第5話:香る焦がし油と干し魚
スープの香りが、ようやく厨房に広がりはじめた。
それはまだ“完成の香り”じゃない。
けれど、昨日までの空っぽだった湯気とは、確かに違っていた。
朝。火を入れるために厨房に入ると、すでにラージスの姿があった。
黙って、薪をくべ、鍋に水を張り、包丁を研いでいる。
「……おはようございます」
ボクが声をかけると、ラージスは一度だけ頷いた。
それきり何も言わず、手元の作業に戻っていく。
でも、それで充分だった。昨日までは“厨房に立っていなかった”人が、今はそこにいる。それだけで、空気はまるで別のものになっていた。
「今日は、干し魚の出汁からやってみようと思います。香味野菜と組み合わせて、うまくバランスを……」
「魚は、熱湯じゃなく、ぬるめの湯で。いきなり熱いと、香りが飛ぶ」
ラージスの声が、低く響いた。
「え、ありがとうございます」
びっくりして振り返ると、ラージスはもう次の作業に移っていた。
だけど、それが“助言”だったのは、誰が見てもわかった。
干し魚と香味野菜。組み合わせ自体はめずらしくない。
ただしこの世界では、味がぼやけていて、香草のえぐみが強い“とりあえず煮込んだだけ”のスープが多かった。
ボクは、もっと“輪郭のある味”にしたかった。
干し魚の甘みとコク、香草の爽やかさ、それを引き締める焦がし油――
そうやって重ねていけば、きっと“芯のあるスープ”になるはずだ。
鍋に水を張り、干し魚をゆっくり戻す。
香味野菜は火を入れすぎないよう、じっくりと香りだけを移す。
途中、焦がし油の準備も進める。油に香草を入れ、表面がじゅわっと泡立つ瞬間に火を止める。
湯気の中に、淡く甘い匂いと、香ばしい香りが交じりはじめた。
「……アル様」
「ん?」
いつの間にか、扉の向こうからレイチェルが顔をのぞかせていた。
「これ、昨日焼いたパンの端っこ。おやつにどうかなって」
「ありがとう。今ちょうど一段落ついたところ」
包みを受け取り、作業台の端に置く。
レイチェルはちょっと顔をしかめながら、厨房の奥を見た。
「おじいちゃん、今日はずっと厨房にいるね」
「うん。昨日から、ちょっとずつ関わってくれてる」
「なんかさ、昔みたいな手の動きしてる気がする」
ふっと笑いながら、レイチェルはパンをかじる。
「アル様が来てから、おじいちゃん、あんまり怒らなくなったよ。……なんていうか、背中のとげとげが減った感じ?」
「とげとげ……?」
「うん、背中のとげとげ。ずーっと近づくなって言ってるみたいな空気だったのに、最近は違う」
ボクも思わず笑ってしまう。
「たしかに、“火加減見ててやる”なんて、昨日はちょっとびっくりしたよ」
香味野菜を変え、干し魚の戻し時間も数パターンで調整する。
ラージスは横目でその様子を見ていたが、時折、ほんの短く言葉をくれる。
「その魚、皮目を炙ると香りが立つ」
「この香草は、生より刻んで一晩干したほうがいい。匂いが立ちすぎない」
「油は……煙が立つ直前で止める。火を落としてから、少し待て」
ひとつひとつの助言が、的確だった。
料理としてのセンス、というより、“体に染みついた職人の経験”が言葉になっている感じだった。
「昔はこういう料理の会話、よくされてたんですか?」
「昔は……誰も訊いてこなかっただけだ」
そう呟いたラージスは、表情を変えずに火加減を調整し続けた。
何度か試作を繰り返すうち、スープに“輪郭”が見えてきた。
甘さと塩気。香草の爽やかさ。焦がし油の苦みと香ばしさ。
ひと口目で広がって、最後に引き締まる――そんなイメージに近づいてきた。
最後の試作。干し魚の出汁をベースに、刻んだ香味野菜をほんの少し。
塩の分量を微調整し、仕上げに焦がし油をひと垂らし。
ふわり。
香りが、厨房の空気ごと変えていく。
出汁のふくよかな香りのなかに、焦がし油の苦みと香ばしさがふっと立ち上がった。
鼻を抜けるようなその香りに、ラージスが静かに顔を上げる。
そして、何も言わずに、椀をひとつ取り出した。
ボクがうなずき、そのスープを注ぐ。
ラージスは、湯気の向こうでそれをじっと見つめ、そして――静かに啜った。
「…………」
何の言葉もない。
でも、表情が、わずかに変わった。
眉が少しだけ緩み、口の端がほんのすこし、上がった。
「……おじいちゃん、今、ちょっと笑ってた」
レイチェルが小声で言った。
驚いたような、でもどこか嬉しそうな声。
ボクは横目でラージスを見つめながら、静かに頷いた。
ラージスは椀を置いて、湯気の向こうでひと息つくと、ぽつりと呟いた。
「……これ、店の外まで香るな」
その声は低く、しわがれた声だったけれど、はっきりと芯があった。
まるで“認める”ことそのものが、長い時間をかけてようやく出てきた言葉のようだった。
「うん。そうなってくれたら、嬉しいです」
ボクは素直に答えた。
思えば、何十回も試作してきた。
うまくいかない時も、味が壊れてしまった時もあったけれど――
今日の、この一杯は、ようやく“前に進む味”になった。
ラージスがふと立ち上がり、棚から器をもうひとつ取り出した。
それを湯で温めてから、こちらに差し出しながら、低く言った。
「……そっちも、一口くらいは食っとけ」
言い方はぶっきらぼう。けれどその声には、どこか柔らかいものが混じっていた。
ボクは、思わず笑ってしまう。
「ええ、そうします」
受け取った器に、スープを注ぎ、ボクもひと口、啜る。
干し魚の甘み。香味野菜の軽さ。焦がし油の苦みと香ばしさ。
全部が、ひとつにまとまって、まるでちゃんと“料理”として完成していた。
「……おいしい」
ぽつりと漏らすと、ラージスは何も言わず、鍋の火を少しだけ弱めた。
その背中を、ボクはしばらく見つめていた。
昔を知る料理人と、新しいものを作ろうとするボク。
そのふたりが、ひとつの味を前に、黙って椀を啜っている。
それだけで、なにか確かなものが通じ合った気がした。
レイチェルが、小さく拍手をした。
「おじいちゃんも、アル様も、いい顔してるよ」
「……そうかな?」
「うん。なんか、いい匂いの中で笑ってる顔。あたし、好きだな、そういうの」
厨房の空気が、やさしくなっていた。
火はまだついているのに、不思議と緊張はなくて――
でも確かに、ここには“期待”があった。
まだ麺が残ってる。
でも、きっとこのスープに合う麺は作れる。
ボクはもう一度、鍋を見つめながら、そっと息を吸い込んだ。
香ばしさと旨味の混じった湯気が、鼻をくすぐる。
「次は、麺だね」
誰に言うでもなく呟いたその言葉に、ラージスがゆっくりと、背を向けたまま、うなずいたような気がした。
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