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『青嵐クロニクル~35人の青春群像~』  作者: あるき
6月:「揺れる気持ちと小さな光」
91/122

6月30日(月曜日)

 朝、昇降口で上履きに履き替えていると、校舎全体にいつもとは違う、どこかざわついた空気が漂っているのを感じた。今日は、先日の模試の結果が返却される日だ。普段は朝練で賑やかなグラウンドも、今日はどこか静まり返っているように見えた。

「はぁ……」

 思わず、小さなため息が漏れる。俺、青山大輝は、胸の奥で複雑な感情が渦巻いているのを感じていた。模試の結果がどうであれ、この日が来るのは、いつも憂鬱だった。

 教室に入ると、すでに何人かのクラスメイトが席に着いていた。皆、どこか落ち着かない様子で、手元のスマホをいじったり、机に突っ伏したりしている。担任の今井先生は、教卓で分厚いファイルを開いて、生徒たちの名前が書かれた紙を眺めている。その表情は、いつもと変わらないように見えたが、その視線は、どこか鋭く感じられた。

 1時間目のホームルームが始まり、今井先生が静かに口を開いた。

「よし、みんな。今日のホームルームで、先日の模試の結果を返却する。結果に一喜一憂することなく、今後の学習に活かすように」

 その言葉と同時に、教室の空気が一段と張り詰めた。先生が手元のファイルをめくり、一人ひとりの名前を呼び始める。呼ばれた生徒は、緊張した面持ちで教卓に向かい、自分の答案用紙と成績表を受け取っていく。

「……青山」

 俺の名前が呼ばれた瞬間、心臓がドクンと大きく跳ねた。いつも冷静なはずの自分が、なぜか今日は落ち着かない。ゆっくりと席を立ち、教卓に向かった。

 今井先生は、俺の顔をまっすぐ見て、小さく頷いた。

「青山は、よく頑張っている。この調子で、これからも努力を続けてほしい」

 そう言って、俺の答案用紙と成績表を渡してくれた。俺は無言でそれを受け取り、自席に戻った。

 席に着くと、誰にも見られないように、そっと答案用紙を開いた。

 国語:182点。

 数学:195点。

 英語:198点。

 総合:780点(900点満点)。

 そして、成績表の真ん中に書かれた「総合順位:学年1位」の文字。

 その数字と文字を見た瞬間、俺の心に、ふわりとした安堵感が広がった。今回も、トップを維持できた。父や兄の期待を裏切らなかった。

 しかし、その安堵感は、すぐに別の感情に取って代わられた。

(……でも、満点じゃない)

 国語は8点、数学は5点、英語は2点。合計15点も取りこぼしている。ケアレスミス、あと一歩のところで届かなかった知識、時間配分のミス。そう思うと、途端に、この「1位」という結果が、ひどく色褪せて見えた。

「なんだろう、この感じ……」

 満たされない。決して悪い結果ではない。むしろ、周りから見れば十分すぎるほどの高得点だ。だけど、俺の心は、なぜか一点も満たされなかった。

 隣の席の北川が、ちらりとこちらを見てきた気がしたが、俺は視線を逸らし、手元の答案用紙をじっと見つめた。鉛筆を握る手が、じんわりと汗ばんでいる。

 昼休み、クラスの至るところで、模試の結果を巡る会話が飛び交っていた。「やばい、今回も数学爆死」「英語、リスニングが全然聞き取れなかった」「A判定だった!やったー!」。みんな、結果に一喜一憂している。

 俺は、そんなクラスの喧騒から逃れるように、一人で弁当を広げた。味は、ほとんどしなかった。

(俺、何目指してんだっけ……?)

 心の中で、そんな問いが何度も繰り返された。

「東大」——それが、父の望みであり、兄が歩んだ道だ。俺も、それに疑問を抱くことなく、ただひたすらに努力を積み重ねてきた。しかし、今日のこの満たされない感情は、その「目標」そのものへの疑問を投げかけているようだった。

 放課後、教室を出ようとすると、担任の今井先生に呼び止められた。

「青山。今回の模試の結果、非常に素晴らしい。この調子で、志望校に向けて頑張ってほしい」

 先生の言葉は、素直に嬉しかった。でも、同時に、胸の奥がチクリと痛んだ。先生も、俺の「満たされない」気持ちには気づいていない。

「はい。ありがとうございます」

 そう言って、俺は足早に校舎を出た。

 夕暮れの空が、校舎の屋根を赤く染めていく。風が、頬をかすめていく。

(完璧じゃないと、意味ないのか。俺の努力は、誰のためなんだ)

 帰りの電車の中、窓の外に流れる景色をぼんやりと眺めていた。スマホの通知はたくさん来ている。クラスのグループチャットは、模試の話でまだ盛り上がっている。しかし、俺はそれに返信することなく、ただ画面を伏せた。

 家に帰り、自室のベッドに倒れ込んだ。バッグから、今日の模試の結果が入った封筒を取り出す。改めて「学年1位」の文字を目にしても、心が晴れることはなかった。

 その夜、青山大輝は、机に向かい、白紙のノートを広げた。ペンを握る手は、どこか力が入らない。

「俺、何目指してんだっけ……?」

 その問いを、ノートの真ん中に大きく書き出した。

 その周りに、今、自分が抱える感情を言葉にして書き連ねていく。

『学年1位。でも、満たされない。

 1点でも足りないと、全部がダメに見える。

 父の期待、兄の背中。

 誰かの理想を追いかけるのは、もう疲れた。

 俺は、本当に東大に行きたいのか?

 教師になりたいと、本当に思っているのか?

 この努力は、誰のため?

 何のために、俺はここにいるんだ?』

 言葉が、とめどなく溢れてくる。誰にも見せない、自分だけの正直な気持ち。

 書き終えた後、ノートをそっと閉じた。答えは、まだ見えない。だけど、自分の感情を言葉にできたことで、少しだけ心が軽くなった気がした。

 窓の外は、静かな夜。遠くで、電車の音が聞こえる。明日から、また新しい一日が始まる。

(完璧じゃなくても、いい。

 誰かのためじゃなくて、自分のために。

 俺は、俺の道を探すんだ)

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