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第二章:赴任地ハーバウクにて、新しい始まり

 水と石で組まれた街並みは、王都に比べてどこか鄙びており、古い影をとどめていた。

 そのせいか、暮らしの匂いが濃く漂っている。


 馬車の窓の外に目を向けると、ニッツヴェール川が視界に広がっていた。


 七本の橋脚に支えられた屋根付きの橋は、五十年前の大洪水で流されたと聞く。

 だが今は、その爪痕などどこにも見えず、橋はまるで時が巻き戻ったかのように目に映った。


 耳に届くのは、馬車の車輪が石畳を打つ軽い音。

 川向こうには小高い城山があり、その裾に黄土色の屋根が寄り添っている。

 水車の回転音に混じり、店先では桶職人が編み上げた籠を日差しにさらしていた。


 馬車の窓から目を細め、ジゼラは息を吐く。


 王都を出て六日目、ようやく目的地にたどり着いた赴任先の街・ハーバウク。


 政庁は、川沿いに建つ赤煉瓦造りの建物で、午後の光を淡く照り返していた。

 白い石灰を帯びた外壁は古びていながらも、手入れが行き届いている。

 子爵家の邸宅を転用したと聞く政庁には、今もなお、暮らしの痕跡が残っていた。


 ◇


 翌日、ジゼラは用意された事務官の案内に従って庁舎内へ足を踏み入れた。


「ようこそお越しくださいました、ローゼン伯爵令嬢……いえ、今は書記官殿ですね」

「お気になさらず」


 そう答えると、案内役の事務官が一礼し、隣の男に視線を向けた。

 そちらは長身で、肩には金糸の飾り房──地方政庁における『補佐官』の印がついている。


「こちらが、補佐官のロルフ・ライヒです」

「ジゼラ・ローゼンと申します。よろしくお願いいたします」

「よろしくお願いいたします」


 ごく簡潔に言葉を返すと、ロルフも短く礼を返した。


 頬には日焼けの跡が残っているが、粗野な印象はない。

 立ち居振る舞いには、むしろ育ちの良さがにじんでいた。

 身長が高く、騎士とまではいかないが、軍事教練の心得がありそうな体躯。

 ただ、長く垂れた前髪が瞳の色を隠しており、そのせいで得体の知れない雰囲気をまとっている。


 ライヒ男爵家といえば、山間の古い家系で子沢山のことで知られていた。

 次男より下の子の名は、王都にまで届いていない。彼も、その末席に連なる一人なのだろう。



 政務室に通されると、帳簿と小札の束が、すでに机上へ揃えられていた。

 ジゼラは荷を降ろし、手袋を外し、羽根ペンの感触を確かめる。書き慣れない道具では、指先の力加減に微かな違いが出る。


 政務室の奥では、何人かの地元官吏たちが、ちらちらとこちらを見ていた。


 ──貴族の娘に、政務が務まるのか。

 そんな目を向けられるのは、王都でも慣れたものだ。


 挨拶を終えると、ジゼラはさっそく政務に着手することにした。


 帳簿を開き、税目の変動をざっと追っていく。

 川沿いの麦作地帯では、干ばつの影響で収穫が一割ダウン。東の放牧地は逆に回復傾向。

 鉱山にかかる保護費は、三期分で計上の仕方がバラついていた。どうやら、三期目に上納ルールが変わったらしい。


 判断をつけるたび、小札にメモして分類箱に落とす。


 目を通した帳簿の束が、机の端に積み上がる。


 一息ついた時、棚の前にいたロルフが動きを止め、分類箱へ視線を落とした。

 その直後、声がかかった。


「収支のずれですが、前任者が新税制の訓令を待たずに支出を計上した記録があります。確認しますか?」

「はい、確認したいです」


 短く返すと、ロルフは頷いて背を返す。

 何気ない仕草だったが、どこか印象に残る背中だった。


 そういえば、初対面の時から、彼の態度は他の者と違っていた。

 馬鹿にした様子もなく、値踏みするでもなく、与えられた役目として淡々と接してくれた。


 ◇


 数日後、ジゼラは初めての政庁会議に出席することとなった。


 会議室の天井は高く、声の響きにゆとりを感じた。

 煉瓦壁を白漆喰で覆ったその空間には、領内の村長や農業組合の代表、行政官ら十数名が腰を並べている。


 ジゼラは壁際の記録席に着いた。

 前に出るべきではない。

 役職的にも後ろの席だが、それより何より、ここでの振る舞いで信頼が決まるのだ。

 ……まずは観察に徹することにしよう。



