第10話:届け、ラー麺の香り
昼の一番の波が過ぎたラージスの店は、ようやく静けさを取り戻していた。
汗だくになって客をさばいていたレイチェルが椅子にどさっと腰を下ろし、ふぅーっと息を吐く。
「お腹は減ってないのに、めちゃくちゃお腹すいた気分……」
そんなわけのわからないことを言いながら、袖で額の汗をぬぐう。
厨房の湯気はすっかり薄れ、空気のなかには干し魚の出汁と焦がし油の香りだけが、ふんわりと名残を残していた。
ボクは厨房の奥に腰掛けて、開いた帳面に今日の記録をつけていた。
丼の数、麺の消費、スープの鍋数。どれも少しずつ増えていて、確かに“広がっている”ことを数字が教えてくれる。
でも、それ以上に――
「ねぇ、アル様ー、さっきのおばあちゃん、帰り際に“また来るね”って」
「うん、聞こえてた。嬉しかったね」
「うん。今日来てた人、ほとんど『美味しかった』って言ってた。声に出さない人でも、顔がね、すごく……幸せそうだった!」
レイチェルの声は弾んでいて、目も頬もきらきらしている。
その姿を見ていると、こっちまで胸が温かくなってくる。
以前に、ガストンにも言ったことがあった。
『料理って、誰かの笑顔を作れるものなんだと思う』って。
それはきっと、こういう瞬間のことを言うんだろう。
「なぁ、坊ちゃんよ」
鍋の前で手を止めていたラージスが、低くボクを呼んだ。
振り返ると、ラージスは火の落ちた竈を見つめたまま、背筋をゆるめずに立っていた。
「ありがたいことに、まだまだ続けられそうだぜ、この店も、この麺も」
その言葉に、ボクは帳面を閉じた。
この数日間、朝から晩まで厨房に立ち、仕込みと試作と営業と……いろんなことを重ねてきた。
でも、いちばん変わったのは、きっとラージス自身だっだと思う。
「うん。間違いないよ。……これから、もっと色んな人が来ると思う」
ラージスはそれに何も言わなかった。ただ、視線を火床に落としながら、ゆっくりと腰を下ろす。
「おじいちゃん」
レイチェルがぽつりと呟く。
「最近、おじいちゃんの顔がすごく……優しくなった気がする」
「そうか?」
「うん。なんかね、ちょっと前まで“お堅い職人”って感じだったのに、今は“料理屋の店長”って顔してる」
ラージスは苦笑しながら、鼻を鳴らした。
「ガキが何をわかった風に……」
「ガキじゃないもん!」
二人のやりとりに、ボクも思わず笑ってしまう。
「でも、レイチェルの言ってること、合ってると思う」
「おいおい……」
「だって、料理って誰かに食べてもらって、笑ってもらって……それで、ようやく“完成”だと思うんだ。職人が手を動かすだけじゃなくて、味が人に届いて、初めて“料理”になる」
ラージスがしばらく黙ったまま、遠くを見るように鍋の蓋を撫でた。
「……昔は、そういうの考えたこともなかったな。味がどうとか、香りがどうとか……客にどう見られるか、なんてな」
「でも、今は違う?」
「今は……うん、少しはな」
ラージスの声が少しだけ低く、でも確かな響きを持っていた。
それは、言葉じゃなく背中で感じるような、そんな重みのある言葉だった。
そのとき、戸の向こうから人影が差した。
からん、と鈴の音が鳴る。
「いらっしゃいませー!」
レイチェルがすっと立ち上がり、声を張る。
見ると、昼の波を過ぎたというのに、ふたり連れの客が入ってきた。まだまだ、ラー麺の波は終わっていない。
「おじいちゃん、準備して!」
「……あいよ」
ラージスはゆっくりと腰を上げると、竈に手を伸ばし、薪を二本火床にくべた。
火はすぐに燃え上がり、鍋の底をゆらゆらと揺らしていく。
静かに、音を立てて湯が踊り出す。
湯気がふわりと上がり、再び厨房に命が戻る。
ラージスの手が、自然といつもの動きを始めた。
麺を計り、茹で湯に入れる。
スープをすくい、香味油をそっと垂らす。
そのすべてが、もう“迷い”のないものになっていた。
「……香りが、道案内になるって、誰かが言ってたな」
「レイチェルが言ってたよ。今日の客のひとりが言ってたんだって」
「ま、あながち間違いじゃねぇな」
ボクは小さく頷いた。
「うん。だって、本当にそうだったから。町の通りまで香りが広がって、気づいた人が足を止めて、店の中に入って……そして、笑顔になる」
香りが、心を動かす。
味が、記憶に残る。
器一つが、人生の中の小さな光になる。
ボクはそのことを、この店で、ようやく“現実”として見ることができた。
レイチェルが、湯気の中で嬉しそうに叫ぶ。
「アル様っ、ねえ! さっきの人、また来てくれるって!」
「うん。どんどん、もっと広げよう。ラー麺の香りを、もっと遠くへ」
「うん!」
ラージスは、麺を湯から上げながら、短く呟いた。
「香りだけじゃねぇ。……味も、記憶になる」
そう言って、ふっと湯気の奥で目を細める。
その表情は、もう昔の“頑固な職人”じゃなかった。
ボクはそっと帳面を閉じた。
この味は、もう“誰かに伝えるべきもの”になった。
それを作ったのはラージスであり、レイチェルであり――ボクたち全員だった。
湯気の立ちこめる厨房の片隅で、ボクは静かに空を見上げた。
天井の隙間から差す光のなかに、ほんの少しだけ、焦がし油と出汁の香りが混ざっている気がした。
それは、町のどこかで誰かがまたこの香りを嗅いで、歩を止める気配だった。
「届け、この香り……」
そんなふうに呟いたとき、のれんが小さく揺れた。
外からの風が、次の客を運んでくる合図のように。
ラージスは、鍋にそっと火をくべ直した。
そうしてまた、新しい一杯が生まれようとしていた。
読んでいただきありがとうございます!
これにて4章完結です!
結構難産でした......ちょっと仕事忙しいので5章は少し間が開きます。
間に番外編1本挟む予定です。
是非1章からの読み返しと、別連載の異世界スーパーもご覧いただきつつお待ちください!
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