7月5日(土曜日)
「よし、あと一本!」
体育館に、私の声が響く。汗が目に染みるが、構わずレシーブの体勢に入る。ボールが腕に吸い付くように上がり、セッターの美月へと正確に返る。美月が完璧なトスを上げ、エースの2年生、田中が力強くスパイクを叩き込んだ。床にボールが弾む、乾いた音が心地よい。
「ナイスキー!田中、今のいいよ!」
私、朝倉春奈は、大きく息を吐きながら、田中とハイタッチを交わした。全身の筋肉が悲鳴を上げているが、心は充実感で満たされている。梅雨の合間の晴れた土曜日、体育館の中は蒸し暑く、床のあちこちには汗の跡が残っている。
6月中にインターハイ予選は終わった1。私たちのチームは、目標としていた全国大会出場には届かなかったものの、県大会でベスト4という結果を残すことができた。全力を出し切ったという達成感と、もうこのチームで戦うことができないという寂しさが、今も胸の中でせめぎ合っている。
今日は、引退した3年生が希望する後輩の練習に付き合う、自主練習日だ。主将としてチームを牽引してきた私にとって、この体育館は、文字通り青春の全てだった。
「春奈先輩!今のレシーブ、めっちゃ完璧でした!」
後輩の美月が、キラキラした目で駆け寄ってきた。彼女は1年生ながらセッターとして才能を見せ始めていて、最近は頼もしくなってきた。
「まだまだよ。もっと上を目指せるから、頑張ろうね」
笑顔でそう返しながらも、内心は、焦りが募る。部活を引退したら、本格的に受験勉強に切り替えなければならない。体育系の大学に進学したいという目標はあるものの、推薦枠は限られており、成績もぎりぎりだ。一般入試も視野に入れるようにと、担任の今井先生にも言われている。部活に全力を注いできた分、勉強への不安は大きい。
「ねえ、春奈先輩、引退したら何するんですか?」
美月が、ふいに尋ねてきた。
「え?うーん、とりあえず勉強かな」
「そっかぁ……なんか、春奈さんがバレーやってないのって、想像つかないっていうか。寂しいな」
美月の言葉に、思わず笑ってしまった。
「なにそれ!めちゃくちゃ失礼じゃん!」
「ち、違うんです!そうじゃなくて、良い意味で!春奈さんって、“バレーの人”って感じがするから……」
美月は慌ててそう言ったが、その言葉は、私の胸にチクリと刺さった。笑ってごまかしたけれど、内心はちょっとだけギクリとした。
(やっぱり、みんなそう思ってるのかな。バレー以外の私には、何もないって)
私は、苦笑しながら答えた。
「いや、まぁ、正直……自分でも想像ついてないし」
「ずっと走ってきたじゃん?バレーが中心でさ。そっから急に降ろされる感じっていうか、降りなきゃいけないのか……みたいな」
気づけば、自分の声がだんだん弱くなっていくのが分かった。部活が私の全てだったからこそ、引退後の空白が、ひどく怖く感じられる。
「でも、引退したら勉強しないとですよね?進路とか」
「うん……進路かぁ……」
私はちょっとだけ間をあけてから口を開いた。
「体育系の大学、考えてるんだ。スポーツ推薦、狙えたらいいなって」
「すご……春奈さんなら絶対いけますよ」
「いや、それがね……推薦枠、去年より少ないって話で。成績も内申もギリギリだから、一般も視野に入れてって言われてさ」
言ってから、ため息が出た。推薦でパッと決まるのが理想だった。でもそんな甘くない。わかってる。自分は部活で結果を出すことで、その先の道が開けると信じていた。だが、現実は甘くなかった。
「今までバレーだけに集中してた分、焦ってるって感じかも」
そのとき、美月がふっと真剣な表情になって、私の顔をじっと見てきた。
「春奈さんでも、そうやって焦るんですね」
