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『青嵐クロニクル~35人の青春群像~』  作者: あるき
7月:「暑さとともに募る想い」
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7月3日(木曜日)

「うぅ……頭痛い……」

朝から、弟の慎也がぐったりとベッドに横たわっていた。昨夜から熱が出始めて、今朝になっても下がらない。私、上原由佳は、慌てて額に冷却シートを貼り付け、体温計を脇に挟んだ。表示されたのは38.5度。平熱よりも明らかに高い数字に、心臓が小さく跳ねる。


「お姉ちゃん……学校、行かなくていいよ……」

か細い声で慎也が言う。その言葉に、胸がギュッと締めつけられる。期末考査の真っ最中で、今日は英語と理科。休むわけにはいかない。成績を落とすわけにはいかないし、何より、自分の進路に関わる大事な試験だ。でも、このまま慎也を一人にしていくのも心配だ。私が家にいなければ、母の看病と弟の世話は誰がするのだろう。


母は、奥の部屋でまだ静かに寝息を立てている。持病の療養中で、最近特に体調が優れないことが多い。数年前から慢性の病を患い、仕事も辞めて静養に努めている。私と慎也は、母に心配をかけまいと、できるだけ家では明るく振る舞うようにしている。だから、慎也がこんな風に感情をあらわにするのは、よほど追い詰められている証拠だった。


「大丈夫だよ、慎也。お姉ちゃん、ちゃんと学校行くから。お昼になったらお粥作ってあげるね」

そう言って、私は無理に笑顔を作った。本当は、自分が一番、限界に近づいているのを感じていた。弟の看病、母の体調管理、そして自分の期末考査。全てが重くのしかかって、心が軋むようだった。まるで、壊れかけた機械のように、体中が悲鳴を上げているのを感じる。

学校に着くと、昇降口には期末考査を受ける生徒たちの姿がまばらに見えた。教室は期末考査の緊張感に包まれていた。周りのクラスメイトは真剣な顔で問題用紙とにらめっこしていて、その集中した空気に、私だけが取り残されているような気分になった。頭の中では、慎也の咳の音と、母の苦しそうな寝息が、何度も繰り返されていた。それが、鉛筆を握る手から、じわじわと力を奪っていく。

英語の試験中、頭がぼんやりして、文字が頭に入ってこない。リスニングの問題も、何を言っているのかほとんど聞き取れなかった。まるで外国語を聞いているかのようだ。理科の試験では、化学式がまるで暗号のように見えて、鉛筆が止まってしまう。焦れば焦るほど、思考が空回りしていく。心の中で「頑張らなきゃ」と繰り返しても、身体が言うことを聞かない。

(このままだと、全部中途半端になっちゃう……)

昼休み。友達が「由佳、どうだった?今日のテスト、難しかったよね」と声をかけてくれたが、私は曖昧に笑ってごまかした。心配をかけたくなかったし、正直な気持ちを話す余裕もなかった。お弁当を広げても、食欲が湧かず、ほとんど手をつけられなかった。口に入れたものが、砂のようにジャリジャリする。

午後、5時間目の試験が始まる前、私はこっそり教室を抜け出した。向かったのは、保健室だ。学校の喧騒から逃れるように、静かな廊下を足早に進む。

ドアを開けると、保健室の渡辺先生が優しい笑顔で迎えてくれた。「あら、上原さん。どうしたの?」


「あの……ちょっと、気分が悪くて……」

そう言うのが精一杯だった。本当は、涙が止まらないのをどうにかしたかった。もう、限界だった。

渡辺先生は、何も言わずに私をベッドへと案内してくれた。シーツの冷たさが背中に心地よく、横になっただけで、体中の力が抜けていくのを感じた。まるで、張り詰めていた糸が、ぷつりと切れたようだ。

「無理しなくていいよ。疲れた時は、休んでもいいんだから」


渡辺先生のその一言が、まるで許しのように胸に沁みた。堪えていたものが、一気に溢れ出しそうになった。涙が目の奥にこみ上げてきて、必死でこらえた。誰かに弱みを見せるのが苦手で、「大丈夫」と強がってきた自分が、こんなにも脆いなんて。

(私、本当は、もう限界だよ……)

声に出して叫びたい衝動に駆られたが、ぐっと唇を噛みしめた。誰にも、この弱さを見られたくなかった。完璧でなければならない、人に優しくあらねばならないという、自分自身に課した重圧が、今、私を押し潰そうとしていた。


目を閉じると、頭の中には慎也の苦しそうな顔と、母の青白い顔が浮かんでくる。私がしっかりしないと、この家は回らない。そう、ずっと自分に言い聞かせてきた。でも、もう、一人で抱えきれない。

カーテンの隙間から、やさしい風が入ってくる。遠くから、部活の声が聞こえる。バレーボール部の朝倉の声、野球部の江口の声、陸上部の寺田の声。みんな、それぞれの「青春」を謳歌しているのに、私だけが、こんなところで立ち止まっている。

(私には、自分の時間って、どこにあるんだろう……)

誰かの役に立ちたい。母や弟を支えたい。そう思ってきたけれど、自分のことは、ずっと後回しにしてきた。自分の進路ややりたいことよりも、家庭を優先しなければという責任感に縛られてきた。その結果が、今の「空っぽな自分」だ。

チャイムが鳴る。6時間目の授業開始だ。きっと今頃、教室ではみんながテストを受けているのだろう。私は、ここで、何をすべきなのだろう。

静かな保健室のベッドで、私は涙をこらえながら、天井をじっと見つめていた。流れる涙の代わりに、心の奥に、小さな決意の火が灯った気がした。それは、もう自分を偽らず、自分の本音と向き合いたいという、かすかな希望の光だった。

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