6月26日(木曜日)
「お姉ちゃん、うう……」
リビングのソファで、弟の慎也が顔を埋めて泣いていた。時刻は夜8時過ぎ。宿題のドリルを前に、どうしてもわからない問題があったらしい。横に座っていた私、上原由佳は、弟の震える背中をそっと撫でた。
「どうしたの? 慎也。そんなに泣くことないでしょ」
「だって、何度やってもわかんないんだもん……明日のテスト、絶対零点だよぉ」
声を出して泣く弟の姿に、私の心臓はギュッと締めつけられた。普段は明るくて、何でも一人でこなそうとする慎也が、こんな風に弱音を吐くのは珍しい。
母は、奥の部屋で静かに寝息を立てている。持病の療養中で、ここ数日は特に体調が優れない。私と慎也は、母に心配をかけまいと、できるだけ家では明るく振る舞うようにしている。だから、慎也がこんな風に感情をあらわにするのは、よほど追い詰められている証拠だった。
「お姉ちゃんが教えてあげるから、大丈夫だよ。ほら、どこがわからないの?」
私がそう言うと、慎也は顔を上げて、潤んだ瞳で私を見つめた。
「お姉ちゃんは、平気なの……?」
その一言に、私の心臓がドクンと跳ねた。何が平気か、慎也は言わなかった。でも、その問いかけの中に、弟なりの気遣いと、私への心配がにじんでいるのが分かった。
宿題のことだけじゃない。母の体調、父の不在、私の進路。全てが、弟にも伝わっている。私ばかりが「大丈夫」と強がってきたことまで、見透かされているような気がした。
「……ちょっとだけね」
そう言って、私は笑ってみせた。無理やり作った笑顔だった。でも、そうとでも言わないと、弟がもっと不安になる気がした。そして、私自身も、自分の本音から目を背けたかったのかもしれない。
「ほら、ここ、こうやって解くんだよ」
私は慎也の隣に座り、ドリルのページを開いた。慎也が泣いている間、私の心の中では、今日一日の出来事がぐるぐると渦巻いていた。
学校での授業中、先生が「三者面談、まだ終えていない人は、来週中に必ず予約するように」と話していた。その言葉が、私の胸に重くのしかかる。母の体調は不安定で、来週の予約もできるか分からない。でも、進路は待ってくれない。
昼休み、クラスメイトの井上さんが「ねえ、上原さん、最近ちょっと疲れてる?」と声をかけてくれた。その優しさに、思わず涙が出そうになった。周りのみんなは、私が頑張っていることを、ちゃんと見てくれている。でも、だからこそ、弱みを見せるのが怖かった。
放課後、保健委員の仕事で保健室に寄った。渡辺先生が「最近、少し無理してないかい?顔色が良くないよ」と、やさしく声をかけてくれた。その言葉に、また胸が締め付けられる。私は、誰かに心配されると、逆に苦しくなる性分だ。
母の体調が悪化してから、私が家事のほとんどを引き受けている。朝は弟の弁当を作り、夜は夕食の準備。そして、母の薬の管理も。全部、私がやらなければ、家が回らない。そう信じて、ずっと頑張ってきた。
でも、それって、本当に私の「やりたいこと」なのだろうか。
先日、担任の今井先生に三者面談の延期をお願いしたとき、「無理しなくていいよ」と言ってもらえた。あのときは、その言葉に救われた。だけど、同時に、自分の進路を後回しにしている焦りも増した。
慎也のドリルを指でなぞりながら、私の頭の中では、まだ答えの出ない問いが繰り返されていた。「私は、何がしたいんだろう」「このままで、本当にいいのだろうか」。
「お姉ちゃん、ここ、わかった!」
慎也が、パッと顔を上げた。その笑顔を見て、私も少しだけ心が軽くなる。弟の笑顔のためなら、頑張れる。そう、ずっと自分に言い聞かせてきた。
宿題を終えた慎也は、「ありがとう、お姉ちゃん!」と満面の笑みで私に抱きついてきた。その小さな温もりが、私の心にじんわりと染みていく。
「お姉ちゃん、おやすみ!」
慎也が自分の部屋に戻っていくのを見送り、私はリビングのソファに深く沈み込んだ。シンと静まり返った部屋で、時計の秒針の音だけが響く。
「……はぁ」
大きなため息をついた。誰もいないからこそ、素直に出る音。
「平気じゃないよ、本当は」
ぽつりと、自分の本音を口にした。
その夜、上原由佳は、自室の机に向かい、ノートの新しいページを開いた。
そこには、今まで誰にも見せなかった「私だけのリスト」が書かれている。
『私のやりたいことリスト』
・母の体調が早く良くなること
・慎也が笑顔でいられること
・誰かの役に立てる仕事に就くこと
・助産師、医療系の道に進むこと
・自分のための時間を作ること
その中に、ひとつだけ、今日、新しく書き足した言葉があった。
『「平気じゃない」と、ちゃんと声に出す勇気を持つこと』
それを書いたとき、私の心に、小さな光が灯った気がした。
窓の外は、静かな夜。遠くで車の音が聞こえる。明日もまた、私の一日が始まる。
母のため、弟のため、そして、少しだけ自分のために。
誰にも見せない場所で、静かに、一歩ずつ、自律への道を歩み始めていた。