 冒頭で地方長官が形式的な挨拶を述べた後、進行をロルフへと引き渡した。


「それでは、会議の進行を補佐官である私が代行いたします。各村よりお寄せいただいた報告をもとに、今期の成果と課題を整理いたします」


 ロルフがすっと立ち上がり、資料に目を走らせる。

 その声は落ち着いていながらも、しっかりと響いた。内容もテンポも的確で、場の空気に自然に馴染んでいる。


「まず、今年度において特筆すべき事例を三件ご紹介いたします」


 指が示したのは、ニッツヴェール川下流域のミュル村だ。


「旱魃の影響が懸念された同村では、春の時点で早くも大麦からそら豆への作付転換を判断し、備蓄の一部を用いて干豆の配布を行いました。その結果、栄養支援を要する戸数は前年より三割減少しております」


 さらに港町バステンでは、隣国との交易で乾燥果実や穀物の緊急輸入が行われたこと。山間部の集落では、野草の知識を活かし、王立薬草園の指導を受けながら非常食の調理講習を実施したことが語られていく──


「これらの柔軟な対応は、各村の皆様のご尽力の賜物です。まずは、深く敬意を表します」


 席の間から「いやいやぁ」と照れたような笑い声が漏れ、場が和らぐ。


 ロルフは自然に間を取り、表情を緩めると、次の話題へ進んだ。


「しかしながら、本年の成功に過信は禁物です」


 声の調子がワントーン下がると、場の空気がピンと張りつめた。


「先月末、東のアストリウス王国で大規模な蝗害がありました。麦の三割が廃棄され、広域支援が要請されたそうです」


 どよめきこそ起きないが、空気は確かに引き締まった。


 ……本当に、話し方がうまい。

 ジゼラは羽根ペンを動かしながら、心の奥でそう呟いた。

 理屈ではなく、言葉が場の空気を塗り替えていくようだと思った。


「そこで一つ、ご提案させてください」


 ロルフが机の上の資料を取り、何枚かを配り始めた。農業試験場の印がある。


「先月、アストリウス王立農学機関が発表した報告です。かの国では、かねてより乾燥地帯での食糧研究が進められており──」


 ロルフの指先が、配布資料の一節をなぞる。


「この『砂漠芋』は、保水性に富み、痩せた土壌でも育成可能とされています。また、収穫まで四十日という『速生豆』は、小規模農地での補助作物として注目されています」


 資料の間を行き来する視線が、会議卓のあちこちで交差した。


「これらをすぐに導入する必要はありません。ただ、耕作に適さない遊休地を用い、小規模な試験圃場を設けるだけでも、非常時の備えとなるはずです」


 その言い方は、強制でも押しつけでもなかった。


 しばし沈黙ののち、村長が口を開く。


「まあ、種子の入手と、耕作条件を調べることは可能です。バステン村では試験地も確保できますなあ」


 隣の代表が頷く。


「うちでも、水源の枯れた北畑が残っております。ぜひ、使わせていただきたいです」


 場の空気が動いた。

 波紋のように同意の気配が広がってゆくように。


 ロルフはあくまで淡々と、しかし満足げに小さく頭を下げた。



 会議が終わり、資料の束を抱えて退出するジゼラのもとへ、ロルフが歩み寄る。


「記録、ご助力ありがとうございました。大変助かりました」

「……職務ですので」


 そう返すと、ロルフは「そうでしたね」と口元を和らげた。


 初めて見た、柔らかい笑みだった。



 ◇◇◇



 ジゼラがハーバウクに赴任してから、もう二か月が経つ頃。街の雰囲気にも、暮らしのリズムにも、少しずつ慣れてきたジゼラは街歩きが良い気晴らしになっていた。



 帳簿用紙を買い足した帰り道、ジゼラは足を止めた。


 市場通りのはずれに、小さな書店があった。木組みの外壁に、入口の上から真鍮の秤がぶら下がっている。


 窓際の棚に、背表紙が並んでいた。


 学術書の題名ばかりで、目が離せない。


『代数的評価式』、『圧縮理論』、『ケルヒャー変域と近似級数の収束について』


 最後の一冊には、ジゼラも見覚えがあった。財政演習で抜粋を使ったことがあるのだ。

 筆者は中部出身の修道数学者ケルヒャー。

 評価は分かれるが、収束理論を経済モデルに応用しようとした、初期の異端的試みに数えられている。もっとも、王都の学派では『時代遅れの理論』とされ、今では専門講義でも扱われないのだが。


