6月29日(日曜日)
日曜日の午後、リビングには柔らかな日差しが差し込んでいた。カーテンの隙間から吹き込む風が、レースのカーテンをふわりと揺らす。テーブルの上には、母が淹れてくれた紅茶と、姉が買ってきたケーキが並んでいる。いつもなら賑やかなリビングも、今日は静かだった。父は仕事で不在、母は趣味の園芸で庭に出ていて、家には私、岡田真由と姉の梨奈の二人きりだ。
「真由、これ、新作のチーズケーキ。一口食べる?」
姉の梨奈は、有名私立大学に通う2年生で、経済学を専攻している 1。高校時代は常に学年トップを争った秀才で、私にとっては憧れの存在であり、同時にプレッシャーでもあった 2。優しくて要領が良い姉は、いつも私を気遣ってくれる 3。
「あ、うん、ありがとう」
私は紅茶を一口含み、小さく頷いた。口の中に広がる甘さが、なぜか今日は少し苦く感じられた。先日の三者面談でのことが、まだ胸に引っかかっていたからだ。私の志望校である県内の私立女子大の教育学部について、母は「もっと上を狙える」と言った。先生は私の意思を尊重してくれたけれど、母の納得していない表情が頭から離れない。
「真由、最近どう?なんか、元気ない?」
梨奈が、ケーキをフォークで切り分けながら、ふと心配そうに尋ねてきた。
「え、そ、そんなことないよ。模試の結果がD判定だったから、ちょっと焦ってるだけ」
私は努めて明るい声で答えたが、声が少し上ずってしまった。模試の結果は、D判定だったけれど、それ以上に、自分の気持ちが定まらないことへの焦りが大きかった 4。
梨奈は、私の言葉に小さく息を吐いた。
「そっか。でもさ、真由、あんたもっとワガママになっていいのに」
その言葉が、私の胸にまっすぐに刺さった。
「え……?」
「いつもさ、人の期待に応えようとしすぎじゃない?お父さんやお母さんの期待とか、先生の期待とか。もちろん、それは真由のいいところだけど、たまには自分の好きなこと、やりたいこと、もっと声に出していいんだよ」
梨奈の言葉は、まるで私の心の奥底を見透かされているようだった。驚きと、少しの戸惑いが胸に広がる。
「私、ワガママなんて……」
そう言いかけたけれど、言葉が続かなかった。ワガママ。私にとってそれは、決して良い意味ではない言葉だった。幼い頃から「真由は手のかからない子」「お姉ちゃんを見習ってしっかりしなさい」と言われて育ってきた 5。周囲の期待に応えることが、いつの間にか私の「当たり前」になっていたのだ。
「真由はさ、昔から本当にいい子だったよ。私の後を追って、何でも完璧にこなそうとして。でも、完璧じゃない自分を見せるのが怖いって思ってるでしょ?」
梨奈は、私の目をまっすぐに見つめてきた。その視線に、私は何も言い返せなかった。バレている。私の心の奥底にある、誰にも言えなかった本音が、姉には全て見透かされている。
「無理して完璧でいる必要ないんだよ。真由が本当にやりたいこと、それを一番大切にしなよ。そしたら、周りもきっと応援してくれるから」
梨奈の言葉は、優しくて、温かかった。でも、同時に、私の中にずっと隠してきた「ワガママになりたい」という小さな願望を、容赦なく掘り起こしていく。それは、解放されるような感覚でもあり、同時に、今まで築き上げてきた「いい子」の自分が崩れていくような怖さでもあった。
リビングには、静かに紅茶の香りが漂い、壁掛け時計の秒針の音だけが響く。外から聞こえる鳥のさえずりが、どこか遠くに感じられた。
「……梨奈はさ、大学で、本当にやりたいこと見つかった?」
私がポツリと尋ねると、梨奈は少しだけ微笑んだ。
「うん。もちろん、悩むことはたくさんあるよ。でも、自分の意思で選んだ道だから、後悔はしないって決めてる。真由もさ、自分の人生、自分で決めないと。それが一番、楽しいことだから」
その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。梨奈は、いつも私より一歩先を進んでいる。だからこそ、彼女の言葉には、説得力があった。
「……私、どうしたらいいんだろう」
思わず、そう呟いた。ワガママになるって、どうすればいいんだろう。自分の本当の気持ちを、どうやって見つければいいんだろう。
「焦らなくていいよ。でも、もし、誰にも言えない悩みがあるなら、私に話して。姉として、いつでも話を聞くから」
梨奈はそう言って、私の頭をそっと撫でた。その手の温かさが、私の中にあった重い塊を、少しだけ溶かしてくれるようだった。
その日、岡田真由は、姉の言葉が胸に刺さったまま、自室のベッドに横になった。天井を見上げると、白い壁がどこまでも続くように見えた。
(ワガママになる……か)
難しい。でも、梨奈の言葉は、私に新しい視点を与えてくれた。誰かの期待に応えるだけじゃない。自分の人生を、自分の手で選び取る勇気。
私は、机の引き出しから、小学校の教員になりたいという夢を初めて書いた、あの古い日記帳を取り出した。色褪せたページをめくる。そこには、子どもの頃の私の、純粋な「好き」が詰まっていた。
「……もしかしたら、これが、私のワガママ、なのかもしれない」
そうつぶやいて、私は日記帳をそっと閉じた。
翌日、また新たな一週間が始まる。まだ、答えは見えない。でも、ワガママになるための、小さな一歩を踏み出せる気がした。それは、私自身への、静かな、そして確かな決意だった。




