い男性の声が受話器の向こうから響いてきた。
「それでさぁ、明日の――」
「……あの、もしもし?」
私は思わず、その言葉を遮った。
「……あれ? 和也……だよな?」
戸惑いを含んだ声が、受話器の向こうから聞こえてきた。
私は思わず、息を呑む。
けれど、このまま黙っていても、何も始まらない。
「……違います。私は、山中 百合花と申します……その、変に思うかもしれませんが、気がついたら見知らぬ部屋にいて……ポケットを探ったら、この……“和也さん”のスマホが入っていて……」
自分でも何を言っているのか、よくわからなかった。
でも、他に言いようがなかった。
私は、できるだけ落ち着いた声で、必死に状況を説明する。
とはいえ、話せることなんてほとんどない。
それでも。
電話の向こうの男性は、驚くでもなく、笑うでもなく。
先ほどの軽い調子は嘘だったかのように、真剣な空気で、私の話をひとつひとつ丁寧に聞いてくれた。
言葉のない沈黙が、なぜだか、不思議と心を落ち着かせてくれる。
しばらくの沈黙ののち、相手は静かに口を開いた。
「……悪い。ちょっと、混乱してる。百合花さん、って言ったよな?」
「はい……」
震えがちの私の声に、彼の落ち着いた返答が重なる。
それだけで、なぜか少しだけ心がほぐれる気がした。
「とりあえず、落ち着いて聞いてくれ。“一ノ瀬和也”ってのは、俺の友達。昨日の夜、一緒に飲んでたんだ。酔い潰れたから、家まで送って行ったんだけど……ちょっと心配になってさ。それで、電話してみた」
「……昨日?」
私は眉をひそめた。
「すみません。私……昨日の記憶が、ほとんどなくて。気がついたらこの部屋にいて、知らないスマホを持ってて……」
「うん、わかった。じゃあ、その部屋ってどういうとこ? 何か手がかり、ありそう?」
私はもう一度、部屋を見回した。
カーテン越しに差す朝日が、散らかった部屋の輪郭を照らし出す。脱ぎ捨てられた服、転がった缶ビール。生活感はあるのに、どこか現実味がない。
そのとき、棚の上に無造作に置かれたカードが目に留まった。
「……“デルタリンクシステム株式会社”。社員証みたいです。名前はやっぱり、“和也さん”」
「それだ。そこ、たぶんカズの部屋だな」
電話越しに、宮崎さんがほっと息をつく。
「なら、話が早い。悪いけど、そこの住所わかるか? 俺、今からそっちに向かう」
「……え?」
私は思わず声を上げていた。
「待ってください。私、あなたのことも、和也さんのことも知らないんです。そんな状態で、勝手に来られても……その、正直ちょっと……」
「……ああ、そうだよな。怖いよな、こんな状況で」
彼の声が、少しだけ苦く笑った。でもそれは茶化しではなく、申し訳なさそうな響きだった。
「なら、こうしようか。玄関前まで行って、チャイムを鳴らすだけにする。顔を見なくてもいい。すぐそばに誰かがいるってだけで、少しは安心できるかもしれない」
私は……迷った。
でも、この部屋に一人でいることの異様さに、耐えきれなかった。
「……わかりました。住所、確認してみます」
私はスマホを手に、立ち上がった。
重たい空気の部屋の扉を開ける。外の光が、少しだけ背中を押してくれる。
廊下は短く、左手にユニットバス。奥には簡易的なキッチン。
典型的な、一人暮らし用のワンルーム。
玄関の隣には郵便受けと姿見。ドアスコープを覗いても、当然ながら誰もいない。ただの、白く静かな廊下が続いているだけ。
私は郵便受けを覗いた。数通の手紙が届いている。
「あっ……これなら……」
「何か見つかった?」
「はい。郵便物に住所が……」
「ナイス。じゃあ、そこに書いてある住所、教えて」
私は封筒を一通取り出し、そこに記載された住所を読み上げる。
「住所は……」
……その瞬間だった。
何かが、ふっと引っかかった。
何だろう、この違和感。
胸の奥に、さっきまでなかった“ざらつき”が浮かび上がる。
私は、何か……何かを、見落としている?
