表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
隣の家の女神様  作者: 樟木
第1章
6/15

5.はじめまして〝女神様〟-5

 早乙女(さおとめ)がやり忘れた会計業務を全て消化した頃には、辺りはすでに薄暗くなっていた。


 予想外のことが起きるとパニックになることが多い早乙女だが、あれで結構仕事は早い。本人曰く「メチャシングルタスクなだけ」らしいが、なんだかんだで俺が引き受けたタスクは全体の半分にも満たなかった。


 目前に迫る十八時半の最終下校時刻を前にして慌ただしく動く生徒たちを横目に、校門までの道のりを歩いていく。


 春といえどまだ四月。日が落ちた後は少し肌寒い風に当てられるかと思っていたが、日中の気温が高かったこともあり案外丁度いい風が吹いている。


 閑散とした住宅街を抜けて商店街も通り過ぎ、駅に近づくと一気に人気が増えた。俺と同じ制服を着た学生やスーツを着て足早に通り過ぎていくサラリーマン。いろとりどりの人がそこを往来している。


 駅のホームで電車を待つ傍ら、今回の会議に参加していないメンバーに会議の内容を共有するべく連絡を入れる。


 葛西(かさい)は今回こそ予定が合わず来れなかったが、本来はこちらの言い伝えには素直に応じてくれることが多い。まあクセのあるやつには変わりないが。


 しかし多賀谷(たがや)は別だ。あいつは他人の言うことに素直に従うタマじゃない。あいつにとって守るべき決まりとは自身を縛る鎖のようなものらしい。


 それはこのような約束ごとだけではなく、ほぼないに等しい上城(かみしろ)の校則にすら反骨精神を見せる。


 多賀谷は月ごとに髪を派手に染め上げ、制服を着崩すどころか私服で登校してきた時がある。そんないい加減な素行の悪さが目立つ反面、学業優秀で何をやっても結果を残す天才肌でもある。


 そしてそれ相応にプライドも高い。そこをうまく煽れば、もしかしたら多賀谷のやる気を引き出せるかもしれない。


 五分ほどしてやってきた電車に乗り込み、揺られること約十分。外に出ると辺りはすっかり暗くなっていた。


 立ち並ぶビルに挟まれる駅前通りを歩いていき、大通りから路地に入ると辺りはさらに薄暗くなる。住宅街なのに人の気配がないそこは怖いくらい静寂だった。けれど今はそれが心地良く感じる。


 ぽつぽつと道を照らしている街灯を数えながらぼんやりと足を進めていくと、いつ間にか家まで着いていた。


 通学カバンのサイドポケットに忍ばせてある家の鍵を取り出して、扉の鍵を開ける。


 玄関を開けると真っ暗闇が広がっていた。


 目が暗闇に慣れていないなか、リビングまでゆっくりと足を進めて部屋の明かりを付ける。


 俺の両親がこの時間帯に家にいることはほとんどない。いつも帰ってくるのは二十時を回ってからか、遅い時は二十二時頃になることもある。仕事人間なのだ。俺が物心ついた時からそうだった。


 ひどく静まり返ったリビングの静寂を破るように、テーブルの椅子を大袈裟に引いてため息混じりに腰掛けた。


 眉間に微かな痛みを感じ、重い瞼を閉じて背もたれに頭を預ける。


 帰路の間色々と考え事をしていたからか、こうしてリラックスしていると気が抜けてしまいそうになる。


 突如襲いくる睡魔と共に、腹の虫が鳴った。


 のっそりと椅子から立ち上がり、キッチンスペースまで行って冷蔵庫を開ける。何か食べ物でもないかと覗いた冷蔵庫の中は、保存してあるものを一瞬で把握できるほどすっからかんだった。


 昨日俺は何を食べただろうと後頭部をコツンと叩くと、休日に珍しく親がいたためせっかくなら出前でも取ろうとなったのを思い出した。


 今から食材や出来合いの物をスーパーへ買いに行くのも面倒だし、出前は高校生にとってはお高い。ならばとキッチンに収納してあるカップ麺を手に取る。今日はこれで済ませてしまおう。