「“でも”って何よ」
「だって、ずっと主将で、引っ張ってくれて……どっしりしてるっていうか」
「演技演技。中身はぐっちゃぐちゃよ。てか、あんま見んな、恥ずかしいし」
「ごめんなさい、でも、ちょっと安心しました」
「安心?」
「なんか……春奈さんみたいな人でも迷うんだって思ったら、自分もまだ大丈夫かなって」
その言葉を聞いて、なんとも言えない気持ちになった。私が誰かの“安心”になってるって、不思議だけど、ちょっと救われる。自分の弱さを見せても、誰かの支えになれる。そんなささやかな希望が、心に灯った気がした。
練習が終わって、着替えを終え、体育館を出たのは18時過ぎ。西陽が廊下をオレンジ色に染めて、風が少しだけ涼しく感じた。下駄箱前で、クラスの斉藤が誰かと話してるのが見えた。生徒会のやつ、今日で最後の仕事だったっけ。
「おつかれ、斉藤」
「お、朝倉。部活?」
「うん、バレー。そっちも今日で引退?」
「一応ね。生徒総会で引き継ぎしたから、あとは後輩に任せた」
「そっかー……なんか、みんなちょっとずつ終わってくんだね」
「そうだな。……ちょっと寂しいよな」
「わかる。ずっと走ってきたのに、急に立ち止まったみたいな」
「うん。止まった瞬間、逆に自分の足の震えとか、見えてくるっていうか」
「……めっちゃ分かる、それ」
斉藤の言葉は妙にリアルだった。自分を見透かされたようで、でもなんかホッとした。彼女もまた、完璧主義ゆえの葛藤を抱えていることを知っていたから、余計に共感できた。
「でもまあ、焦らなくてもいいんじゃない?止まったからこそ見える景色もあるって」
「ポエマーかよ」
「うるせーよ」
そんな軽口が、なぜか心にあたたかく残った。斉藤の言葉には、いつも優しさと、そして確かな芯がある。
家に帰ると、弟の健太がテレビ見ながらポテチ食ってた。私を見るなり、ふっと一言。
「春奈、もうすぐ引退なんだっけ」
「うん、最後の大会は終わったけど、まだ後輩指導はちょくちょく行くよ」
「なんか……春奈がバレーやってない姿って、マジで想像できないな」
「またそれ?今日二人目だよ、そんなこと言うの」
「いや、だってずっとさ、バレーばっかやってたじゃん。朝も夜も。……いなくなるみたいな感じ、するもん」
「それ、地味に傷つくんだけど」
「ごめんごめん、そういう意味じゃなくてさ……」
テレビの音だけが部屋に流れて、なんか変な沈黙になった。弟の言葉は、私の心を正直に映し出しているようで、胸が痛かった。
「でもまあ……たまには、普通の姉ちゃんになってもいいんじゃね」
「普通って何よ」
「知らんけど、もっとダラダラしたりさ」
「それは無理だわ」
二人して吹き出した。こういう会話、なんか久しぶりだったかもしれない。いつもは部活の話ばかりで、こんな風に他愛もない話をする時間は少なかった。
夜、部屋の机で勉強しようと思ったけど、ノートを開いたままぼーっとしてた。明かりだけが静かに灯っていて、気づけばスマホのメモを開いていた。
さっきの美月の言葉、斉藤の言葉、弟の言葉。
全部が、なんか繋がってる気がした。
「引退後の自分がわからない。でも、わかんなくていいのかも」
そう打って、少し考える。
「未来って、決まってるもんじゃなくて、作っていくもんなんだろうな」
そうメモして、スマホを伏せた。
ふわっとした不安は、まだ完全には消えてない。でも、今日一日でちょっとだけ、前よりは怖くなくなった気がする。それは、誰かに自分の弱さを打ち明け、受け止めてもらえたことで得られた、小さな自信だった。
……よし、引退したらまず、髪型でも変えてみようかな。
今よりちょっとだけ、自分のこと好きになれるように。




