第9話:湯気と笑顔と第一声
朝の光が、ラージスの店の軒先をまっすぐに照らしていた。
まだ日も高くない時間だというのに、店の前には少し人だかりができている。
中には、昨日の仕込みの匂いを嗅ぎつけて来た者もいれば、偶然通りかかっただけの者もいる。
「……まさか並ぶなんて、思ってなかったな」
ボクは道の向こう側から、その光景を見ながら呟いた。
緊張で顔をこわばらせながらのれんを手にしたラージスが、深く息を吸い込んで――
のれんが、掲げられた。
その瞬間、厨房に湯気のような熱気が走った。
「いらっしゃいませー!」
レイチェルが明るい声を響かせながら、最初の客を席に案内する。
ラージスは眉間に皺を寄せながらも、鍋の前に立った。
一番最初の椀に、気合いを込めて麺を茹でる。
塩加減、茹で時間、湯切りの仕方、スープを注ぐ順番――どれも、何度も練習した通りに。
けれど、今朝のそれは、昨日までのどれよりも滑らかで、無駄がなかった。
丼がカウンターに置かれる。
湯気が立ちのぼる。
「……ん?」
箸を手にした初老の客が、眉を上げた。
見慣れない形の麺、濃い琥珀色のスープ、その上に浮かぶ香味油と刻み葱。
そして、ひと口――
「……な、なんだこれ、うまい!」
その声に、厨房の空気がぴくりと震えた。
「美味しいって、おじいちゃん!」
レイチェルが嬉しそうに振り返る。
「うるせぇ。まだ一人目だ」
ラージスはそう言いながら、すでに二杯目の麺を湯に入れていた。
次の客も、その次の客も、みんな最初は戸惑うように丼を見つめる。
でも、ひと口すすると、顔がほころび、次の一口へと進んでいく。
「これ、煮込みじゃねぇのに、芯まで味が染みてるな……」
「スープの香りが、こんなに立つとは……」
「麺が……細いのに、食べると旨味が口いっぱいに広がる!」
ひとつ、またひとつ、驚きの声が重なる。
店内がその声と香りと湯気で満たされていく。
ボクは厨房の奥で、何も言わずにそれを見ていた。
帳面を閉じ、ただ黙って、目の前の景色を焼きつける。
「アル様っ、これほんとすごいよ! お客さん、みんな笑ってる!」
レイチェルが、満席の店内を見渡して声をあげる。
額には汗がにじんでいるのに、その目はまっすぐで、嬉しそうに輝いていた。
「本当にすごい! こんな光景、はじめて見た!」
うん、それが聞きたかった。
誰かが“美味しい”って言って、誰かが“また来たい”って思って、誰かが“もっと作りたい”って思う。
その連鎖が、料理の力だ。
開店から小一時間が経ったころ、店の外に並ぶ人の列は途切れなくなっていた。
ラージスは休まずに鍋の前を守り、レイチェルは満席の店内を駆け回る。
客たちは、夢中で箸を動かしながら、その味に没頭していた。
「ねぇ、おじいちゃん」
ふいに、レイチェルが立ち止まって、カウンターの向こうのラージスに呼びかけた。
「これ……"ラー麺"の力だよ!」
ラージスは、少しだけ目を細めた。
けれど言葉は返さない。ただ、軽く顎を引いて、次の麺を湯の中へ。
その背中が、すべてを語っていた。
厨房の奥で、ボクは静かに頷いた。
ああ、これはもう始まってる。
もう誰にも止められない、麺の香りと湯気が織りなす、新しい流れが。
店の片隅で、のれんがほんの少しだけ揺れた。
湯気に押されるように、そっと。
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