 カップ麺にお湯を注ぎ、リビングのテーブルまで持っていく。


 いつものようにしんとした空気が流れているリビングに、今日はなぜか物悲しさを感じた。


 テレビのリモコンを手に取り、電源を付けると笑い声が聞こえてきた。


 新鮮味に欠ける、ありきたりな内容のバラエティ番組。演者がウケを狙った発言をするたび大袈裟に反応する観客たち。


「──ははっ……」


 なぜか笑みが溢れた。


 いつもはただの暇つぶしでなんとなく見ていることが多いのに、今日はなぜかそれに安心感を覚えた。


 まだ視察に向けてやらなければならないことはある。そして、不安を取り除くために今できることはやっておくべきだ。


 かといってこの状態で頭を働かせてもいい案は浮かばないだろう。


 スケジュールに穴はないか、視察当日に向けて何か足りないものはないか、そんなことを考えるだけで頭が痛くなってくる。


 だから夕食を食べ終えたら少しだけ仮眠でも取ろう。パワーナップだ。もう日は暮れてるけど。


────────────


 次に目を開けた時、つけっぱなしのテレビからは笑い声ではなくシリアスなBGMが流れていた。


 視界に広がる照明の光が眩しくて手で目を覆うと、次には鈍い痛みが頭を巡るように広がった。


「──いってぇ……」


 汗で湿っている額を抑えて、ソファに横たわる体をそのままに首だけを動かして壁掛け時計を仰ぎ見る。


 現在時刻二十時半。


 十分ほど目を瞑って横になるつもりが一時間近く眠ってしまったようだ。


 今日は色々と考えることが多くて気疲れしたのだろうと思うも、この後の予定が崩れたことに少しだけ落胆する。


 とりあえず、失った一時間分の時間を早く取り戻さないといけない。


 思い立ったが吉日。俺はソファから起き上がって廊下に出た。今日も親の帰りは遅くなりそうだ。


 変な姿勢で寝ていたからか、巡る血流が増してズキズキと響く頭をさすりながら二階に続く階段を上る。


 自分の部屋に着き室内の電気をつけると、必要最低限の物しかない殺風景な部屋が出てきた。


 汗でびっしょりとした制服を脱いで、今朝俺がベッドの上に投げ捨てた部屋着に着替える。


 そして机上に散乱している書類に隠れているノートPCを引っ張り出して、おそらく今朝のままスリープモードになっているそれの電源ボタンを押した。


 すぐに立ち上がったPCの画面にデカデカと表示されたウインドウを横目に、作業前に茹で上がってしまった頭を冷まそうと閉め切っているカーテンを開け放つ。


 そこでふと思い出した。隣の家に〝女神様〟が越してきたということを。そして、あろうことか部屋も重なり合っているということも、すっかり寝起きの頭から抜け落ちていた。


 もしかしたら目の前に〝女神様〟がいるかもしれない。しかし、もしかしたら、女神様〟も俺と同じように部屋の窓とカーテンを閉め切っているかもしれない。


 そんな淡い期待も虚しく、窓からは積み上がった段ボールと必要最低限の家具が置かれた、いかにも引越し後と言えるような部屋が見える。


 だがその部屋の主は見当たらない。厳密には窓の下から伸びる細い人の腕はあった。ダボっとした服の袖を垂らしているそれは、大胆に開放してある窓の片側を閉じようと動いている。


 やがてその腕の主は何か異変を感じたのか、ふいに窓の縁から顔を覗かせる。


「──えっ」


 俺の部屋の窓は閉まっているのに、中性的なハスキー気味の声が聞こえた気がした。


 それは記憶にある〝女神様〟の声に近かった。おそらく、もし正面の部屋に人がいるならば、それは〝女神様〟しかいないだろうという先入観から脳が勝手に音声を補完したのだろう。


