第1話:空の器を覗いた日
2章始まります。
パンが変われば、食卓が変わる。
それを実感してから、もうしばらくが経っていた。
「アル様、例の村からの報告書が届いております。“パンの製法、安定しました”とのことです」
カールが机に広げた文書には、クレマン領内の村々からの知らせが整然と並んでいた。
“奇跡のパン”――あのふかふかで柔らかいパンは、今や領内のあちこちで当たり前のように焼かれている。
誰かの贅沢ではなく、みんなの日常になりつつある。
ボクは報告書を一通り目で追ってから、ふっと息をついた。
「パンは、もう“革命”じゃなくて“日常”だね」
次は何を変えるか。それを考えながら、窓の外に視線を向ける。
街の空気を、歩いて感じてみたくなった。
「行ってくるよ。街の様子を見たいだけ」
「坊ちゃん、お供は――」
「いらない。今日は、ひとりで歩きたいし。こっそりと行くよ」
石畳の街路には、朝の光が反射していた。
パン屋の前には小さな行列ができていて、店の奥から焼きたての香りが漏れてくる。
誰かがパンをちぎり、誰かが頬張り、誰かが「うまいな」と笑っていた。
そこまでは、ボクの描いた未来の通り。
けれどその隣に並ぶ食べ物を見れば――干し肉、焦げた根菜、妙に塩気の強いスープ。
「やっぱり、“隣の器”がまだ空っぽだ」
食卓にパンが並ぶようになった今、次に必要なのは、それと並んで人を支える何か。
温かくて、香りが立って、飲めばほっとするもの。
つまり――スープだ。
パンを片手に、スープをすくう。
その光景をこの世界に定着させること。それが、ボクの次の仕事になる気がしていた。
市場の裏手に差しかかると、香ばしい匂いが鼻先をくすぐった。
焼いた魚の匂い。けれど、少し焦げている。
木の看板には、うっすらと「食」の字。色褪せた暖簾が風に揺れている。
「……定食屋?」
「皆には言ってる。魚と汁と、あとは根菜。腹は膨れるさ」
店先にいた男が、煙草をふかしながら答えた。
色褪せたエプロンに、くたびれた顔。腕は太く、手は荒れている。
「パンは?」
「出してねえよ。パンに合う料理なんざ知らんしな。……まさか、あの“柔らかいパン”を流行らせたっていう、子爵家の若様じゃねえだろうな?」
ボクは笑いながら頷いた。
「うん、たぶん、それ、ボクのこと」
「……マジか」
男が一瞬煙草を取り落としかけた。
「あ、ええと……坊っちゃま、あの……本日は、ようこそ……いや、違うな、ご光臨……」
「ふふっ。いいよ、そのままで」
敬語がぐちゃぐちゃになっていて、思わず笑ってしまった。
「ボクが“食べたい”と思って来たんだ。気を遣われたら、味が変わっちゃう」
「……坊っちゃんてのは、変わり者なんだな」
男は煙草を消し、ふと息をついてから言った。
「名乗るのが遅れたな。俺はヨナス。定食屋の親父やってる」
「スープって、ただの塩湯じゃないんだよ」
ボクがそう言うと、ヨナスは眉をひそめた。
「火と時間と素材の重ね方で、いくらでも味が変わる。香りも、食感も」
「……理屈は分かった。けど、味は理屈じゃねえだろ」
「理屈だけじゃダメ。でも、知らずに煮ても味は出ない」
厨房を見せてほしいと頼むと、ヨナスは一拍おいてから「好きにしな」と言った。
くたびれた鍋、干された根菜、固まった塩。整ってはいるが、工夫はない。
「なるほど。伝統的ではあるけど、可能性が眠ってる」
「ほう?」
「ちょっと試してみてもいい?」
店の隅にある小鍋で、ボクはスープを煮始めた。
玉ねぎとにんじん、それに干しきのこ。
あとは水と、ほんの少しの塩だけ。
コトコトと火にかけ、香りが立ち上った瞬間、ヨナスの眉がピクリと動いた。
「……悪くない匂いだな」
「でしょ?」
「味は?」
「飲んでみて」
ヨナスが木の匙ですくい、一口だけ飲んだ。
「……うまいな。やさしい味だ」
「でも、それだけじゃ、お客は来ないよね」
「……まあな」
ボクは微笑んだ。
「だから、合わせるんだよ。パンと。……奇跡のパンに合うスープ。きっと、それが次の一歩になる」
ヨナスはしばらく黙っていたが、最後にぽつりとつぶやいた。
「やれやれ、領主様のお坊ちゃんに付き合う羽目になるとはな……」
でも、その声は、どこか嬉しそうだった。
いかがでしたでしょうか?
パンといえばスープということで、今章はスープを中心としたお話です。
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