第3話:新しい味の実験室
翌朝、ボクは再びラージスの店を訪れた。
看板は昨日と同じように古びていたけれど、どこか、ほんの少しだけ、その木目がまぶしく見えた。
扉を開けると、昨日と同じがらんとした空間。誰の声も、客の気配もない。
奥から現れたラージスは、ボクを見るなり少しだけ眉をぴくりと動かしたが、特に声をかけるでもなく、無言のまま厨房の奥へと引っ込んだ。
……無言の了承、ってことかな。
まぁ、昨日の今日だ。まだ気持ちが落ち着かないのも無理はない。
でも、厨房を貸してくれるだけで十分だった。
「お借りします」
小さく一礼して、ボクは厨房へ足を踏み入れた。
厨房は素朴で、よく手入れされていた。
石造りの作業台、窯、棚に並ぶ香草と塩の壺。
それらを見ながら、ボクは鞄の中からいくつかの香草と、持参した調味用の瓶を取り出す。
まずは、スープの再構築から。
昨日感じた、あの「ちぐはぐな味」。
スープと麺が互いに寄り添っていない、あのばらばらな印象。
それをほどいて、繋ぎ直す作業を、今日から始める。
「香草の強さ……塩気の濃さ……煮出しの温度……」
口の中でつぶやきながら、鍋に湯を沸かし、順に素材を加えていく。
まずは、香草抜きの塩のみで出汁を作ってみる。
昨日のスープは、最初の一口がとにかく“尖って”いた。
香りが先に鼻を突き、塩気が舌を殴る。けれどそのあとが続かない。
味が平坦で、奥行きがなかった。
「たぶん……煮込みすぎなんだ」
香草は、強火で長く煮れば煮るほど、香りの芯を失って、苦味だけが残る。
あれは香りじゃなく、痕跡だけだった。
昨日のあの味を思い出しながら、ボクは鍋の火加減を細かく調整し、時間を計り、何度も試す。
塩を変え、水の硬度を変え、温度を変えたスープをいくつも作っては味見して、捨てる。
いくつ目かの鍋を火からおろしていたとき――
「……なんか、昨日よりずっといい匂い」
背後から声がした。
振り返ると、レイチェルが戸口にもたれてこちらを見ていた。
「見に来たの?」
「うん。おじいちゃんは口には出さないけど、ちゃんと聞いてるよ。奥で、ずっと静かにしてるもん」
「……そっか」
ちょっとだけ嬉しい気持ちが胸の奥で膨らんだ。
「そのスープ、味見していい?」
「もちろん」
木の匙で少しすくって、彼女に差し出す。
レイチェルはそっと口に含んで、目を細めた。
「……やさしい味。前みたいに、舌に刺さってこない」
「ありがとう。でも……まだ、足りない気がする」
「どこが?」
「奥行き。香りも味も整ってるけど、なんか……芯になる味がない。たとえば、肉の出汁とか、乾物とか……何かが軸になってくれると、全体がまとまるんだけど」
「ふーん……」
レイチェルは腕を組んで天井を見上げたあと、ぽつりと言った。
「そういえば、おじいちゃん……昔、そういう実験よくしてたよ。干した魚とか、香味油とか使って、いろんなスープ試してた」
「ほんと?」
「うん。たしか……その頃のノート、あったはず」
ぱたぱたと厨房を出て行き、数分もしないうちに戻ってきた彼女は、やや古びた帳面を抱えていた。
革張りの表紙。角は少しすり減っていて、紐で留められている。
「これ。あたしが小さい頃、厨房の棚で見つけたやつ。たぶん、おじいちゃんが若い頃に書いてたんだと思う」
「見せてもらってもいい?」
「どうぞ」
ボクは帳面を開いた。
中には、びっしりと文字と数字、素材の名前が並んでいた。
“干し鯖、煮出し時間五分”、“揚げ香草油”、“白胡椒を加えると苦みが立つ”――そんな細かいメモが、ページをめくるごとに現れる。
「……すごい」
目を通しながら、思わず声が漏れた。
実験の跡だ。試行錯誤の痕跡。
料理人としての、迷いと探求の証。
ページの端には、あちこちに“✕”や“◎”、“次はこれ”といった言葉も添えられていて、ラージスがただ守るだけの職人ではなかったことが、痛いほど伝わってきた。
「焦がし油……干し魚……これ、今のスープに足せば、ぐっと変わるかも」
ボクはノートを閉じ、ふっと息を吐いた。
「ありがとう、レイチェル。これはすごく大きなヒントになる」
「よかった。おじいちゃん、ほんとは頑固じゃないんだよ。……でも、あたしが物心ついたときには、もう“伝統を守る”ばっかり言ってて」
「守るって、ある意味では“止まる”ことでもあるからね。だからこそ、動き出すのって、すごく怖いことだと思う」
「……うん」
ふたりの間に、少しだけ静けさが流れた。
でも、どこかその空気は昨日よりもあたたかかった。
――その奥。厨房の扉の向こう。
見えない位置にあるその隙間から、小さく誰かの気配がした。
声も、足音もない。ただ、息を殺した誰かが、そこにいる。
きっとそれは、あの帳面を書いた本人。
味は、少しずつ形になってきた。
バランス、香り、飲みやすさ――少なくとも、昨日の一杯よりは確実に良くなっている。
けれど、完成とはまだ言えなかった。
整った味に、もう一つ何か――魂のようなものが足りない。
伝統に縛られすぎていた麺と、異国のように生まれ変わろうとしているスープ。
それらがちゃんと手を取り合うためには、もう一段、踏み込まなければならない。
そしてそれは、きっと――
ボクひとりでは、越えられない壁なんだと思う。
ふと、視線を上げると、帳面のページが風でぱらりとめくれた。
書きかけの言葉、未完成のレシピ、思いつきの走り書き――
どれもが、“もっと良くしよう”という意志の跡だった。
「……昔のラージスって、こういうこと、いっぱい考えてたんだね」
そう呟くと、レイチェルが静かに頷いた。
「うん。……今のおじいちゃんより、ちょっと若くて、ちょっと無茶してて、でも楽しそうだった気がする」
「その人が、どこかにまだ残ってるなら――また出てきてくれると、嬉しいな」
ボクは再び鍋に向かって、今日最後のスープに火を入れた。
あたたかな香りが立ち上り、湯気が天井へ向かって細く昇っていく。
その背後。厨房の奥の戸の向こう。
きっと、あの人はまだ黙ってそこにいる。
目も合わないし、声も聞こえないけれど――
こちらの音は、匂いは、きっと届いている。
ほんの少しでも、あの背中が――かすかに揺れてくれたら。
ボクは、そう願いながら、火を止めた。
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