第2話:理屈の鍋、勘の匙
「なんだこれは。こいつ、妙にやわらけぇな。どうやって煮た?」
鍋を覗き込んだヨナスが、すくったにんじんを噛みしめながら言った。
見た目はただの野菜スープだ。けれど、口にすればやさしい甘みと香りが、ほんの少しだけ広がる。
「塩を入れるのは遅らせたんだ。先に炒めて、旨みを中に閉じ込めてから、弱火でじっくり煮る。きのこを少し混ぜて、香りに奥行きをつけたよ」
「……ふん、うまい」
ヨナスは黙ってもう一口、汁をすする。表情には出さないが、さっきより少し長く味わっていた。
「昔、似たようなもんは作れたことがある。けど、こんなふうに柔らかくなかったし、香りが立った記憶はねえな」
「火加減の問題かも。あと、鍋の材質や蓋の重さでも違う」
「理屈ばっかりだな、坊ちゃんは」
ヨナスが口の端を上げた。
「でも、理屈って知ってると便利だよ。失敗の理由がすぐわかる」
「失敗しねえつもりか」
「しないよ。多少の調整ミスはあっても、食べられないものは作らない」
「……へぇ」
どうやらヨナスの興味を引いたらしい。
ボクは調理台の隅に置いてあった使い古しのスープ鍋に目をやった。
「これ、毎日使ってるの?」
「そうだ。朝にまとめて煮て、夕方まで保温。出す時に温め直す」
「水、継ぎ足してる?」
「残った分にはな。無駄にはできねぇからな」
「……うん、味がにごるはずだ」
ヨナスが眉をひそめる。
「そうか? それが“うちの味”ってもんじゃねえのか」
「そこが問題だと思う」
ボクは鍋の底に残った焦げ付きを、木べらでそっとなぞった。
「食べ慣れた味って、安心感はあるけど、変わらない。変えられない。新しい味が入る余地がなくなるんだ」
「けどな、新しい味ってのは、知らねえから怖いんだよ。食い慣れたもんに勝てる保証がねえ」
「勝つ必要なんてないよ。並べばいい。スープを二つ置く。一つは知ってる味、もう一つは知らない味。そこから、選ばせればいい」
ヨナスは何も言わなかった。だが、指先は無意識に湯気を追っていた。
「坊ちゃんよ。パンを、主食を変えるってのは、そう簡単なことじゃねえ。けど……スープのほうが、副の方が、かえって根が深えんじゃねえか」
「そう思ってる。主食が変われば、副も変わる。むしろ変わらなきゃ、食事がちぐはぐになる」
「だとしたら、お前はまた面倒なもんに手を出したな」
「そう? ボクにとっては、面白い挑戦だよ」
午後になると、ヨナスはいつもの仕込みを始めた。
ボクは手伝わせてもらいながら、彼の手つきを観察する。
根菜の皮をむく速さ、包丁の角度、煮干しを手で裂く動作。
どれも“慣れた仕事”の連続だが、意外と粗がある。
「これ、下茹でしないの?」
「しねえ。煮てるうちに火が通る」
「でも、最初にアクを抜いた方が、仕上がりの風味は軽くなる」
「アクも味のうちだ」
ヨナスはそう言ったが、その言葉には揺れがあった。
きっと昔は、もっと丁寧だったのかもしれない。
けれど、客足が減り、手間と材料を削るうちに、慣れだけが残っていった――そんな気がした。
「ねえ、ヨナス。汁のうまさって、ひとつじゃないんだ」
「は?」
「複数を組み合わせると、味に広がりが出る。きのこと干し魚、それに野菜を重ねると、層になる」
「……坊ちゃん。お前、もしかして味をそうやって混ぜようってのか?」
「うん。混ぜて、重ねて、積んで、組み合わせて……最後に香りで整える」
ヨナスは鼻を鳴らした。
「やっぱり理屈だな。だが、少し面白いかもな」
その日最後のスープは、二人でつくった。
ベースはヨナスの作る伝統の汁。そこに干した魚の旨みが利かせている。
そこに、ボクが選んだ干しきのこと、じっくり炒めた玉ねぎを加えた。
火加減は弱く、決して沸かさない。
塩は最後に、ごく少量だけ。胡椒は使わない。
味見をするヨナスの動きが、いつになく慎重だった。
「……うん。こいつは悪くねえ」
「パンと合わせてみようか」
ヨナスの目が、一瞬だけ鋭くなった。
「パンと……か。本当に合うものなのか」
「パンだけじゃない。他とだって合わせられるさ」
そう言って、ボクはパンを千切ってスープに浸した。
柔らかな白い中身が、出汁を吸い、しっとりとした香りを纏う。
口に運ぶと、柔らかな甘みと、魚の旨みがふわっと広がった。
「……おいしい。これは、いけるね」
「……なるほど。確かにありだな」
ヨナスは笑わなかった。でも、声に重みがあった。
「坊ちゃん、火は俺が見る。お前は、上に積め」
「うん。お願い。そしてボクにできることは、まだまだある」
鍋の蓋が、かちりと閉まった音がした。
翌朝、ヨナスは言った。
「今日からスープは二種類だ。一つはいつもの。もう一つは、変わり種」
「いい判断だね」
「客がどう言うかは分からん。だが、口を開かせるだけのもんにはなってる」
厨房の火が、ぱちりと音を立てた。
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