「……もしもし? 百合花さん? 大丈夫?」
電話越しに、宮崎さんの声が聞こえる。
そう、“和也さん”の友人。昨日、一緒に飲みに行ったと言っていた。
――一緒に、飲みに?
私は、言葉の奥に引っかかった。
“酔い潰れた和也を、宮崎さんが家まで送った”
……だったら――
どうして私に住所を聞いてくるの?
まるで、底の抜けた水槽のように、思考が一気に流れ出していく。
頭が、ふらりと揺れた。
「……ねぇ、宮崎さん。ひとつ、聞いていいですか?」
言葉を紡ぎながら、自分の鼓動が早くなるのを感じていた。
「昨日、酔い潰れたから和也さんを家まで送ったんですよね?」
「うん。送ったよ」
「じゃあどうして私に住所を聞くんですか?」
――沈黙。
電話の向こうの宮崎さんは、何も言わなかった。
部屋の中には、かすかな冷蔵庫の唸りと、私の呼吸音だけが響いていた。
やがて、受話器の向こうから、聞こえてきたのはーー
「ははははははははははははははははは!!!!」
……その笑い声は、狂ったように響いた。
思わずスマホを耳から離す。
それは“宮崎さんの声”ではなかった。
不自然なまでに長く、甲高く、そしてなぜか“女”の声だった。
「っ――!?」
悲鳴が漏れた。
震える手から滑り落ちたスマホが床に落ち、スピーカーモードのまま、笑い声を部屋中に響かせる。
気が狂いそうなほどの音量で、あの“声”が部屋を満たしていく。
「もう……もうやめて!!!!」
懇願するように叫ぶと、
その声に応じるかのように、笑いは――ピタリと止まった。
……静寂。
呼吸が乱れる。喉の奥で、心臓が“ドクン、ドクン”と打ちつける。
部屋の空気が凍りついたように感じた。
さっきまで響いていたあの笑い声――あれは誰だったのか。
本当に、さっきまで話していた“宮崎雄壱”だったのか……?
私は震える手でスマホを拾い上げ、画面を確認した。
……通話は、終わっていた。
いや――違う。
最初から“通話自体が存在していなかった”のだ。
通話履歴を開く。
そこには何も残っていない。まっさらで、最新の履歴すら存在していなかった。
「……うそ……っ」
声が震える。
手のひらが汗でじっとりと濡れているのに気づいた。
――さっきまで話していた会話は?
あの笑い声は?
スマホのスピーカーから流れた、あの“異常な女の声”は……?
私の中に、じわじわと染み込んでいく。
“これは……現実なのか?”
「そっ、そんなことより……早く、ここから出ないと……!」
先ほどまで“居心地がいい”と感じていた部屋は、今や異様な気配に満ちた、息の詰まる空間へと変貌していた。
ここに長くいてはいけない――そう、直感が告げていた。
私は足早に玄関へ向かう。
靴などあるはずがない、そう思っていた。だが――そこには、確かに自分の履いていた靴が並べられていた。
けれど、今は考えている余裕なんてない。
迷わず靴を履き、ドアノブに手をかけて、力を込めて回す。
……回る。なのに、開かない。
「……あれっ? 開かない? どうして……?」
鍵は開いている。チェーンロックもかかっていない。
なのに、ドアはびくともしない。まるで、ただの“ノブ付きの壁”のように。
「どうして……開かないの!? 誰かっ、誰か!!」
私は必死にドアを叩いた。
拳が痛むほどに叩き、叫ぶ。
「誰かぁっ!! お願いっ! 助けてぇ!!」
声が虚しく廊下に吸い込まれていく。
返ってくるのは、何の反応もない、静寂だけだった。