6月28日(土曜日)
「いらっしゃいませー」
古書店のドアを開けると、カウベルの音がカランと心地よく鳴った。土曜日の午後、外は梅雨の合間の晴れ間が広がり、からっとした気持ちの良い風が吹いている。私、北川詩織はいつもなら家で詩集を読んだり、文芸部の原稿を推敲したりしている時間だけど、今日はどうしてもこの場所に来たかった。先日の三者面談で父に言われた「文学部は就職が……」という言葉が、まだ胸に鉛のように重くのしかかっていたからだ。その言葉は決して強い口調ではなかったものの、私にとっては自分の「好き」そのものを否定されたかのように感じられ、深い傷となっていた。そのモヤモヤとした気持ちを抱えたままでは、どうにも言葉を紡ぐことができなかったのだ。
店内に一歩足を踏み入れると、ひんやりとした空気と、紙とインクが混じり合った独特の香りがふわりと鼻腔をくすぐる。薄暗い店内には、天井まで届くかと思うほどの背の高い本棚がずらりと並び、古びた本たちが静かに息づいている。この〈ふくろう書房〉は、私にとって学校や家庭とは異なる「セカンドプレイス」であり、心が落ち着き、自分自身と向き合える唯一の場所だった 1。
お目当ての詩集を探して、奥の棚へとゆっくりと足を進める。指先で背表紙をなぞりながら、ふと、ある一点で手が止まった。見慣れた、それでいて少し懐かしい横顔が視界の端に映り込んだからだ。
「……あれ?」
黒縁メガネの奥で、真剣な眼差しが手に持った本に向けられている。そこにいたのは、相馬優一さんだった。以前、この古書店で偶然出会い、ほんの少しだけ言葉を交わした大学生だ 2。あの時、彼は私の書いた詩に「言葉で世界を表現したい」という気持ちが込められていることを、唯一理解してくれたような気がした人だった。彼との会話は短かったけれど、私の心に深く残っていたのだ 3。
「相馬さん……?」
思わず、か細い声で呼びかけると、彼はゆっくりと顔を上げた。私の顔を認めると、彼の口元に優しい笑みが浮かんだ。その笑顔を見た瞬間、私の心の奥に溜まっていた重い空気が、少しだけ軽くなった気がした。まるで、凍りついていた何かが、ゆっくりと溶けていくような感覚だった。
「あ、北川さん。こんなところで会うなんて、奇遇ですね」
ぎこちなく答える私に、彼は手に持っていた詩集をちらりと見せた。「この詩集、ずっと探してたんです。まさかこんな場所で見つかるなんて。北川さんも、何かお探しですか?」と、彼は穏やかな声で尋ねてきた。
「ええ、まあ……」
私は曖昧に答えるしかなかった。本当は、特定の何かを探しに来たわけではない。ただ、三者面談で受けた心の傷を癒すために、この静かで安らぎに満ちた場所に逃げ込んできただけだ。そうまさんには、その本音を話す勇気がまだなかった。
「そういえば、北川さん、詩を書かれるんでしたよね?」
彼の言葉に、ドキリとした。あの時、ほんの少しだけ話したことなのに、彼はそれを覚えていてくれたんだ。その記憶力と、私への関心に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
「はい……たまに、ですけど」
私は、少しだけ頬を染めながら答えた。自分の創作活動について、人前で話すのはいつも照れくさい。特に、文学を専門とする彼のような人に聞かれると、余計に緊張してしまう。
「そうなんですね。あの時、少しだけ話を聞かせてもらって、すごく興味が湧いたんです」
彼は、少しだけ身を乗り出すようにして、私に言った。その真剣な眼差しが、私の心を捉えて離さない。
「もしよかったら、北川さんが書いた詩、読んでみたいです」
その言葉が、私の耳に、そして心の奥底にまで、まっすぐに響いた。まるで、冷たい水が身体中に染み渡るように、全身が震えるのを感じた。
「え……?」
思わず、もう一度聞き返してしまった。今まで、家族にも、親しい友人にも、自分の詩を読ませたことは一度もない。文芸部の仲間たちと部誌に載せることはあっても、個人的に誰かに見せるなんて、考えたこともなかった。それは、自分の内面をさらけ出すことへの羞恥心と、何よりも、理解されないことへの深い恐怖があったからだ。特に、父に「就職が……」とやんわりと釘を刺され 4、自分の「好き」が否定されたばかりだった。そんな時に、彼は、私の「好き」を、何の条件も付けずに、純粋な好奇心と、まっすぐな言葉で「読んでみたい」と言ってくれたのだ。
それは、私にとって、生まれて初めて「肯定された」気がした瞬間だった。言葉では言い表せないほどの温かいものが、胸の奥からこみ上げてくる。
「あの……でも、私の詩なんて、大したものでは……」
謙遜の言葉が口から出たけれど、彼の目は、まっすぐに私を見つめていた。その視線は、父や先生の、どこか遠くを見ていた視線とは全く違った。彼の瞳には、純粋な興味と、私への敬意が宿っているように見えた。
「そんなことないですよ。言葉で世界を表現するって、すごく素敵なことだと思います。ぜひ、読んでみたいです」
彼の言葉に、私の心は大きく揺さぶられた。この人なら、もしかしたら、私の詩を、そして、詩を書くことに情熱を傾ける私自身を、深く理解してくれるかもしれない。そう思ったら、今まで心の奥に閉じ込めていた感情が、少しずつ表に出てくるのを感じた。
「……じゃあ、もし、よかったら……今度、お持ちします」
私は、か細い声で答えた。その声は、震えていたけれど、確かに自分の中から生まれた言葉だった。
「ありがとうございます。嬉しいです」
相馬さんは、本当に嬉しそうな顔で笑った。その笑顔に、私の心も、少しだけ晴れやかになった。古書店での再会は、私にとって、まるで暗闇の中に差し込んだ一筋の光のようだった。誰にも言えなかった、誰にも理解されないと思っていた私の「好き」が、初めて肯定された瞬間。それは、私の中に、新たな勇気を灯してくれた。
その日、北川詩織は、家に帰ってから、久しぶりに心から筆を走らせた。
『就職という現実に、私の夢は揺らいだ。
父の言葉は、氷のように冷たく、私の心を凍らせた。
でも、古書店で出会った一筋の光が、私の魂を温める。
「詩、読んでみたい」
その言葉が、私を包む肯定の光となり、
言葉で生きたいと願う私の存在を、許してくれた。
書くことだけが、私を私でいさせてくれる。
この筆だけが、私の真実を紡ぐ、唯一の道。
誰にも理解されないかもしれないこの情熱。
それでも、私は書き続ける。
もう、怖くない。
この筆が、私と世界を繋ぐ、確かな希望だから。』
ノートに書き記された言葉は、以前よりも力強く、迷いが消えたように見えた。文字の一つ一つに、面談で感じた葛藤と、相馬さんとの出会いによって得られた小さな希望が込められていた。
翌日、私は、相馬さんに渡すための詩を、いくつか選び始めた。まだ、少しだけ不安はある。自分の書いたものが、彼の期待に応えられるだろうか。でも、それよりも、誰かに自分の詩を読んでもらえることへの期待が、胸の中に大きく広がっていた。それは、これまで感じたことのない、新たな創作への意欲でもあった。
古書店での出会いが、彼女の心を、そして未来を、少しだけ明るく照らした土曜日の午後だった。




