第3話:焼き色の魔法と香りの秘密
パンを焼く香ばしい匂いが、今やクレマン子爵家の厨房から、外の中庭まで漂っている。
「……なんだ、この匂い」
「パン、だよな? でも……こんな香り、初めてだぞ?」
通りがかった使用人たちが鼻をくんくんさせながら、厨房の前で立ち止まっている。以前なら、誰も気にも留めなかったはずのあの“カチカチの主食”に、今はちょっとした人だかりができていた。
ふふん。いい傾向だ。
今日のテーマは、「焼き」だ。
パンの味は、生地だけで決まるものじゃない。焼き方一つで香りも食感も劇的に変わる。そんなこと、ボクにとっては常識だった。でもこの世界じゃ、常識どころか誰も気にしてすらいない。
というわけで、今日もボクは厨房に立っている。
「さて、ガストン。パンって、焼き色が命なんだよね」
「焼き色、ですか?」
眉をひそめたガストンに、ボクはテーブルの上のパンを見せる。昨日焼いたものと、今朝新しく試したもの。
一方は、うっすら色づいた金色。もう一方は、黒く焼け焦げて、ところどころひび割れている。
「見た目だけの問題ではないんですか?」
「違うよ。焼き色には、ちゃんと意味があるんだ」
――と、言いたいけど、科学的な話をしても通じない。だからボクは言い換える。
「ほら、焼けた小麦の香りって、ちょっとナッツみたいな匂いがするでしょ? でも焦げると、苦くなる。焼きが甘いと、今度はぺたっとした味になる」
「ふむ……確かに、言われてみれば……」
ガストンが試しに二つのパンを口に運び、それぞれ噛みしめてから頷いた。
「……これは、まるで別物ですな」
「だよね。パンって、色で味も香りも変わるんだ。あ、そうだ。表面にバターを少し塗ると、香ばしさがもっと増すよ。色にも艶が出るし」
「バ、バター……? 焼く前に……塗る?」
「うん。ほんの少し。塗りすぎると焦げるから、ちょっとだけね」
「……そんな馬鹿な……いや、試す価値は……あるか……?」
ガストンは戸惑いながらも、すでに次のパンを準備し始めていた。
まったく。ボクが五歳じゃなければ、もっと素直に信じてくれるんだろうけど。
焼きあがったパンは、まさに黄金色だった。
ほんの少しだけ塗ったバターが焼け、表面が艶やかに輝いている。
パリッとした皮。ふっくらとした中身。香りは……もう、説明不要だった。
「……」
ガストンが、一口かじったまま、動かなくなった。
「……ガストン?」
「……これは……うまい......! これは美味しいですよ、坊っちゃん」
「でしょ?」
ボクもかじって、口の中でパンの甘みと香ばしさを堪能する。
まさに理想の朝食パンだ。
「見た目もいい。香りもいい。何より、口に入れたときに感じる、“焼けた味”というのが……」
「焼き色の魔法、ってやつだね」
ガストンはしばし黙っていたが、やがてくすっと笑った。
「……まさか、パン焼きで魔法という言葉を使う日が来るとは思いませんでした」
午後、厨房の奥で二人で次の試作をしていたとき、ガストンがふいにぽつりと口を開いた。
「坊っちゃん」
「なに?」
「なぜ、そんなに詳しいのですか?」
来たな、またその質問。
前世の知識だ、なんて言えるはずもない。
ボクは天井を仰いで、肩をすくめた。
「……夢にね。出てきたんだよ。金色の畑と、巨大なパンの神様が」
「……パンの、神様」
「そう。すごくでっかくて、全身パンでできてて……“お前の使命は、パンを焼くことだ”って叫んでた。多分、神託なんじゃないかな」
「…………」
「いや、本気だよ? あれは絶対、神様の導きだって思ってる」
「……なるほど」
ガストンは眉間を押さえながら、それ以上追及してこなかった。
ボクの作戦、成功。
その日の試作を終えて、厨房を出るとき。ボクの背中に、ふいにガストンの声が飛んできた。
「坊っちゃん」
「うん?」
「……あなたは、何者ですか」
その言葉に、ボクは一瞬だけ振り返って、笑った。
「ただの、パン好きだよ」
それ以上のことは、言わない。
でも、ガストンの表情は、ただの“坊っちゃんを見る目”じゃなかった。
夜、部屋に戻ってベッドに潜り込む。
今日のパンは完璧だった。色も、香りも、食感も。
けれど、ボクはまだ満足していない。
次は、クレマン家の外――この味を領地に広げる方法を考えなきゃ。
「よーし、明日からは“広める準備”だね……」
ひとりごとのように呟きながら、まどろみに沈んでいった。
パンの焼ける香りが、まだ鼻の奥に残っている気がした。
いかがでしたでしょうか?
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