第4話:背中で語る男たち
厨房の空気は、昨日と少しだけ違っていた。
何かが動き出す直前のような、そんな気配。
音もなく、けれど確かに空気がやわらかくなっている。
それが、ラージスの仕草のせいだと気づくまで、少しだけ時間がかかった。
――湯を汲む手が、いつもよりゆっくりだった。
――香草の棚を開けて、何も取らずに戻した。
――カウンターの角にあった焦げ跡を、指で軽くこすっていた。
言葉はない。
でも、背中が何かを考えている。
ボクはそれを感じながら、今日のスープの仕込みに取りかかった。
帳面にあった焦がし油の作り方を、分量を変えながら試してみる。
香味野菜の切り方、炒め方、油の温度。
どれも少し変えるだけで、仕上がりはまったく違う。
「香りが立ちすぎてもだめ、沈んでもだめ……うーん」
湯気をかぶりながら何度も試す。スープの中に“芯”を作るためには、軸になる香りが必要だ。
試作を三つほど並べたところで、厨房の扉が開いた。
「こんにちはー……あ、やってる」
レイチェルだ。今日も差し入れの包みを抱えている。
「アル様、これ。昨日の焼き菓子の残りだけど、味見して」
「ありがとう。ちょうど休憩しようと思ってたところ」
包みを受け取り、作業台の端に並べた湯飲みと一緒に席をつくる。
レイチェルは椅子に腰を下ろし、ちらりと厨房の奥を見た。
「……ねえ、おじいちゃん、なんかちょっと、柔らかくなってない?」
「うん。今日はまだ一言も喋ってないけど、昨日よりずっと穏やかに見える」
「でしょ? いつもなら“厨房に客人入れるな”って言うのに」
ふふ、と二人して笑った。
少しの沈黙のあと、レイチェルがふと思い出したように言った。
「そういえば、うちのおじいちゃんと、ガストンさんって……昔からの知り合いなんだよね?」
「うん。ガストンが“信頼できる料理仲間だ”って言ってたよ」
「そう……あたし、小さいころ、一度だけガストンさんに会ったことがあるの。すごく大きくて、でも優しそうで。おじいちゃんも楽しそうに話してたな……」
――カチャ。
奥の棚から、控えめな物音が聞こえた。
言葉はなくても、聞こえていることが伝わってくる。
「……あいつとは、若い頃によく一緒に厨房に立ってた」
ラージスの声が、静かに届いた。
「味の細かい話をしながら、同じ鍋をかき混ぜたり……くだらねえことで喧嘩もしたな。塩の加減をどうするかで、一晩揉めたこともある」
ふ、と小さく笑ったような気配がした。
「でも結局、二人とも目指してたのは“ちゃんと自分の手で作れるようになる”ってことだった。大した味じゃなくても、ずっと続いてきたやり方を、間違えずに自分のものにする――それが、あの頃の“料理人”の証だったんだ」
「……昔からの味を、そのまま作れるようになりたかったってことですか?」
ボクが問いかけると、ラージスは香草壺の蓋を閉じながら、わずかに頷いた。
「そうだな。美味いかどうかは、二の次だった。旨かろうが不味かろうが、昔からこうだった、っていうやり方を、ちゃんと再現できるようになりたかった」
「でも、今は……」
レイチェルがぽつりとつぶやく。
「昔と同じようにやっても、あんまり喜ばれなくなった」
「……ああ」
ラージスは、それ以上何も言わなかった。
けれど、背中がほんの少し、静かに傾いたように見えた。
ボクは帳面をもう一度開きながら、そっと言った。
「記憶って、味そのものより、味に紐づいた時間や思い出なんだと思います。だったら、その“時間”を守ることも、伝統を残す一つの形なんじゃないかな」
目の前のページには、焦げ跡のある走り書きのレシピ。
行間には、その日どんな気持ちで鍋を見ていたのか、どんな人に食べさせたかったのか、そんな想いがにじんでいる気がした。
きっとラージスも、かつては夢中になって試していた。
その時間は、“変わらなかった”という一言でくくられるようなものじゃなかったはずだ。
「……記憶を守る味、か」
ラージスが、ぽつりと呟いた。
それは否定でも肯定でもない。ただ、ゆっくりと心のどこかに染みこんでいくような声音だった。
それから、ほんの数秒だけ、厨房の中に沈黙が流れる。
煮立った鍋の中で小さな泡が弾ける音が、やけに大きく聞こえた。
レイチェルが、そっと笑った。
「……なんか、今のおじいちゃんの背中、ちょっと懐かしいかも」
その言葉に、ボクも小さく笑い返す。
「うん。昔の背中って、こうだったのかな」
ラージスは何も言わない。ただ、香草の壺をひとつ戻して、静かに棚の前から離れた。
ボクは手を動かし、焦がし油の仕上げに入る。
鍋の中に香味野菜を落とし、ちょうどいい温度で揚げる。
立ちのぼる香ばしさに、スープの輪郭が見えてくるようだった。
この匂いを、誰かと分かち合えるのなら。
この味を、ただの変化で終わらせたくないのなら――
鍋に火を入れようとした、そのときだった。
背後で、水を汲む音がした。
振り返ると、ラージスが、袖をまくりながら静かに歩いてくる。
黙って、隣に立ち、手元を見たあと、短く言った。
「……火加減、見ててやるよ」
ボクは一瞬だけ目を見開いたあと、自然に笑みが浮かんだ。
「お願いします」
言葉はそれだけだった。
だけど、今この厨房に立っているふたりの姿こそが、
伝統を背負っていた者と、未来に渡そうとする者の“今”だった。
鍋の前に、静かに並ぶふたりの背中。
ラージスは口数こそ少ないけれど――
その手つきが、目線が、火加減を見る確かな所作が、すべてを語っていた。
背中は、言葉より雄弁だった。
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