第5話:広がる奇跡のパン
クレマン子爵家から南へ馬車で半日ほど。なだらかな麦畑の丘を越えた先に、その村はあった。
大きな水車と、小さな市場があるだけの、素朴で静かな村。でも、この領地では比較的人が多く、職人や商人も住む、地域の中心的な場所だ。
今日は、そこにあるパン屋で“試み”を行うことになっていた。
もちろん、勝手に押しかけたわけじゃない。
まずボクは、ガストンと一緒に村長のもとを訪れた。
「そのような新しいパンが、坊……いえ、アルフォンス様の指導で、クレマン家の厨房にて……?」
初老の村長は、驚きと戸惑いを混ぜた声でそう言った。
「うん。僕の言うことをそのまま信じなくてもいいけど、ガストンが焼いたパンを見れば、きっと納得してもらえると思うよ」
「ふむ……では、村のパン屋をお使いいただいて構いません。トラヴィスの店なら、設備も人手も揃っておりますので」
「ありがとう。じゃあ、さっそく――」
「……くれぐれも、お身体に気をつけて。長旅の疲れが出ぬように……」
うん、そういう扱いをされるのにも、少し慣れてきた。
ボクは領主の息子。クレマン家の跡継ぎ。だからこそ、言葉も振る舞いも丁寧にされる。
でも、それでもやっぱり、パンを焼くのは“みんな”の手であってほしいと思うんだ。
村のパン屋〈麦の環〉は、煙突からうっすらと白い煙を上げていた。
石造りの大きな窯、粉まみれの作業台、そして口数の少なそうな店主――トラヴィス。
「こ、子爵家のご子息が……厨房へ……? お、おそれ多い……!」
「そんなに緊張しなくて大丈夫だよ。今日は、パンの“試し焼き”をお願いしに来ただけだから」
ボクは、厨房に持ち込んだ小麦粉の袋と、配合をメモした紙を差し出す。
「火加減、捏ね、発酵。それだけで、パンは驚くほど変わるんだ。やってみよう、ガストン」
「はっ。では、まずはお手本から参りましょう」
ガストンの動きに、村の職人たちが目を見開く。
水の量、捏ねる手つき、温度の調整。ひとつひとつの所作が丁寧で、余計な力がない。
そして窯へ入れる直前、表面にひと塗りのバター。
「おいおい、焼く前に油を……?」
「香ばしく焼きあげるためだよ。火加減も大事だけど、蒸気と艶が味に関わるんだ」
もちろん“前世の知識”とは言えない。いつものように、夢で見たと言っておく。
ガストンももう慣れたもので、深くは追及しない。
焼きあがったパンを一口食べた瞬間、村の職人たちは目を見開いた。
「……これは、本当にパンですか?」
「うん。“本当のパン”だよ」
トラヴィスは、何も言わずに二口、三口と口に運び、やがて深いため息を漏らした。
「……信じられねえ……あの粉と水で、こんなに……」
「やってみれば、できるよ」
「でも、こんな細かい調整、俺たちには……」
「大丈夫。練習すれば、できるようになるよ」
その日から、ガストンの指導が始まった。
「捏ね方が荒い。生地を潰してどうする!」
「指先じゃなく、手のひら全体で! そうそう、包み込むように!」
「火加減は強ければいいってもんじゃない。香ばしさを引き出すには“待つ”ことも大事です!」
普段は寡黙な村の職人たちも、最初こそ戸惑っていたけれど――
焼き上がったパンの出来に、自分の手で触れ、香りを嗅ぎ、食べてみた瞬間――その目が変わった。
「……こんなパンが、自分の窯で焼けるなんて……」
「うちのじいちゃんの代から、パンは“硬いほど偉い”って言ってたけど……あれ、嘘だったのか……」
そうだよ。美味しくないことに、理由なんかいらないんだ。
「変えたい」って思ったその瞬間から、誰でも変われる。
ボクはそのことを、ずっと伝えたかった。
数日後。
〈麦の環〉の店先には、新しく焼きあがったパンが並べられていた。
見た目は変わらない。けれど、香りがまるで違う。ほんのりと甘く、皮はパリッと。まるで誰かが魔法をかけたようなパンだった。
「……お? いつもと違うな、このパン」
「なんか、柔らかくて甘い? いや、香ばしい?」
最初は戸惑っていた村人たちが、ひとつ、またひとつとパンを買っていく。
そして、少しずつ、でも確実に、その評判が広がっていった。
「やったね」
「ふふ……焼きあがったのはパンですが、わしの心もまた、焼き直されたようです」
「またうまいこと言うね」
ボクは笑いながら、村の広場を見渡す。
ここから広がっていく。村から村へ、町へ、国へ。
焼き立てのパンの香りと一緒に、ボクの“ちいさな革命”が。
夜、クレマン家の厨房を覗くと、ガストンが新しいレシピ帳を前にして呟いた。
「……次は、保存方法、か。村だと日持ちも大事になる……うーむ......」
伝えるって、簡単じゃない。けれど、ボクとガストンなら、きっとやれる。
“本物のパン”が、この領地の“当たり前”になる日も、そう遠くないかもね。
香ばしい余韻を胸に、ボクはそっと笑った。
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