第4話:変わりゆく食卓
朝の食卓が、前よりもずっと明るくなった気がする。
食器の配置も料理の見た目も、以前とそれほど変わったわけじゃない。けれど、父さんと母さんの顔が、どこか柔らかくなっていた。
それがなにより嬉しかった。
「このパン、昨日よりさらに香ばしいわね。焼き加減、変えたの?」
母さんがにっこりと笑いながら、パンをちぎって口に運んだ。
「うん。ちょっとだけ温度を調整してみたんだ。表面にバターも塗ってるから、香りも強くなってるはずだよ」
「ええ、そうね、なんだかほんのり甘い気がするわ」
母さんの感想はいつも素直だ。料理を作る側として、これほどありがたい評価はない。
父さんはと言えば――やっぱり無言。
けれど、噛む回数が明らかに増えている。それは“味わってる”という証拠だ。
ちょっと前までの父さんは、食事は「栄養の補給」でしかなかった。味なんて二の次、黙々と流し込むだけ。それが今は、一口ごとに確かめるように咀嚼している。
いい傾向だ。
言葉にしなくても、ちゃんと伝わってるって、こういうことだと思う。
「アル坊っちゃん、今日も朝から厨房ですか」
厨房に入ると、料理人のひとりがもう自然に挨拶してきた。
最初は不審そうに見られていたけれど、最近はもう完全に「いつもの光景」になっている。
厨房の空気も変わった。
以前は淡々と作業をこなすだけだった料理人たちが、今はそれぞれの作業に熱が入っている。パンだけじゃない。野菜の下処理やスープの味も、少しずつ工夫され始めている。
「これは、昨日の分より水分量を増やしてみた生地だよ。柔らかさがどう変わるか見てみよう」
「なるほど……見た目にも、艶が出ておりますな」
ガストン料理長も、今では試作のたびに目を輝かせるようになった。
最初の頃の「また何か始めるつもりか」って顔が懐かしいくらいだ。
「ガストンの包丁さばき、ちょっと変わったよね」
「おや、気づかれましたか。どうせやるなら、切り口も美しく、と思いましてな」
「うんうん、それ大事。見た目だけじゃなく、食感も変わるから」
「……坊っちゃん、最初は正直“お遊び”だと思っておりましたが……最近は、わしのほうが学ばせてもらっているような気がしますよ」
「それ、お世辞じゃないなら嬉しいな」
厨房の片隅で、料理人たちがくすくす笑っている。雰囲気まで、ほんの少しずつ柔らかくなってきた。
パン一つで、ここまで変わるとはね。
その夜の食卓では、さらにちょっとした変化があった。
「ソフィア、今夜のスープ……味が良くなったと思わないか?」
「うん、思った。野菜の香りが立ってて、なんだか優しい味」
「ガストンが煮込み時間を調整したらしいよ。あとは、香草も変えたって」
父さんと母さんが、自分から食事の感想を言ってくるようになった。
この世界では、食事は貴族の“義務”だった。栄養を取り、場を整えるための形式。味に対する興味や感想なんて、あまり重要じゃない。
けれど、今は違う。
口に入れて、噛んで、考える。語る。
当たり前のようで、ずっとなかった当たり前。
「アル、厨房で何をしてるのかと思ってたけど……最近のご飯、楽しみになってきたわ」
「それならよかった!」
母さんの言葉に、思わず笑みがこぼれる。
「おまえがやってること、最初は理解できなかった。だが……悪くないな」
父さんなりの、最大級の賛辞だ。
「ガストン、今日のパン、焼きのタイミングが完璧だったね」
「ええ、あれは坊っちゃんの指示通り、秒単位で確認しましたからな。いやはや……料理というものが、ここまで緻密であるとは」
「でも、それが全部正解じゃないんだよね。次に試してみたいのは、蒸気を使う方法なんだけど……」
「蒸気、ですか……?」
「うん。焼く前に、水を入れたトレイを窯の中に入れる。そうすると、表面が乾くのを防げて、もっとふっくら焼けるらしいよ。夢で見たんだ」
「夢……」
「すごい夢だったんだ。神様がパンを蒸してた」
「……もはや夢なのか幻覚なのか……」
「うーん、啓示かな」
ガストンは苦笑しながらも、もう驚かなくなっていた。
パンが美味しくなれば、理由なんてなんでもいい。
少しずつ、でも確実に。
ボクの“ちいさな革命”は、この家の中に浸透し始めている。
食卓が明るくなり、家族の会話が増え、料理人たちが笑いながら仕事をするようになった。
ガストンは、今やボクの最初の仲間であり、最大の助っ人だ。
料理のことなら何でも任せられるし、何より――彼はもう、ボクを「子供」じゃなく「仲間」として見てくれている。
それが、何より誇らしかった。
「ねえガストン、このパン……領民にも食べさせてあげたいと思わない?」
「……領民に、ですか」
「うん。せっかくの小麦の名産地だよ。僕らだけで美味しくしてるなんて、もったいないじゃん」
ガストンは、しばらく黙って考え込んでいたが、やがて――
「……悪くない、かもしれませんな」
と、静かに頷いた。
ボクはふと窓の外を見る。
広がる麦畑。その先に続く村々の風景。
次は、あそこだ。
「クレマン家のパンを、領民に――だね」
にやりと笑ったその瞬間、また一つ、パンの香りが広がった。
いかがでしたでしょうか?
評価、コメント、感想など励みになります。
いただけたら嬉しいです!