 指先が、棚に伸びかける。と──


「おやおや、勉強熱心なお嬢さんだねぇ」


 背後から、ねっとりした声とともに、棚板を指で叩く軽い音がした。

 振り向かずとも、誰か分かる。

 商工会の若手、カスパル。

 黄色っぽい髪を撫でつけた、恰幅のいい男で、笑い方がいやらしい。


「王都じゃ有名だったよね。ローゼン家のお嬢様が婚約破棄されて、地方に逃げたってさ」


 肩口へ乗せられた視線が近い。

 わざと本棚の陰に体を滑り込ませ、逃げ道を塞ぐように立っているのだろう。不愉快極まりない。


 ジゼラは無言で本を手に取り、目を通す。


「まあまあ、怒らないで。逆に政務で見返してやろうって心意気、嫌いじゃないよ。女一人で偉いもんだ。けど、その本、君に理解できるのかい? 賢ぶるのはやめてカフェでショコラでも飲もうよ。僕、女の子が好きなカフェに詳しいんだ。色々教えてあげるよ……」


 わざとらしく笑いながら肩越しに覗き込もうとするカスパルに、靴のつま先で一発お見舞いしてやりたい衝動を堪えていた、その時──


「その問題なら、第五節の定義系が鍵になります」


 ──低く落ち着いた声が割って入った。


 声の主は、ロルフだった。


 いつからそこにいたのか。ジゼラの斜め後方に立ち、カスパルの動きを遮る位置を確かに押さえていた。


「ケルヒャーの理論は収束域を確定せずに進めるんです。それで補助命題が活きる」

「……?」

 ジゼラは本を抱えたまま片眉を上げる。


「それと、書記官殿。休日出勤になり、申しわけありませんが……そろそろ時間です」


 ロルフの口調はあくまで自然で、けれど明確に『同僚としての距離感』を周囲に示すものだった。ちなみに、約束はしていない。


 カスパルは、肩をすくめて苦く笑う。


「な、なるほど。ライヒ補佐官殿のお連れ様でしたか……」


 そのまま、「では失礼しますぅ、へっへっへ」と軽く手を振り、通りの人波へ消えていった。


「助け舟、感謝いたします」


 ジゼラが言うと、ロルフは首をすくめた。


「いえいえ、礼には及びません。なんせ、『ケルヒャー変域と近似級数の収束について』に興味のある方は、皆、友人ですからね」

「……本当に読んでいらっしゃるの?」


 本の表紙を掲げると、ロルフは口の端をほのかに上げた。


「ええ。昨年、地方理論研究会で取り上げられていたので。第五節の誤差項、ちょっと回りくどいですよね。線形展開で、もっとシンプルになるはずです」


 ロルフの言葉に、ジゼラは肩の力を抜く。


「私もそこが気になっていました。特に、近似変域の分母条件が気になっていて」

「あれなら、前近似との差分で処理すれば、収斂の位相に引っかかりません。例の三行目、実は蛇足なんですよ」


 ロルフがそう言って、指先で本の該当ページをすっとめくる。


「代数が得意なのですね」

「書記官殿も、ですよね?」


 自然と目が合った。


「ふふ……」「ははっ」


 今度は笑い声が重なった。


 冗談でも誇示でもなく、ただ互いの認識が一致しただけ。

 けれどそれが、とても嬉しかった。


「その本は全巻持っています。お貸ししましょうか?」


 ジゼラは一拍置いて、短く頷いた。


「はい、ぜひ」


 秤の影が揺れ、胸の内のかたちを持たない感情もまた、ゆるやかに揺れていた。



 ◇◇◇



 書店での一件をきっかけに、ロルフとは仕事以外の話も増えていった。


 はじめは、数学書の解釈を交わすだけだった。

 次第に、数式から文献へ、そして昔読んだ本の話へと広がっていき、ちょっとした考え方の違いに笑い合うようになっていった。


 時には、同じ資料の誤植に気づいて目を見合わせた。


 何も言わずとも、笑えることがあると知った。


 夜更けまで議論が続いた週もある。


 雨の日に帰りが重なり、庇の下で並んで雨脚を眺めたこともあった。無言でも、なぜか居心地が悪くなかった。


 そんなある日、ロルフがふいに言った。


「今度、外で食事でもどうですか?」