 しかし、その人物は〝女神様〟にしては髪が短すぎた。顔の頬を包み込むように切り揃えられた毛先にピンッと外に跳ねる襟足。どこを見てもあの長い髪はなかった。


 ともすれば、俺の目の前で唖然としている人物は〝女神様〟ではない〝誰か〟である可能性が浮上してくる。


 そんな情報は聞いたこともないが、おそらく〝女神様〟には姉妹でもいるのだろう。


 そう仮定すれば今のこの光景にも納得できる。


 今目の前にいるのは、俺が知る〝女神様〟ではない。


 しかし、大きく見開かれるその瞳は、間違いなく〝女神様〟だった。


「──う、うわああぁぁぁ‼︎」


 一瞬の沈黙の後、〝女神様〟もどきは青ざめた表情で可愛げのない叫び声を上げた。そして俺が声をかける間もなく、シャッとカーテンを勢いよく引く。


「…………」


 俺も自分のカーテンを静かに閉めた。


 時間にしてわずか数秒のできごとだろう。しかし、今後俺の身にかかる心労はそれの比ではないはずだ。


 ふとノートPCの画面に表示されているウインドウを見ると、OSの更新のために再起動を要求するメッセージが書いてあった。


────────────


 まずいことになった。


 もし仮に先ほどの人物が〝女神様〟だったとして、彼女がこのことを学園で生徒たちに言い広めたら。俺は覗き魔のレッテルを貼られることになる。


 すでに一部の生徒たちからの印象は最悪ではあるものの、さすがに学園中の人たちから後ろ指を指されながら今後の学園生活を送るはめになるのはごめんだ。


 しかし希望はまだある。先ほどの人物が〝女神様〟であると確定したわけではないからだ。


 もしも彼女が〝女神様〟の姉妹である場合、〝女神様〟本人には直接被害を与えていないことになる。その姉妹の人には精神的損害を与えてしまっただろうが、そこは俺も意図的にやったわけではないため、誠心誠意謝罪をすれば済むだろう。多分。


 そしてもし〝女神様〟本人だったとしても、彼女が普段ウィッグやらなんやらをつけて学園に通っている場合、彼女がそれを秘密にしているならばそこを突いてお互い穏便に済ませることができるかもしれない。


