第7話:のれんに込めるもの
朝の厨房には、昨日と違う静けさがあった。
スープの香りは控えめ。麺を打つ音もしない。
早朝の光が窓から差し込むだけで、道具たちもまだ眠っているようだった。
ラージスは、長年使い込んだ包丁を研いでいた。
ゆっくりと、石に刃を滑らせる音が、静けさの中で心地よく響いている。
ボクは帳面を開いたまま、椅子に座って試作の記録を整理していた。
ふいに、ラージスが声を発した。
「なぁ……これ、客に出すとして、なんて呼べばいいんだ?」
その問いは、ずっと向き合わずにいたものだった。
味は仕上がった。スープも麺も、“今の味”になった。
けれど、それをどう伝えるか――そこまでは考えていなかった。
「料理の名前、確かにね」
「ああ。これ、いつもの煮込み麺とも違ぇし。けど……“新しい麺”なんて単純な名前ってのも流石にな」
確かに、そのまま説明すれば通じなくもない。
でも、それじゃ印象に残らない。
ボクは、帳面を閉じて言った。
「料理って、味だけじゃなくて、“言葉”でも覚えるものだと思うんだよね」
「言葉、ねぇ」
「パンのときもそうだった。“奇跡のパン”って呼ばれたからこそ、みんなが興味を持ってくれた。味を伝える前に、言葉が人の心に入ると思うんだ」
ラージスは包丁を拭きながら、ふんと鼻を鳴らした。
「俺は昔から、味だけで勝負してきたつもりだったがな」
「うん。でも、それで伝わるなら、今こうして悩まないはずじゃない?」
少しの沈黙。
ラージスの手が止まったまま、しばらく天井を仰ぐ。
「……確かにな」
その一言に、ボクは肩の力が抜けた。
名前をつけることに意味を見出してくれるとは思っていなかった。
前の知識をもとにすれば、もちろんボクは適切な名前を伝えることはできるけど、それはやはりラージスたちが考えるべきだ。
そこへ、レイチェルがやってきた。
「おじいちゃん、朝から真面目な話してる?」
「うるせぇ」
「ふふっ。ねえ、名前ってことでしょ? わたし、ちょっと思いついちゃったんだけど」
ボクとラージスが揃って顔を向ける。
レイチェルは頬を指でつつきながら、はにかんで言った。
「おじいちゃんの麺だから、“ラージスの麺”って言ったら、略して……“ラー麺”? ……へへ、なんかヘン?」
ラージスは目をぱちくりさせて、口を半開きにした。
「……はぁ?」
「いや、ほら、略すのって最近の流行りだし。ちょっと可愛いかなって……」
「くだらねぇ……」
でも、ラージスは否定するだけで、それ以上言わなかった。
むしろ、その口元は、わずかにほころんでいる。
ボクは思わず笑ってしまった。
だってボクが頭の中で考えていた名前と同じだったから。
「でも、なんか妙に落ち着く響きだね。“ラーメン”……言いやすいし、覚えやすい」
「おぉい、まさか乗るんじゃねぇぞ、おまえまで」
「乗ってないよ。でも、言葉って不思議だなって」
ラージスは腕を組んで、厨房ののれんを見上げた。
そこには、変わらぬ店の名前。
何年も同じように揺れてきた布切れが、今は少しだけ誇らしげに見えた。
「……のれんは、変えねぇぞ」
「もちろん。でも、料理の名前があるって、いいことだと思うよ」
「ふん。看板料理ってやつか」
その言葉に、レイチェルが勢いよく頷いた。
「うん! ラージスの店の“ラー麺”! この響き、わたし好きだよ!」
「……誰がそんな呼び方を……」
ラージスは呆れたように頭をかきながら、それでも顔を背けるように笑っていた。
朝の仕込みが始まる。
水が湧き、小麦が量られ、火が入る。
厨房が再び、いつもの音を取り戻していく中――
ボクは手元の帳面に、“ラーメン”という文字を静かに書き加えた。
これが、新しい一品のはじまり。
のれんの向こうに広がる、見知らぬ誰かのための。
「さあ、今日も打つか。昨日の感覚、まだ手に残ってるうちにな」
ラージスが立ち上がり、粉袋を担ぎ上げる。
その背中は、どこか軽やかだった。
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