 その言葉をきっかけに、少しずつ関係が変わっていった。


 初めて一緒に食事をした夜、ジゼラはずっと肩の力を抜けなかった。異性と二人きりで食事をするなんて、生まれて初めてだったのだ。


 公の場では崩せぬ節度が、私的な場では逆に壁となるのが常だ。

 それでもロルフは変わらなかった。

 話題を選び、言葉を継ぎ、空気を読み、必要な時には沈黙も受け容れてくれた。

 食後、街灯の下で「次は、もっとくだけた店にしましょうか」と言われ、ジゼラは小さく笑って頷いた。


 毎週末の食事が定着したのは、その少し後。最初の食事から三か月目の頃だった。


 政務室では節度を守ったままでも、二人の間に冗談が交わせるようになった。

 冗談の意図に気づけるのが、少しずつ嬉しくなっていく。


 食事の好み、文書に残る筆圧、帰り道の会話。

 そういう小さな積み重ねが、気づけば二人の距離を近づけていた。




 ◇◇◇




 年が明けた朝、窓から差す光に目を開けた。

 彼と同じ夜を過ごし、共に迎える初めての朝だった。


 告白を受けたのは冬祭りの夜。

 あれから一か月、今は恋人として過ごしている。

 彼はいつの間にか敬語をやめ、柔らかな口調になった。

 ジゼラはまだ言葉づかいがぎこちなく、敬語と平語が入り混じる。

 それを可笑しく思いながら、隣に横たわるロルフへ視線を移す。


 と。


 額にかかった髪が、するりと落ち、長く隠されていた顔立ちが(あら)わになった。


 反射的に指先を伸ばし、前髪をそっと払う。


「……えっ」


 長く伸ばされた前髪の奥に隠れていたその顔立ちは、絵画の中から抜け出したような均整さ。

 輪郭も、眉も、まつ毛の線までも、現実味を欠くほどに美しく揃っている。


 いや、整いすぎではなかろうか。


 ゆっくりと指先を伸ばし、その髪を払おうとし──


「……ん、ジゼラ?」


 まぶたが持ち上がり、その奥の瞳が、こちらを見た。


 深く澄んだ碧。

 その色は、王都でも滅多に見ない。伝承の中でしか語られない血筋を思わせる──ただの山間貴族が持つには不自然なほど稀な色だった。


 思わず、息を止める。


「おはよ。よく眠れた? 昨日は無理させてごめんね」

「あ、いえ……。あ……はい……お、おはようございます……」

「ふはっ」

「もう。笑わないでください」

「ははっ、ごめんごめん」

 枕で肩を軽く叩いたジゼラに、ロルフは珍しくくだけた笑い声を上げた。

「……瞳の色。初めて、見ました」

「ああ、うん。初めて見せた」

 無頓着な笑い声が、枕に染み込んでいく。

「どうして、隠していたのですか?」

「隠してた訳じゃない」

「? 気づかれると、困ることでもあるのでしょうか?」


 返事はない。

 けれど、代わりに腕が伸び、ジゼラの身体を包むように抱いた。


「まだ起きたくないなあ。もう少しだけ。こうしていてもいい?」

「…………はい」


 誤魔化されていることは理解していた。

 でも、淡くあたたかい空気の中で、心臓の音が近くにある。

 それだけで、堪らなく嬉しかった。幸せだった。


 誤魔化されてもいい。

 そう思ってしまった。

 ──惚れた弱み、というやつだ。


 だから、今だけは考えないでおこう。

 ジゼラだって何もかもを彼に話している訳ではないのだ。


 彼の体温が名残のように肌に触れ、現実と夢の境がまだ曖昧なまま、ふと視線を逸らす。


 王都から届いた白封筒が一通。


 封はまだ切られていない。

 差出人は叔父。


 開けなくても、想像はつく──婚姻か、縁談か。


 だから、手を伸ばす気にはなれない。


 隣にある温もりをまだ壊したくなかった。


 胸の内では葛藤が膨らんでいく。


 答えは明白なのに、現実を受け入れる勇気がまだ持てない。


 ……でも、今は、まだ──


 そう自分に囁き、現実から少しだけ目を逸らすことにした。

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