 色々と策は浮かんでくるが、どちらにせよ今後の視察で〝女神様〟と関わっていくことを考えると、今すぐに謝罪しにいくのが最適解なのだろう。


 先ほどのアクシデントから約十分が経過した。早まる鼓動を抑えるために深呼吸をする。


 そして思考が落ち着くとすぐに行動に移った。


 おそらくこの十六年間の人生の中で最も早く階段を駆け下り、なかなか履けない靴にイラつきながら半ばタックルするように玄関のドアを開ける。


「──あっ……」


 すると、扉の先に〝女神様〟がいた。


 灰色のパーカーとスエットという地味な服装をして、先ほどとは異なり長い髪を纏っている。


 〝女神様〟はその長い髪を揺らして二、三歩後退りすると、俺から視線を逸らして俯いた。


 俺もまさか〝女神様〟からこちらにやってくるとは思わず、面食らって言葉が出ないでいた。側から見たら非常に情けない顔をしていることだろう。


 俺が気を取り戻すよりも前に、〝女神様〟が意を決したように顔を上げる。


「──ご、ごめんね……。さっきはその……びっくりさせちゃって……」


「い、いや、俺の不注意が原因だから……」


 そう前置きしてから、自分の行動の弁明のために口を回す。


「ごめん。なんか、覗きみたいな形になったけど、あれは意図的ではなくて不幸な事故だったっていうか……つい普段の癖でやってしまったというか……」


 前言撤回。これは弁明というよりただの言い訳だった。それでも〝女神様〟は俺の言いたいことを察したのか静かに微笑んだ。


「……うん。わかってるよ……」


 それが形だけの許しの可能性はあるが、ひとまず先ほどの事故そのものについては大事にはならなさそうで一安心する。


 しかし俺も、〝女神様〟もそれだけでは終われないようだ。


 〝女神様〟は何かいいたげに自分の髪を触っている。彼女は彼女で先ほどの姿についての釈明の機会を求めているのだろうか。


 先ほどの口振りからして、先ほどの人物が〝女神様〟の姉妹説は薄いとは思うが一応確認を取っておこう。


姫野(ひめの)さんって、姉妹はいるのか?」


「ううん、いないよ……」


 はっきりとした否定。つまり、あの人物は〝女神様〟本人だということになる。


「……じゃあ、そういうことなんだよな?」


 二つあった候補のうち片方が潰れれば残りは一つしかない。改めて〝女神様〟にその真偽を確認する。


「……うん。あれが本当のわたしだよ……」


 やはりなんらかの事情でウィッグをつけて学園に通っているのか。


 しかしその事情とやらが想像できない。


「いつかは話そうと思ってたんだけど……」


「ああ……」


 その語り口からすると、このことは学園の生徒たちにも話していないのだろう。


「学園だとこういう話はできなくて……」


「そうだな……」


 確かにこの手の話を切り出すタイミングもなかなかないだろう。


「その……わたしが女装してることについてとか……」


「まあ、いい機会だったのかも──……は?」


 女装してる?


佐竹(さたけ)くんとはご近所さんにもなったんだし、いつかはちゃんと説明しようと思ってて……でも──」


「ちょっ、ちょっと待ってくれ……!」


 ただ一人で話を続ける〝女神様〟に体全体で待ったをかける。当の本人は困惑したように口をぽかんと開け放っている。


「──今なんて言った……?」


「……えっと、わたしが佐竹くんに、自分の事情を説明しようって」


「違うその前」


「じょ、女装、してる……?」


「だ、誰が……?」


「え……わたし、だけど……?」


 突然のカミングアウトに頭が追いついてこなかった。まるでラグビー部員にタックルされた時かのような衝撃が頭を走って、脳が麻痺しているようだった。


「つ、つまりどういうことだ? 何を説明するって?」


 何が何だかわからなくなって馬鹿正直に聞き返すと、〝女神様〟は痺れを切らしたのか眉を顰め、スッと息を吸った。


「だ、だから……! ぼ、ぼくが男の子だってこと……!」


 普段よりも語気の強い〝女神様〟の声が住宅街にこだまする。


 ──〝女神様〟が男……? 夢でも見ているのだろうか。俺はまだリビングで惰眠を貪っているのかもしれない。


 しかし、家の扉を開けた時にぶつけた肩に広がるじんわりとした痛みは、今も続いている。


「──あっ……」


 そして、自分の口を両手で塞いで周囲を見渡す〝女神様〟の様子を見て、先ほどの衝撃発言が俺の聞き間違いではないことを察した。


「お、男の子……?」


「し、知ってるんじゃないの……? ……えっ?」


 〝女神様〟は口元に当てた手をゆっくりと離して、大きな目をさらに拡大させていく。


「で、でも……! 生徒会の人たちはみんな知ってるって……!」


「いや、初耳だけど……」


 生徒会に入って半年、そのような話は一切聞いたことがない。


「じゃ、じゃあ……! なんであの時、あんなこと……」


「……あの時? あんなこと?」


 姫野が発した言葉を一言一言復唱するも、彼女はそれきり言葉を詰まらせて押し黙ってしまう。


 なんだか、予想外の展開になってきたな……。


 ふとため息を吐いて視線を〝女神様〟から路地に移すと、こちらを怪訝そうに一瞥して去っていく通行人が見えた。


 この辺りは普段人通りが多いわけではないが、ちょうど今の時間から社会人や学生たちが帰宅してくる。


 今の話を近所の人に聞かれるのも嫌だし、近所迷惑でもある。


「続きはなかに入って話さないか? 玄関までなら上げるよ」


 俺が自分の家の扉を指差してそう言うと、〝女神様〟ははっと顔を上げた。


「な、なか……?」


 〝女神様〟は困惑混じりの不安そうな表情をしていた。下がり切った眉に動揺が滲んだ目をしている。


 〝女神様〟からしたらこのことを俺が誰かに告げ口しない確証はないし、彼女に弁明の余地を与えたほうが俺のためにもなる。


 かといって俺もいきなりのことで混乱している。時間を置いた方が気持ちの整理も心構えもできるかもしれない。


「また後日でもいいけど……」


 また日を改めて話し合う形をとってもいいと提案するも、〝女神様〟はすでに覚悟を決めていたらしく、まるで戦さに向かう前の武士のような凛々しい顔をしている。


「……ううん。今、話したい」


 俺はその返事に頷き、〝女神様〟を我が家に招き入れた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