第2話:不味さの根源
朝の食卓に、焼きたてのパンの香りが漂っていた。
白い皿の上には、表面がパリッと香ばしく、中はふわりと焼き上がったパン。ボクはその出来に満足しつつ、ぱくりと一口。
「ん〜、今日もいい出来!」
「……アル、今のパン、なんだか柔らかくて、甘い……?」
母さん――ソフィアが、目をぱちくりさせながらボクを見た。
父さん――エドガーも、無言のままパンを手に取り、慎重にかじる。口元は相変わらず真面目一辺倒だけど、眉がわずかに動いたのをボクは見逃さない。
「料理長にお願いして、ちょっと作り方を試させてもらったんだ。前より食べやすくなってるでしょ?」
「……ああ。これは……悪くないな」
それ、父さんなりの高評価だよね。ボクは小さくガッツポーズを決めた。
母さんも「香ばしくて美味しいわね」とにっこり。朝からこれだけ褒められると、パン以上に気分がふくらんじゃう。
「で、坊っちゃん……今日は何を?」
厨房に入るなり、ガストン料理長の低い声が飛んできた。もうボクが厨房にいるのは日常になりつつあるらしい。
「今日は、厨房の“なぜ”を調べたいんだ」
「……“なぜ”、とは?」
「どうしてこれまでパンが不味かったのか。小麦もいい、水もある、道具も揃ってる……なら、原因は“作り方”のどこかにあるはずでしょ?」
そう。前世の記憶では“当然のこと”が、この世界では当然じゃない。そこを見極めなきゃ、真の食改革なんてできない。
ボクは厨房を歩き回りながら、小麦粉の袋をひとつひとつチェックし、水桶を覗き、作業台の端を指でこすって確かめた。
「……これ、直射日光が当たってるから、風味が飛んでると思う。粉はもっと涼しい場所に保管したほうがいいよ」
「なっ……いや、しかし……」
ガストンが思わず袋を持ち直す。
「それに、この水……ちょっと臭いがある。使う前に一度煮沸したほうがいいかも」
「坊っちゃん……なぜ、そんなことを?」
――来た。
この質問だけは、あらかじめ答えを用意していた。
ボクはまっすぐガストンを見上げて、真顔で言った。
「……夢に、神様が出てきたんだ。“麦に感謝を、そして清らかな水を使え”って。……でっかい声で」
「…………」
「嘘じゃないよ? すごくリアルな夢だった。多分、啓示的なやつだと思う」
ガストンはしばし絶句していたが、やがて深い溜め息をついて、
「……神託とは……ありがたい」
と、頭を掻いていた。
そのあとはもう、やることだらけ。
作業台の拭き残し、手洗いの回数、塩壺の管理、発酵中の生地に布をかけない問題……。
「力の入れ方も重要なんだよ。潰すんじゃなくて、押すって感じ。こう、生地を“育てる”って気持ちで……」
「育てる、とな……?」
「うん。ほら、こうすると、表面がなめらかになるでしょ。あと、発酵は時間じゃなく“膨らみ”で見るのが大事なんだ」
もちろん、科学的な説明なんてしない。ボクはただ、自分の“感覚”として伝えるだけ。
でも、それだけでも十分だった。
ガストンは試すたびにうなるし、周りの料理人たちも好奇心でチラチラとこちらを覗き見してくる。
パンの生地が変わっていくのを見て、ボクは嬉しくなった。
この世界の料理人たちに、「変わる」ことの楽しさを、ちゃんと伝えられてる。
夕方。試作パンが焼き上がり、厨房に香ばしい匂いが満ちる。
ガストンがそのパンを手に取って、ゆっくりと裂いた。
もちもちの断面。立ち上る湯気。小麦の甘い香りが、ふわりと広がる。
「……これは……」
一口、口に運ぶ。
ガストンの目が見開かれた。
「柔らかい……甘い……いや、これは小麦の香り……! な、なんだこれは、まるで……」
言葉にならない驚きが、顔に全部出てる。
ボクはふふっと笑って、パンを指差した。
「……奇跡のパン、ってとこかな?」
「……わしは、今日、パンというものを初めて知った気がするよ」
そう言ったガストンの顔は、完全に“職人”のそれだった。
「ガストン、ここからが本番だよ。今までのパンを“過去の味”にするんだ」
「……ええ! やってやりましょう!」
夜。ベッドに寝転びながら、ボクは思った。
この世界には、まだまだ“美味しい”が足りない。
ボクがそれを満たしていく。誰よりも、美味しいを知っているから。
「明日は“焼き”を見直そう。焼き色の魔法、ってやつだね」
布団を引き上げながら、小さな革命の続きを夢見て、目を閉じた。
いかがでしたでしょうか?
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