7月2日(水曜日)
「うぅ……」
期末考査二日目の数学。私、岡田真由は、問題用紙とにらめっこしながら、小さくうめき声を漏らした。昨日提出したはずの模試の自己採点結果が、まだ脳裏に焼き付いている。D判定。そして、姉の梨奈に言われた「もっとワガママになっていい」という言葉 。その両方が、試験中の私を惑わせていた。頭の中では、焦燥感がぐるぐると渦巻いている。
(なんで、こんな簡単な問題が解けないんだろう……)
焦る気持ちとは裏腹に、ペンはピタリと止まってしまう。頭の中はぐちゃぐちゃで、問題文がまるで意味をなさない記号の羅列に見えた。周囲からは、シャーペンの芯が紙をこする音、教科書をめくる音が聞こえる。みんながどんどん先に進んでいるのに、私だけが取り残されているような感覚だった。この期末考査が、自分の進路に直結すると思うと、余計に手が震える。
ふと、右手のシャープペンが、無意識のうちに教科書の余白へと滑り出した。
そこには、小さく、不確かな文字で「将来やりたいこと」と書き込まれていく。試験中なのに、そんなことばかり考えてしまう自分に、少しだけ嫌気がさした。こんなことをしている場合じゃないと頭では分かっているのに、指が止まらない。
(何が、やりたいんだろう……)
問いかけても、答えは出てこない。空欄のまま、文字はそこで止まってしまう。真っ白な余白が、まるで今の私の心のようだと思った。まるで、自分の未来そのものが、この空欄のように漠然としているような気がした。
試験監督の今井先生が、教卓から静かに見回している。その視線が、なぜか私に突き刺さるように感じて、慌ててペンを問題用紙に戻した。冷や汗が背中を伝う。
昼休み。解放された教室は、一気に賑やかさを増した。「数学、爆死したー!」「英語、やばすぎ!」そんな声が飛び交う中で、私だけが一人、窓の外をぼんやり眺めていた。グラウンドでは、サッカー部が楽しそうにボールを蹴っている。彼らは、自分の「好き」にまっすぐだ。あの江口くんも、きっと今頃は仲間と笑い合っているのだろう。彼らの姿が、眩しくて、少しだけ遠く感じられた。
「真由、どうだった?今日の数学、難しかったよね」
北川詩織が、心配そうに声をかけてきた。彼女は文芸部で、いつも静かで、どこか私と似た雰囲気を持っている。最近、古書店で再会した大学生との出会いをきっかけに、彼女の表情も少し柔らかくなったように見える。
「う、うん……全然、手応えなくて」
思わず正直な気持ちを口にすると、北川は「そっか……私も、ちょっと難しかった」と微笑んだ。その優しい言葉に、少しだけ胸のつかえが取れた気がした。誰かと、この不安を共有できるだけでも、こんなにも違うものなのかと、少し驚いた。
午後の授業も、試験が続く。集中しようとすればするほど、頭の中は「やりたいこと」の文字と、埋まらない空欄でいっぱいになってしまう。焦れば焦るほど、思考が空回りしていく。まるで、時間が加速しているかのように感じるのに、問題は一向に解けない。
(このままで、いいのかな……)
試験が終わるチャイムが鳴り響く。ペンを置くと同時に、体中の力が抜けていくのを感じた。解放感よりも、どっと押し寄せる疲労感と、満たされない気持ち。教科書の余白に残された「将来やりたいこと」の空欄が、今日の私の全てを物語っているようだった。それは、まるで自分自身の不甲斐なさを突きつけられているような感覚だ。
放課後、帰り道。駅までの道を歩きながら、私はスマホを取り出して、姉の梨奈にLINEを送った。
「今日、期末考査だったんだけど、なんか全然集中できなくて……」
すぐに「お疲れ様」というスタンプが返ってきた。
(梨奈だったら、こんなふうに悩まないのかな)
姉は、昔から自分の目標にまっすぐで、迷うことなんてないように見えた。私とは違う。私には、何もない。そう思ってしまうと、途端に心が沈んでいく。足取りも自然と重くなる。
家に帰り、自室のベッドに倒れ込んだ。バッグから教科書を取り出すと、あの余白が目に飛び込んできた。埋まらなかった「将来やりたいこと」。それは、まるで私自身の空っぽの未来を象徴しているかのようだった。
その夜、私は、机に向かい、白紙のノートを広げた。ペンを握り、もう一度、真ん中に「将来やりたいこと」と書き出した。
今度は、その周りに、思いつく限りの言葉を書き連ねていく。
『小学校の先生
子どもたちに絵本を読んであげたい
一緒に折り紙をしたい
人の役に立ちたい
誰かを笑顔にしたい
でも、具体的に何をすればいいか分からない
特別な才能なんてない
ワガママになりたい
自分の本当の気持ちって、なんだろう』
書き終えた後、ノートをそっと閉じた。答えは、まだ見えない。でも、自分の気持ちを言葉にできたことで、少しだけ心が軽くなった気がした。まるで、心の奥に溜まっていた澱が、少しだけ洗い流されたような感覚だ。
窓の外は、静かな夜。遠くで、電車の音が聞こえる。その音が、規則正しく、しかしどこか優しく、私の心に響く。明日から、また新しい一日が始まる。期末考査はまだ続く。




