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『青嵐クロニクル~35人の青春群像~』  作者: あるき
7月:「暑さとともに募る想い」
95/122

7月4日(金曜日)

「ふう……終わった……」

 期末考査最終日の五時間目。英語表現の試験が終わるチャイムが鳴り響くと同時に、俺、石川拓海は、大きく息を吐き出した。重たかった空気が一気に軽くなり、教室中に安堵のため息が広がった。クラスメイトたちは、解放されたように騒ぎ始め、「やべー、今回も赤点コース」「マジで数学死んだわ」と口々に言い合っている。

 俺は、そんな喧騒から逃れるように、静かに席を立った。カバンを手に、足早に教室を出る。向かう先は、美術室だ。ここ数日、試験のプレッシャーと、三者面談で父に言われた「就職が……」という言葉が、ずっと頭の中でぐるぐると渦巻いていた。誰とも話したくなかったし、誰にも会いたくなかった。ただ、一人になりたかった。

 廊下を歩く間も、すれ違う生徒たちの声が耳に届く。「どこ遊び行く?」「期末終わったしカラオケ行こうぜ!」そんな言葉が、今の俺にはひどく遠く感じられた。みんなが楽しそうにしている姿が、眩しくて、少しだけ胸が痛む。俺には、そんな「普通」の青春が、ひどく遠い場所にあるように思えた。

 美術室のドアを開けると、ひんやりとした空気が肌を包んだ。絵の具の匂いがふわりと鼻腔をくすぐり、心が少しだけ落ち着く。誰もいない。静かだ。ここだけが、俺の「セカンドプレイス」だ。

 俺は無言でイーゼルに向かい、新しいキャンバスを立てた。白い。真っ白なキャンバスが、今の俺の心境を映し出しているかのようだ。何を描くか、決めていない。でも、描かなければ、この胸のざわつきは収まらない気がした。

 パレットに絵の具を出す。赤、青、黄色、黒。チューブから絞り出される色たちが、まるで俺の感情のようだと思った。色を混ぜる。指先で、筆で。混じり合う色が、俺の心を映し出す。

(試験じゃ測れない「自分」を、ここにぶつけるんだ)

 そう心の中でつぶやき、最初の一筆をキャンバスに落とした。

 筆を走らせるたびに、頭の中にあった言葉が、ぐちゃぐちゃの線となって現れていく。父の言葉。「就職が……厳しい」「現実を見ろ」。その言葉が、俺の「好き」を否定しているように感じられた。美術の道を志すことは、安定を求める父にとっては理解できないことなのだろう。それは分かっていた。でも、それを直接突きつけられるのは、あまりにも辛かった。

 悔しい。情けない。悲しい。

 そんな感情が、筆を通してキャンバスにぶつけられていく。赤が、黒が、キャンバスの上で暴れるように混じり合い、やがて暗い色へと変化していく。それは、俺の中の怒りや絶望を表現しているかのようだった。

 描いている間、時間も、周りの音も、すべてが遠のいていく。ただ、キャンバスと俺だけが存在する。この瞬間だけは、誰にも邪魔されない。誰にも否定されない。

 美術室の窓から差し込む夕陽が、キャンバスの一部を赤く染めた。その光が、俺の心にわずかな温かさをもたらす。ふと、数日前の北川との会話を思い出した。彼女もまた、父に「就職が……」と言われたこと、そして「書くことが私を私でいさせてくれる」と語っていた。

(俺だけじゃないんだ……)

 そのことに気づくと、心が少しだけ軽くなった。

 筆を握る手に、再び力がこもる。感情のままに色を重ねていく。暗い色の中に、わずかな光が差し込むように、白を混ぜていく。それは、どんなに苦しくても、諦めたくないという俺の強い思いの表れだった。

 キャンバスの上で、色が重なり、形が生まれていく。それは、試験では決して測れない、俺だけの「自分」の姿だ。誰かの評価のためではない。誰かの期待に応えるためでもない。ただ、自分のために。自分自身を表現するために。

 どれくらいの時間が経っただろう。気づけば、美術室はすっかり夕闇に包まれていた。キャンバスの前に立つ俺の姿は、影となって壁に大きく映し出されている。

(もう、これでいい)

 筆を置くと、全身の力が抜けていくのを感じた。キャンバスの上に描かれたのは、感情の塊のような、抽象的な絵だった。それは、誰が見ても美しいとは思わないかもしれない。でも、今の俺にとっては、それこそが真実だった。

 美術室の鍵を閉め、校舎を出ると、空はもうすっかり夜の帳が降りていた。星が瞬き始め、遠くで虫の音が聞こえる。帰り道、俺はスマホを取り出し、北川にLINEを送った。

「今日、絵を描いた。なんか、ちょっとだけ、スッキリした」

 すぐに「お疲れ様。見に行ってもいい?」と返信が来た。

(ああ、この人には、きっと伝わるだろう)

 そう思うと、心がじんわりと温かくなる。

 家に帰り、自室のベッドに倒れ込んだ。疲労感で身体は重いが、心はどこか満たされていた。今日の絵は、誰かに見せるためではない。でも、誰かに「見てみたい」と言われたことが、俺の心に小さな光を灯してくれた。

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